見出し画像

【鎌倉】鎌倉七口

 三方を山に囲まれた鎌倉は、切通しが重要な交通手段でした。鎌倉の外との重要な出入口とされたものを、鎌倉七切通しや七口と呼びます。
 切通しとは、その名のとおり山を削って道を通したもので、交通路であると同時に外敵の侵入を防ぐための重要な拠点でもありました。
 馬一頭がやっと通れるくらいに道を狭くし、わざわざ見通しのきかない造りにしてあります。
 鎌倉七口のいくつかは、斜面を垂直に削りとった「切岸きりぎし」や監視や投石などの拠点に使われた「平場」などの跡を見ることができます。
 七口のうち、極楽寺以外はすべて国指定史跡となっています。

画像1


極楽寺切通

画像2

 極楽寺の開山である忍性が切り開いたと言われています。
 切通しは坂ノ下から成就院の崖の下を通り極楽寺門前へと続いています。
 往時は京都と鎌倉を結ぶ重要な道であったようです。
 新田義貞の鎌倉攻めの際、大館宗氏を大将とする軍がこの切通しから攻め入ろうとしましたが失敗に終わり、新田軍は稲村ガ崎から攻め入ることになりました。
 往時、この切通しは成就院山門に近い高さを通る難所であったようですが、現在はご覧のようにかなり掘り下げられ、完全に舗装された自動車道路となっており、当時の面影をあまり見ることができません。


名越なごえ切通し

画像3

 名越切通しは鎌倉から三浦へ抜ける重要な道でありました。 日本武尊が東夷を制圧するために通った道ともいわれています。
 難所であった→難越え→名越のように名前がついたそうです。
 鎌倉七口の中で最も早く整備された可能性があり、 他の切通しに比べかなり軍事的な色が濃いのは、鎌倉幕府執権であった北条氏が三浦氏を恐れてのことであったと想像できます。
 曼荼羅堂跡から合流したあたりに大きな置石が2つあり、そこから逗子方面へ向かうと岩肌が粗く削られ、狭く切り立った岩が迫る場所が、大空おおほうとう(とうは山偏に同)とよばれる一番の難所です。
 以前ここが通行禁止だったころに造られた迂回路を行くと、大空とうを上から見ることができます。


朝夷奈あさいな切通

画像4

 鎌倉幕府初代別当の和田義盛の三男で豪傑な朝比奈三郎義秀が、一夜にして切り開いたという言い伝えから名前がついたと言われています。
 実際は仁治元年(1240)に鎌倉六浦間を切り開くことが決まり、翌年4月に着工されたとのことです。
 三代執権北条泰時も進んでそこへ出かけ、監督をしていたと吾妻鏡に書かれています。
 鎌倉七口のなかで、往時の姿を最も留めている切通です。
 道から横道に入ってしばらく行くと地面がアスファルトから土に変わります。
 ぽつりぽつりとあった民家が途切れると、どの時代にいるのかさえ分からなくなりそうな空間が待ち構えていました。
 切通へ入るところには杭が打たれており、すぐ横に三郎の滝の流れを見ることができます。
 かつてこの三郎の滝の向こう側には源頼朝の命により梶原景時に誅殺された総介広常の邸がありました。


仮粧坂けわいざか

画像5

 この切通は新田義貞の鎌倉攻めのときには激戦地となりました。
 名前の由来は、ここで平家の武将の首に化粧をして首実検したからとか、この辺りには娼家が立ち並び、化粧をした女たちがたくさんいたからだとか、木々が勢いよく生えていたからだとかいわれています。
 現在では切通のすぐ近くまで民家が建ってしまったため、往時よりもだいぶ距離が短くなったとのことです。それでも通ってみればかなりの難所であったというのが実感できます。

 下から登るとかなり地面が湧き水で濡れていますが、右に折れるあたりからの道は乾いています。
 ただこれより先もやさしい道ではなく、道の真ん中に大きな置石があったり、段差がかなり高い上に砂地で滑りやすい道になっています。


巨福呂坂こぶくろざか

画像6

 建長二年(1250 )、三代執権北条泰時の命により切り開かれたと言われています。
 鶴岡八幡宮の西側から円応寺前に抜け常陸・奥州へと続く道でしたが、現在は途中で寸断されていて通り抜けることができません。
 新田義貞の鎌倉攻めの際、堀口貞光を大将とする軍がこの切通から攻め入ったとされています。
 ちなみにこの切通を抜けたところにある鎌倉第五山の一位建長寺の山号は「巨福山」です。


亀ヶ谷坂かめがやつざか

画像7

 扇ガ谷の岩舟地蔵堂の前の道から建長寺門前近くへ抜け、武蔵へと向かうための切通でした。
 現在は整備されて傾斜もゆるやかになっていますが、昔は亀がひっくり返るほどの急勾配であったことからこの名がついたとされます。
  現在も生活道路として使われています。


大仏切通し

画像8

 高徳院より大仏ハイキングコースへ向かう階段の途中で、大仏切通しに分岐する場所から入り、火の見下バス停近くの方まで切通しが続いています。
 外界から隔離されたような空間なのに、すぐ横に幹線道路が通っているために、常に車の音がしていて、違和感を覚えました。
 火の見下バス停近くは、崖にやぐらのある空間や、深く切り通された部分には、30度くらいの傾斜のある地層を見ることができます。
 



釈迦堂切通し(七口番外)

画像9

 六浦道を金沢方面へ向かい、大御堂橋を右に入って滑川沿いに300mほどのところを右にまがると、そこが釈迦堂ヶ谷へと続く道です。
 新興住宅街を抜けるとすぐに通行止の立札があり、道幅の半分以上が閉ざされています。そこを抜けて鬱蒼とした林の中を行くと、急に目の前に巨大な洞門があらわれます。それが釈迦堂の切通です。
 洞門自体の距離は短いのですが、とにかくその大きさに圧倒されます。
 洞門の中にはやぐらがあり、五輪塔が何基か置かれているのですが、五輪塔の間にはたくさんの石が入り込んでいて、崩れた形跡が見られます。
 大町側の上部には、崩れてしまったやぐらの跡らしきものを見ることができます。
 ※大規模な崩落があり、現在は立ち入り禁止になっています。


高野の熊野神社近くから大船高校に抜ける切通(七口番外)

画像10

 熊野神社付近からトンネルの上を通って大船高校裏門あたりに抜ける切通です。
 細い道を登りだしてすぐに切通が現れます。
 少し広くなって左にも道らしきものがありそうなところに出ると、左の崖に隙間があったので近づいてみると、洞門のようなところを埋めたあとだとわかりました。
 登りきってトンネルを越え、さらに進めば大船高校が見えてきます。


長窪の切通(七口番外)

画像11

 こちらを高野の切通と書かれているサイトが多いのですが、ここでは手持ちの資料に書かれている「長窪の切通」として扱うことにします。
 大船高校の裏の細く足場の悪い道をくだり、再び住宅街を抜けて高野公園を正面にみて右側に並ぶ住宅沿いにある道に入ると、いきなり深い切通が現れます。
 深く掘り下げられた崖が高く迫り木が生い茂って薄暗いその切通は、かなりの迫力があります。
 削り取られた断面がきれいに保存されていて、地層もはっきりと見て取れます。



名数マップPDF版はこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?