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【archive】私と私の為の素敵な省察

桜に雨の降る、夕陽の屋根の上で水が斑点を描く、斜陽に焼かれた屋根の持つ静かな熱にふつふつ、雨水は瞬時に熱を施られては小さく小さく蒸発する蒸気に還元され。

コーヒーを口元へ運ぶ間その三秒も経たぬうち、雨水の戯れはフロイト的な転移を圧倒的に凝縮したようなスピードを持ち、熱鉄板的屋根を冷やし、結婚式場で振る舞われるフランス料理の前菜のあらかじめ冷蔵庫で一日冷え冷えと過ごしたプレートの様相を呈していく。

眼前に拡がる百以上の住宅に可愛く乗せられた屋根屋根。それは色もサイズも笑ってしまうくらいどれも様々で、まるで押し入れの玩具箱(幼稚園児達が様々なかたちで消費し尽くした玩具。記憶にもなく捨てられていった色とりどりの材質をもったそれぞれが玩具王国の協調講和も未だ得られていない時代に生き、補完的に存在している)。その屋根と屋根の間を縫うようにちらちらと歩いていく人影はチャルメラの鳴るにふさわしい、また家に帰るよう忠告するわずかに狂気的なサイレンの音の反響する時間に生きる人々。

主な通行人に先ず子供達(少女を含まない、よって彼らは揃って小振りなマウンテンバイクに股がる)、夫人達(彼女達は話に夢中になればなるほどその歩みを止め、それが妙な不規則的に反復を繰り返す。乳母車を押す牧歌的な奥方も数人見えるが間違っても乳母車には股がらない)、他には特出するような人々いない(こう記述すれば、貴方がこの文章から光景を想像する際にとてもわかりやすくなるだろう)。たったそれだけ、そういったある特定の人々には眼鏡を引っ掛けないとみえないような人の分子の一つ一つが、確かな時間の流れの存在を私に与えてくれるものの全てだった。この一つの状況においては。

そして幾度かまばたきをしているうちに屋根は冷え、その表面をなでる春風、じきに温風から冷風に変わり私に届く。それは風通しの良い窓から、人通しの良い老夫婦の古民家のように流れては部屋の中を遊んで、たぶん出て行く(風は私には不可視で、貴方にも不可視。いや、場合によって貴方は風が可視であるような含蓄のある方なのかもしれない。そんな方には詩を書く事をお勧めする)。

風は住宅街の誰かが弾くつたないピアノの音と共にこの部屋に柔らかく運ばれてくる。そのピアノの音からは不思議と中学生の少女の奏でているものであることが用意に想像できる。たどたどしくも可愛らしいその音の一つ一つのシークエンスからは若者らしい揺るぎない独特の強度、またコップの中で揺れる水の震えにも似た不安のにおいなどのものが溢れており、色は桜色、香りも桜に似ている(私はピアノが弾けない)。

ジェリー・ビーンズに見まがうが如きこの住宅街の屋根と、その間を器用に縫っていく蜘蛛の巣上の車道or歩道の混沌(この道は決して凱旋門には繋がらない)、そしてそのどこかに必ず実存するピアノ少女のぽろぽろとした音の粒。まるで駄菓子屋のあの割れないシャボン玉のようにガラス製のコーヒーカップを傾ける私は狭いバスルームの浴槽のふちに坐っている(このバスルームには人の顎が外れたたように大きな枠の窓が据え付けられている)。浴槽には四十三℃の湯がはってあり(先程まで長湯したため温度はもう少し下がっている)、火照った私は浴槽から上がり、湯冷めしない程度に体を風に当てている。

街の生活音は確かに聞こえて、私の肌は青白い。


2015.09.11 作成分引用

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