グローバルユース国連大使:カンボジア① ~ポルポト政権下のカンボジア~
みなさんこんにちは。
今日は6月4日から9日の間に行われた海外研修一回目のカンボジアでの一日目と二日目について書きたいと思います。
初日は夕方にカンボジアに到着し、歓迎パーティーが行われました。
また、記事を読む前にいっておきますが、少しダークな内容なので、不快に思う方もいるかもしれません。
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ポル・ポト政権について
二日目の内容に移る前に、みなさんはカンボジアの暗黒の歴史、ポル・ポト政権についてご存知ですか?
1970年代後半、カンボジアの政治の実権はポル・ポト率いるクメール・ルージュが握っていました。クメール・ルージュは自分たちに逆らうものを理由をつけて拘置所へ送り、厳しい拷問にかけました。眼鏡をかけているだけで賢いとみなされ、拷問されました。拷問は厳しく、数百万人もの死者を出したと言われています。
ポル・ポト政権はまず、カンボジアの国民を全員移動させました。人口密度が上がり、飢餓に苦しむようになると、農家の収穫高の目標を定めました。そのため、肥料や農耕器具などを大量に利用することになり、それらが不足し、悪循環を生み出しました。
また、そのような政策をとっている裏で、S21という場所に多くの人が連行され、自分にまるで身に覚えのない理由で尋問、拷問を受けていました。さらに、自白を引き出せなかった尋問官まで殺されることもありました。ポル・ポト政権解体後、生き残ったのは七人だけでした。
拷問で生き残ったものも、キリング・フィールドという場所に連れ去られ、そこで殺されました。たちの悪いことに、ただ一思いにやるわけではなく、服を脱がされる、赤ちゃんを殺すところを見せるなどの行為を行ってから殺したそうです。この日はS21と最も有名なチュンエク村のキリング・フィールドを訪れました。
トゥルースレン虐殺博物館
まず最初に尋問と拷問が行われたトゥルースレン虐殺博物館を訪れました。ここはもともと高校の校舎だったものをクメール・ルージュが尋問所にしたそうです。S21と呼ばれ、恐ろしい拷問が行われました。部屋の中には拷問道具や当時の様子の絵が残されていました。また、音声ガイドも借りて各棟を回りました。
部屋を回っているうちに、だんだんクメール・ルージュの残虐さが見えてきて、いるのも嫌になるほど気分が落ち込みました。大事な歴史だとわかっていても、現実にあったことだからこそ生々しく、ただただ残酷でした。音声ガイドも鳥肌が立つほど淡々としていました。
このような状況で、カンボジアの大使が床にある赤い点は当時の血痕だと教えてくれました。尋問官は自白を得るために、時に厳しい拷問にかけたそうです。その時に飛び散った血が床の赤い点とのことです。この時点で、正直できるならホテルに戻りたいと思ってしまうほど心をえぐられました。これが現実であったことが一番救いがないと感じました。
その後も血まみれの服や独房を延々と回り、クメール・ルージュの残酷さが浮き彫りになりました。音声ガイドではこれから行くキリング・フィールドの話も出てきて、失礼だと思いますが行きたくありませんでした。
キリング・フィールド
そして、トゥルースレンで落ち込んだ私に追い打ちをかけるようにキリング・フィールドに到着してしまいました。S21の拷問で生き残った者も、キリング・フィールドと呼ばれる場所へ連れて行かれ、虐殺されました。今回訪れたのは、その中でも有名なチュンエク村のキリング・フィールドです。
まず、慰霊塔の内部に入りました。最初に目につくのは何段にも積まれた被害者の頭蓋骨や骨でした。また、それらは性別や殺され方によってシールが貼られ、分類されていました。ここに来て少しも経っていないのに、早速帰りたくなってしまいました。通路が細いため、目をそらしたくてもそらせない状況で、トラウマになると思うほどうず高く積まれた頭蓋骨が恐ろしく見えました。
そして、ここでもまた音声ガイドを借りて、キリング・フィールドを巡りました。フィールドと言っていますが、意外と広く、あたりは林だったところを一部平らな地にしたような印象を受けました。音声ガイドではクメール・ルージュが行った数々の行為について説明がありました。例えば、クメール・ルージュは母親と子供をS21では引き離し、キリング・フィールドに連れて行ったあとは母親に子供を殺すところを見せつけていたそうです。また、殺す前に服を脱がせていたそうです。カンボジアでは服を脱がすことは侮辱行為です。
想像するだけで不快になるような行為に、とどめを刺すように私の目の前に立ちはだかったのはキリングツリー。クメール・ルージュはこの木に頭を叩きつけ、処刑者の子供を殺したそうです。みなさんも想像してみてください。もし近所で木に向かって赤ちゃんの頭を叩きつけている人がいたら、どう思いますか?そのようなことをクメール・ルージュはやっていたのです。しかも、クメール・ルージュは四六時中、殺されている人たちの悲鳴をかき消すように革命歌を流しました。
私は耳を疑うようなとんでもない行為に、本日二回目の鳥肌が立ちました。トゥルースレンでの仕打ちを知っていたからこそ、精神的なダメージが大きく、言葉をなくしました。
今回は他の記事と比べてダークな内容でしたが、最後までご覧いただき
ありがとうございました!
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