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社会には正解がないと気付いた話

学校にいたとき、正解を出すことが楽しかった。先生は正解を持ってると思ってたから、悩んでもわからないときは先生に正解を教えてもらえれば良いと思ってたし、実際にそうしてきた。

社会人になって初めてパワーポイントの資料作りの仕事を上司から頼まれた。細かい内容は覚えていないけど、何かを提案するような、何かの良さを説明するような資料だったと思う。資料は作りはすぐに行き詰まった。行き詰まったのは何を書いたら良いのか分からなかったというより、何を書いたら上司が満足するのか分からなかったからだ。私は上司の頭の中にあるパワーポイントの完成イメージを知りたかった。

社会人になって初めてパワーポイントの資料作りの仕事を上司から頼まれた。細かい内容は覚えていないけど、何かを提案するような、何かの良さを説明するような資料だったと思う。資料は作りはすぐに行き詰まった。行き詰まったのは何を書いたら良いのか分からなかったというより、何を書いたら上司が満足するのか分からなかったからだ。私は上司の頭の中にあるパワーポイントの完成イメージを知りたかった。

私は聞いた。「どんな順番で資料を作ったらいいですか?」「こんな風に作ってみたけど、イメージとあっていますか?」と。上司の頭の中のイメージと擦り合わせたかったので、ことこまかに質問したが、回答は私の期待と異なっていた。私は的確に完成イメージをもった上で、私の質問に対して Yes / No や答えを教えてくれることを期待した。しかし、実際の上司は私と一緒に悩んでいた。「う〜ん、どうだろうな?」「こうがいいかな?」と。そのとき私は上司も答えになる完成イメージを持っていたないことに気付き、驚いた。そしてじゃあこの資料はどうやって作るのだろう・・?と思い愕然とした。

しかし、もう少し観察してると上司があたかもそれが正解に近付いてるかのように振る舞う瞬間があることを発見した。それは上司に「君はどう思う?」「なぜこうしたのか?」と質問されたときに、私が自分なりの考えや理由を説明したときだ。上司は私の意見を聞いて、イイね!と言ったり、自分の考えと異なっているときは意見を伝えてくれた。そしてパワーポイントの資料がより良くなっていった。

私はこの経験から、社会に正解はないし上司も持ってないということを学んだと同時に、なにか私自身で選択をしたとき、それはパワーポイント資料のフォントを明朝体にした、とかそういうのものでさえも、私はその選択の理由を語れなくてはいけないのだと思った。その理由にももちろん正解はないのだけど、何か語れなくてはいけない。相手は私の意見から相対的に自分の正解を探し始めるのだから。


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