少し大人な主人公がいなくなった日

時代は”退行し続ける空気の歯車”であって、その歯車は一生噛み合うことはない。なぜならそれらは透明であり絶対的な感触が無く、明らかに、圧倒的に空気だからだ。

私の席の周囲を眺めてみる。

①遠くでワインを片手に静かに会話を連ねている秘密めいたあの2人の恋人

②ビールを傾けることで持て余した時間を隠そうとしているtシャツの男性

③生命保険の上乗せ額を狙って電話の先の商談相手と大袈裟な会話するスーツ姿の女性

この三組の席の事象をもってしても、全ては”退行し続ける空気の歯車”である。彼らのうち、一人として進化に向かったベクトルを持つ運動を持ち合わせてはいない。そしてどの環境の人物であってもそれは変わらない。彼らは失う事へひたすら突き進む一杯のコップの水であり、一度その器から零れ始めれば全てはカラとなり、いつかは乾いて割れるのである。そしてそういった持論で人々を見捨てる話し手の彼もまた”退行し続ける空気の歯車”ということを自覚している。その自覚に何か意味があるのかは置いておいて。

「時間です」ふいに意識は現実に向かう。テーブルの向かいに座る人物が疲労を湛えた顔で隣の席に声をかける。声をかけられた人物はその言葉を聞かなかったように何も答えず、じっと窓の外、夕方の夜景を眺めていた。彼は我々の雇い主であり、このラウンジバーのオーナーでもある。冬の17時はもう夕闇が近い。12階から望む赤坂の景色にはLEDの白い発色が支配的で良く目立つ。「そろそろか…」一呼吸ほど景色を眺めていたその人は誰に向けるでもなくそう口にした。倦怠感を隠さない重々しい口調に彼を囲んだ我々にも気怠い感情が増長する。結果、誰もが此処を動きたくないという感情を共有していた。我々は皆、もの惜しげに細いワイングラスに指をかけたままだった。テーブルのアイスバケツには良く冷えたシャブリ・フルショーム、開け始めたばかりの中身は四人分注いでもまだ半分以上は残っている。ふと我々のオーナーは言葉を重ねた。


「大人な人物はどこへ行ったのだろう」不意の彼の言葉に私を含む他の三人はその意味する対象が分からなかった。我々は目を見合わせ、その真意に頭を巡らせたが、三人分の脳を集結させてもその答えには辿り着かない。

「今の私には、何が”大人”であるのかが、分からないようだ。…まるで典型的なモラトリアムのように青臭い言葉だが、私はまだ自分が大人になったと思える時間がない。53にもなってだ」

沈黙が流れた。そう言い終えた後にオーナーは手元のシャブリを一気に喉の音を立てて飲み干した。他の三人が何かを答えるべきだったのだろうが、彼の真意は未だ掴めず、皆黙ったままだった。

「車は下に着いたか」オーナーはそう言いながらゆっくりと重い腰を上げ、三人にも着いてくるよう、人差し指でいつもの合図をした。

ロビーへ向かって降下するエレベーター内は居心地の悪い静けさでもって、沈黙している。三人は黙ってオーナーの広い背を眺めている。彼が今、何を考えているかは誰にも分からない。全員がスーツのネクタイの首がきつく締まっていくように息苦しく感じていた。外のワイヤーが動く小さな稼働音だけがこの環境に存在する音であり、それは鈍痛のようなものを伴った。まるで死刑に裁かれた受刑者を運ぶ、護送車のようでもある。その時、私の頭の中にはやはり”あの言葉”が連想されていた。


「”退行し続ける空気の歯車”」沈黙を引き裂いた私の言葉はエレベーター内の空気を更に異様な空間へと変えた。オーナーは今回は逆にその真意がつかめないように私へ振り向いた。

「人は生まれた時から退行し続けていくと私は考えています。私達の一人一人は幼い生き物として齢を意味も無く重ねていきますが、社会の一員となった時、その時から一つの歯車のパーツとなって何人もの歯車が重なり合うことによって大きな仕組みを動かします。その大きなものを自分で動かしているという幻想によって私達は自分を”大人”になったと感じさせるのではないでしょうか」私は言葉を重ねた。

「そしてその結果、この世界に散在する人々を”退行し続ける空気の歯車”と呼んでも良いのでは、と私は思っています」私は自分で掲げたこの呼称を、私が考えているものと合致しているかも分からず発言している。その時、私の思考は失われ、言葉が次々と口から零れていくのを半ば心地良く感じていた。


「その持論だと、私達は組織であり、生物ではないようだな」答えの無い問いに答えが返ってきたことに気を良くしたのか、オーナーはそう答えてから私に振り向き目尻を下げた。


「いえ、その組織こそ生物なのです。まるでウイルスと変わりません」

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