チャンスの時間加護ちゃん男のあるある理解し過ぎ問題について

電車で座っていると隣の中学生男子に何度も寄りかかられ少し不快だったが、電車を使った遠出に疲れてその帰り道、他人に寄りかかってしまった過去が自分にもあったはずなので仕方がないことだと受け入れて許した。それから僕は急に耳元で「わっ」って驚かせたり「隣のお姉さんに寄りかかった方が特だよ。寄りかかれるのは今だけだからね」と悪知恵入れてやろうかなどと考え、寄りかかられる度にニヤニヤするという気持ちの悪い大人であり続けた。

僕とその中学生は、寄りかかられて思うことがある存在と何の悪意もなく寄りかかる存在という電車内で何度か見かけたことのある光景そのものになっていた。そして、その光景を見て寄りかかられている僕に対してかわいそうだとか羨ましいなどと思う周りの人すらもその光景の一部になっているような気もした。

1つの疑問が生まれた。

どこまでが"あるある"なのだろうか。

僕はあるあるは拡大していき、新しいあるあるが作られ、秘伝のタレみたいに継ぎ足されていくと思った。

仮に「校庭に犬が入ってくる」というあるあるで拡大させた場合「校庭に入ってきた犬を追い出そうと慌てて校舎から出てきた教頭が完全にカツラを付け忘れていた」といった感じでどうだろうか。

そもそもあるあるなど幻想的なものにすぎない。

"あるある"とは、体験したことはないけれど、実際にそういうことがありそうだという説得力のあるシチュエーションだと解釈している。だから今週のチャンスの時間で加護ちゃんが本来男にしかわからないあるあるに対して理解を示し過ぎているのは何ら問題のないことである。

いや、タイトルの『チャンスの時間加護ちゃん男のあるある理解し過ぎ問題』、って

チャンスの時間で加護ちゃんが男のあるあるを理解し過ぎていることを問題視し過ぎだろ

小さい頃からお金をもらうことが好きでした