自分史的なクリッピング史料

予報通りに今日は朝から鬱陶しい雨模様。午後には晴れるというのがせめてもの救いか。というのは今日はワンコの通院日。本当は午前中にと思っていたけど、やはり午後にしよう。政治資金規制法案においては、公明党がハシゴを外した形になった。そうね、なんとなく連立側にすっかり安住してきた公明党の存在というのも、与党としての風格があるのかと言えば、未だそうでもないし、何でもかんでも自民党の言いなりではその存在感を示すことはできないんだろうなぁ。こちらは(自分自身は)と言えば、相変わらずの生活で不眠が続く。昨日かかりつけの医師の診察があったので、一度簡単な検査をしましょうか?と言われ、分かりましたと返事して帰ってきたが、朝3時半くらいに目が覚め、早速TVをつけ、「おはよう時代劇」(TV朝日)の「暴れん坊将軍」シリーズを見てしまう。時代劇というのは、昔から最後は正義が悪を討つというお決まりがあっても飽きることがないのはどうしてだろうか?といつも思う。今の人は見ないだろうけど。

2024年5月29日 朝日 真島茂樹さんを悼む 宮川彬良さん

松平健と言えば、「暴れん坊将軍」と「マツケンサンバ」。その「マツケンサンバⅡ」の振り付けを行なった振付師・真島さんの訃報はTVでも報じられた。確かに「マツケンサンバⅡ」は強烈な印象を人々に焼き付けている。

真島さんは、虚血性心不全で亡くなったと報じられているけど、その最期は宮川さんのお父さんと同じように苦しまずに逝ったということであればいいのにと宮川さんのコメント。真島さんのステージでの信条は「笑顔」だったと。振りの正確性よりも堂々とそして朗らかに舞台に立つこと。これぞプロフェッショナル。一般人である多くの人も自分の仕事に自信を持って朗らかに臨むことができればどんなにいいか。無論、ステージに立ち観客がいるという前提と、企業人には勿論顧客などと対峙する場面を想定されるけど、往往にして「競争」というジレンマが立ちはだかることも多く、なかなか朗らかをキープすることは難しい。

真島さんは日劇ダンシングチームのスターだったとあり、そのことは記事やTVでの紹介で知る程度。単なるアメリカ文化のマネではなく、自身が納得できるようなスタイルを徹底的に追及したと記されている。確かに「マツケンサンバⅡ」の振りは派手なものではなく、あの松平健が巧妙にこなせるステップであったり、ひとことで言えば、曲と合わせてすべてが「庶民的」であった、大衆演芸の様相だったことが広く受け入れられた理由じゃないだろうか。

宮川さん自身も作曲家として、「マツケンサンバⅡ」を担当したものの、サンバではないという批判を随分受けたと漏らしている。でもブラジルのサンバとは、「ありとあらゆる階層の人々の生活、時間、思いが渾然一体となった陶酔の芸術なんだ」と記している。まさに想像通りのコメントではある。

東京オリンピックの際に「マツケンサンバⅡ」でショーの依頼を受けた時には、宮川さんは本気でその依頼を渇望していたとも書いているので、その心は祭典にふさわしい「陶酔の芸術」を全世界の人たちに披露したいという、芸術家魂がニョキニョキと沸き起こったのではないだろうか。

真島さんは元はバレエのダンサーで、抽象的なダンスで真の芸術を極めたいと臨んでいたと。そして物凄く稀有な人だったと。そういう人こそ、その道で一か八かの勝負をしているんだろうなぁ。企業人は一か八かの勝負が総じて難しいことではあるけれど。

宮川さんは最後の段落で、あちらの世界に逝かれた真島さんとは、ベートーベンやモーツァルトと同じように、いつでも会えると所感を述べている。まさに「悼む」というのはこういうことなんだろうな。故人との接点は心の中にしかないとは思うけど、常時いるのではなく、日々のどこかにいて、ふと思い出すような存在というものなんだろうか。よく盟友と呼べる人がいることを羨ましいなぁと思うことがあるけど、一方で最後に孤独の辛抱にも耐えなければならないのではと思う。「悼む」とはどういうことなんだろうか?
とこういう記事を読むと思う。何れにせよ、祭典の裏には縁の下の力持ちがいたということだけは忘れずに、今後も暴れん坊将軍シリーズを観続けようと思う。

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