自分史的なクリッピング史料

昨日、日本ジャンプ界のレジェンド、笠谷幸生さんの訃報があった。今朝の新聞でもそれを伝えている。

2024年4月27日 朝日 日本ジャンプ界の礎築く
笠谷さん「日の丸飛行隊」後進に刺激

昨夜の訃報にその後オリンピックで活躍した原田選手や船木選手、小林選手等のコメントやインタビューが報じられていた。1972年、札幌オリンピックの象徴的な選手の一人。氷のリンクではジャネットリンが妖精化され、日本で初めての冬季オリンピックの開催は歓喜の渦だった記憶がある。トワエモアの虹と雪のバラードは脳裏に焼き付いている。歌詞の中にある「君の名を呼ぶオリンピックと」というフレーズ。そのフレーズで札幌=オリンピックという等式が子供の頃の自分に焼き付かれた感じだ。

70㍍級のジャンプで笠谷、金野、青地と表彰台を独占し、「日の丸飛行隊」と称され国民を熱狂させたシーンは今でも。ところが90㍍級では笠谷さんは7位に沈んだ。ここで笠谷さんのインタビューコメントが載せられている。「勝負は90㍍級。70㍍級のメダルは、90㍍が始まるまでの代用品みたいなものなんだ」と。ジャンパーの本能は誰よりも遠くに飛びたいというもの。だからこそ90㍍級のジャンプが本番という意識なのだろうか。今ではラージヒルはあるは、フライング選手権はあるはで、その本能を発揮できる場はいくつか設定されている。

笠谷さんは90㍍級での労いの言葉をかけられると、心に深い傷が残っていたという。口数も少なく、気難しい性格で職人気質であったと周囲の人は評していたようだ。日本代表のコーチ時代には親切丁寧に教える指導者ではなかったと。でも口下手だから上手く伝えられなかっただけと当時のスタッフだった人のコメントも。口が重いからこそ、滅多に口に出す人ではなかったからこそ救われた人もいると続く。原田選手だ。98年の長野五輪でなかなか結果が出せなかった原田選手に笠谷さんが労いの言葉をかけたという。

90年代、それまでジャンプ界は板を平行にそろえる飛び方からV字ジャンプに変わり、それをいち早く取り入れたのが原田選手だったから。94年のリレンハメル五輪団体での失敗ジャンプで優勝を逸した責任からスランプに陥っていた原田選手。笠谷さんからの言葉が復活のきっかけだったと回顧している。原田選手、船木選手他全選手が北海道出身。道内のジャンプ少年団で育った人たち。そして五輪での「日の丸飛行隊」の復活。2010年のバンクーバー五輪以降は表舞台にほとんど姿を見せなかったけど、その後笠谷さんにあこがれた指導者たちは有能な後輩を育てあげていった。そう考えるとやはりジャンプ界のレジェンドだ。

大学卒業後はニッカウヰスキーに就職され広報部長の任につかれていたことも知っている。経済紙にも出てきたからだ。レジェンドというのはいつの時代にもいるしうっすらとでも目標となる。それはつまり記憶に残る人だったということだろうか。札幌、冬、オリンピック、日の丸飛行隊、虹と雪のバラード、連想的な記憶は間違いなく失われることはない。ある意味ではそれだけでも素晴らしいことではないかと思う。子供の頃のそうした鮮明で強烈な記憶が過去になっていくとするとやはり歳をとったとも感じる。

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