自分史的なクリッピング史料

昨日は台湾での大地震、そして沖縄地方の津波警報、静岡県知事の問題発言と辞任宣言、さらには弾劾裁判等々、自然災害や人為的な問題の発生の連鎖や続く。メディアにとっては取り上げるべきトピックスが多いことは少なくとも情報の伝達のリードオフマンとしてその機能を発揮する力が問われる。
そうそう、大谷選手の今シーズンHR第一号は明るいトピックだった。

読書と共に、個人的に従前から「独学」というものに興味がある。独学大全などベストセラーにもなったりして、そのノウハウなどを開陳する人たちは多い。独学に焦点をあてた著書もだいぶ読んだ。自身の興味・関心を突き詰めることと、生涯における学習の位置づけ、そして仕事との距離感などなどとても気になる話題だ。

2020年5月13日 朝日 時代の栞 「まぼろしの邪馬台国」
1967年刊 宮崎康平 所在地論争 盛り上がる

三国志・魏志倭人伝に記された邪馬台国は、239年に魏へ使者を送り、金印や銅鏡を下賜されたことが伝えられている。このあたりは小学生でも習う日本の歴史のイロハのイだろうか。続くキーワードとして卑弥呼の存在も誰もが知るところであるけれど、未だに邪馬台国の所在地がはっきりしない。当然、所在地論争は今でも続いている。そんな学者間の論争の最中、宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』が一気に身近にしてくれたとある。

宮崎氏は1917年、長崎生まれ、早大卒業後脚本家となり、後家業の建設業を継いで島原鉄道の常務に就任。でも過労がたたり失明。一念発起して九州各地を回り、奥さんの口述筆記で1965年から「九州文学」に連載したものをまとめたのが本書。きっとこの一念発起は失明の後だけにもっと重い意味を持つのだろうか。

宮崎氏が邪馬台国研究を志した理由は、聖徳太子の実在を批判するなどして戦前に早大を辞職させられた古代史研究者・津田左右吉の汚名をすすぎ、一部の学者にもみくちゃにされた歴史のページを庶民の手に取り戻そうと考えたからだ、という相当格好いいコメントが挙げられている。

戦後、日本では神話を歴史としてきた皇国史観が崩れ去り、新たな歴史が形作られようとしたことに論争が始まった様子。いわゆる古代史にメスがはいったという契機になった。1948年には江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」が発表されたりして大胆な仮説が社会に受け入れられるようになった。

『まぼろしの邪馬台国』もそんな時代の一冊。その方法論は緻密で執拗だと記されている。地名の音に注目し、倭人伝に登場する三十余国がどんな国だったかを一つずつ解き明かしていった。
・長い渚や入り江(邪)
・海浜の耕地(馬)
・岬や丘の畑(台)
という意で、島原を最有力候補地としてあげた。

本書は高く評価されて、第一回吉川英治文化賞を受賞した。注目に値するのは宮崎氏は決して古代史の専門家ではなく、アマチュアだったこと。この受賞により、専門研究家との垣根が取り払われ、邪馬台国の所在地論争などに在野の研究者が本格的に参入するきっかけとなったとある。1972年、高松塚古墳で「飛鳥美人」の壁画が発見され古代史ブームが起きる。1979年には雑誌「季刊邪馬台国」が創刊され、1983年には邪馬台国の会が結成され、在野の邪馬台国研究も全国区になった。すごいブーム。それだけ古代史はミステリアスで、研究する価値もありそうだ。

邪馬台国の会の会員は1700人、日本や海外の文献に考古学的に裏付けられた事実を重ねることで、総合的・科学的に古代史を解明することを目指しているとのいコメントも載せられている。

1980年代から発掘調査が急増し、佐賀県・吉野ケ里遺跡など、邪馬台国と同時代と思われる遺跡が次々とみつかった。在野の研究者も含めた多くの研究結果によって邪馬台国の推定地は50カ所を超えている。

ここで専門家のコメントとして「在野の研究者が中国の文献である魏志倭人伝を史料批判することは難しい」とある。一方で歴史書の編集制作を手掛ける方からは、「宮崎さんはプロの研究者の権威的研究を疑う一方で、自らの足で稼いだ知見を重視して、史料解読を自由に行う点が際立っている。この姿勢は在野研究者に引き継がれているのではないか」といったコメント。

現在でも所在地論争は、九州説、畿内説、九州から畿内に移ったという東遷説の3つが有力らしい。隣のコラムでは考古学者の高島(忠平)さんのコメントが寄せられていて考古学者の多くが畿内説を有力としているとのこと。
これは小林行雄・京大名誉教授が示した仮説の影響が大きいと。

小林仮説によれば、畿内から列島各地に古墳時代の三角縁神獣鏡が権力のシンボルとして配布されたとする説だけど、高島さんはこれには懐疑的に意見を述べている。鏡は祭祀の象徴ではあっても権力の為の威信財ではないと思っていると。さらに続けて、邪馬台国を考える上で重要なことは、魏志倭人伝が記す当時の王権はどんなものなのかという視点を持ち、遺物だけではなく遺跡全体を見渡して考古学的事象を読み解くことだとおっしゃっている。

高島さんは、時代的な制約もあって『まぼろしの邪馬台国』の全ての内容を支持はできないけど、前方後円墳の畿内誕生説や遺物のみに基づく議論などについて疑問を提示していることなどは評価に値する、卓見だったとまとめていらっしゃる。そもそも考古学とはどういうものなのか?は知見もないので、語ることもできない。でも独学の領域で一定の評価たる功績を遺すこととは誰にでもチャンスがあるものではないか?とも思う。正しく歴史を追いたいという興味・関心は決して否定されるものではないし、こうしたクリティカル・シンキングも流行した経緯もある。総じて日本人の態度として決められた所与のルールや教説を追うことは得意だけど、在野だろうと学者だろうと、徹底した調べをもってこれを他者に問うことは勇気もいることだし、チャレンジとしての評価は揺るがないものになれば、人の一生を彩るには余りあると思う。






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