7日間ブックカバーチャレンジ(4日目)

ただでさえ読んだ本の内容を覚えていられないのに、夢や幻想がごちゃまぜになった小説になると、あらすじとか時系列とかわからなくなって、ただ印象を楽しむだけという読み方になってしまうのですが、そういう作品の方が好きなのはなんなんでしょう。お酒に酔った感じに近いからですかね。

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そういう勝手な楽しみ方のなかでとくに好きなのが『高丘親王航海記』ですよ。平安時代の初期(865年)、高丘親王がお供の安展・円覚と秋丸とで、唐の広州から海路で天竺を目指す話。本人たちは真面目なのだけど、不思議なことが次々起こり、まあそういうこともあるよねと、終始おだやかに夢のような世界を旅します。夢もたくさん挿入されます。動物が人の言葉を話したり、伝説の生き物もたくさん登場します。みんなかわいくて愛おしい。うっとりします。ぼくが好きなのは儒艮(ジュゴン)です。

 退屈まぎれに船子たちの手で甲板に引きあげられた全身うす桃色の儒長は、船長のさし出す肉桂入りの餅菓子を食い、酒をのませてもらうと、満足そうにうつらうつらしはじめた。やが て、その肛門から虹色のしゃぼん玉に似た糞が一粒、また一粒と、つづけざまに飛び出してふわふわと空中をただよっていったかと思うと、ぱちんと割れて消えた 。
 秋丸はこの儒長がすっかり気に入ったらしく、自分が世話をするから船中で飼ってもよいか と、おそるおそる親王にうかがいを立てた。親王が笑って許したので、それ以後、儒長は公然と船中で一行と寝食をともにすることになった。

そのあと秋丸の教育で儒艮は話せるようになるのですが、暑い森の中を一緒に歩いているときに力尽きてしまいます。そりゃそうだわ。

「おれはことばいっしょに死ぬよ。たとえいのち尽きるとも、儒艮の魂気がこのまま絶えるということはない。いずれ近き将来、南の海でふたたびお目にかかろう。」

一回死んだ儒艮に終盤でふたたび海で再開するのですが、そのとき秋丸は消息不明になって鏡湖で春丸に入れ替わっていて、前世の記憶でつながっている。なんのことかわからないでしょうけど、読んでもよくわかりません。そういうものなんでしょう。ちがうか。

この小説は澁澤龍彦の遺作で、自らの死と、高丘親王の死を重ね合わせているような寂しさがあるのですが、高丘親王はそれでも明るくて軽やかです。病気で体力的に天竺に行けないと悟ると、天竺まで移動する虎に自ら食べられ虎の一部になって天竺入りしよう、それが自然だと考えて、虎に食べられて骨だけになります。

「あれはおそらく頻伽という鳥だろう。頻伽の声を聞いたのだから、われわれはもう天竺へついたも同然さ。」
 ふたりはそういって、ようやく気がついたように、だまって親王の骨を拾いはじめた。モダンな親王にふさわしく、プラスチックのように薄くて軽い骨だった。

この軽さ。親王も春丸も魂になって虎や小鳥になる。肉体や現実やリアルなものは、それほど大したことではないように思えてくるのですが、だからこそ肉体や現実が健気でありがたいものだなあと思って泣けてくるのでした。

ところで、この小説を読んでいるときによく聴いていた「賢者のプロペラ」というアルバムがあるのですが、これを聴くと『高丘親王航海記』の世界が一気に胸に広がるのですが(とくに「課題が見出される庭園」)、どうでしょうか。


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