どうしてあなたは〈学生時代を語〉らなければならないのか? あるいは、そのためにできる1つのこと。
『幻詩狩り』(創元SF文庫、2007)の「あとがき」のなかで、川又千秋が「アンドレ・ブルトンの尊大さに、いささかの反感を覚えていた」と述べているのを読んだ際、少なからず驚いたのを思い出す。
私はそれまで(そして今になっても)ブルトンが「尊大」だとは感じないし、むしろ川又の方にややその気を感じていたからだろう。ブルトンの文は訳の印象もあるかもしれないが、たしかに気取っている感じはある。とくに川又が参照した『シュールレアリスム運動の歴史』(大槻鉄男訳、昭森社、1966)のなかのブルトンは、インタビュアーが訊ねる内容についてたくさん自分語りを交えながらその理解の仕方を幾度も拒否しているから、なるほど尊大だと感じるひとがいてもおかしくはないかもしれない。
川又千秋が『幻詩狩り』のもとになった中篇小説「冬の指」(『奇想天外』1977・12)を執筆したとき、彼は29歳だった。いまの私とそれほど変わらない。ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を起稿したのも28歳で、やはり近い年齢である。川又のデビューが1971年(『NW-SF』誌)だから23歳ごろであり、ブルトンも同じ年齢のころにはパリ・ダダの機関誌『リテラチュール』を創刊して、本格的に執筆活動を開始している。
SFの革新を志向した〈ニュー・ウェーヴ〉SF運動から出発した川又が、詩歌の前衛運動で名を馳せたブルトンに親近感を覚えなかったとは考え難い。川又が、『幻詩狩り』の「あとがき」でシュルレアリスムの「アメリカ的表現」が、「二〇、三〇年代のパルプ的サイエンス・フィクションであろう」と述べていることからは、川又が(やや強引な飛躍を以って)自らの分野に可能な限り落とし込むことでブルトンの実践を理解しようと努めていた心情が、淡くだが確かに窺われる。
ならば、川又が語った「尊大さ」とは、ブルトンの活動が川又に比してあまりにも評価されすぎている、という川又の内的実感に依拠したものであったと考えるのが自然であろう。SFファンダムの規模は200万人規模であり、欧米を中心に国際的な広がりもある。それでも、欧州の局所的事象であったはずのダダ - シュルレアリスム運動の〈重要性〉に比べれば、その活動の意義は低く見積もられるというのが一般的な文化史的評価といえよう。
これに評価基準の不均衡さを読み取ることは容易い。渦中に身を置く者ならばなおのこと感じることだろう。これに反感をおぼえるのは当然の心境といえる。とはいえ、私はこの川又の態度を支持しようとは思わない。もちろんブルトンと自らの――SFとシュルレアリスムの文学的評価における、非対称的な権力構造を指摘する川又の言説は、それ自体が文化間に形成される評価基準のバイアス/不均衡の維持を問い直す行為遂行性を有するという点で、特筆すべきものではある。しかしながらこの川又の言説行為には、自らの運動についての開示が伴わなかったがために、遺憾にも読者はそもそも川又とブルトンの不均衡さについて、具体的に比較検討する機会を得ることが叶わなかったのではなかっただろうか。
〈自分史〉というものは、自然主義文学(Methodological naturalism in literature)の系譜に属する。かつて(いや、現在でも)〈生活綴方〉運動という児童に対する文章学習実践が存在しているが、これもまた自然主義文学と言文一致の文脈に関連して成立したものといえる。児童雑誌『赤い鳥』主宰で夏目漱石の弟子でもある鈴木三重吉が、まさに執筆者の内面を嘘偽りなく表出=書き写すことで(おもに農村部の)児童が自らの生活に潜在した問題点や探求課題を見い出し、その問題の解決や課題の追究を内的な動機付けとして学習をその時々で設定するような流動的な教育の理想形を示していたことは、すでに知られているところであろう。
自らを書くという行為は、それが行為の記述に終始するにせよ、内的な選択と感情を告白するものであるにせよ、内面(心 - 私)と表現(文章)のあいだに、特権的とさえいえる非常に強い結びつきが読者に見出されるという点で、未だに自然主義文学的な実践である。それは当然ながら、告白的な文章を執筆するという行為が、告白する主体および告白される事項の双方に対して、内実基定とそれにともなう責任を組成することを意味する。
発生する様々なそれら障礙を避けたいと思うのは、当然の防衛機制の表れであろう。また語るという行為がある種の攻撃性を潜在化させている可能性を想起すれば(これには〈マン-スプレイニング mansplaining〉を始めとした話者が自覚していない類の攻撃/加害性も含まれていることに留意しておきたい)、自己について告白的に語る実践の困難さがいかに大きいのかは想像されるはずだ。川又千秋は、アンドレ・ブルトンについて語ることはできても、では、どうしていま自らがブルトンについて語らなければならなかったのかという点は、読者に提示することができなかった。これはひとえに、自己規定をともなう〈自己について語る〉困難を避けたからに他なるまい。川又のようなすぐれた書き手であっても、告白的に物語ることは困難な仕事だったと想像される(ただし、〈告白〉から遠ざかることによって創作的な文章を作成する方法論については稿を改めなければならないようだ)。しかしそれでも私たちは、その困難に抗って自分のことを語っておかなければならないのではないだろうか。
先月、母校で大学院生時代に少しだけお世話になった(研究科の研究発表会で幾度か質問やご助言を頂いた)清水良典氏の最終講義が行われた。題目は「ゆかりのみちすじ」といい、なんと高校生時代から始まり、大学時代を経て小牧工業高校での国語科教諭での教育実践の詳細が語られたのち、大学教員になっていった自己の形成とそのきっかけが、かなり仔細に物語られた。それはメインの聴衆である自らの学生たちに対して、とても誠実に語られていると感じるものだった。語られたのは、自身の仕事への苦悩であり、それらにどういった経緯で決着を付けたのかという内容だった。高校や大学でアマチュアの学生に作文を教えながら、プロである作家たちの書く文学を評することを同時に行うという経験は、当初氏のなかでは分裂していた。それが何十年も行い続けるうちに、だんだんと結びついていったという。その人にしか書けないことを、誰にでも分かるように書けているかと、氏はすべての文章を読む際に自身へと問いかける。
この講義を聴講したことで、私は川又千秋が『幻詩狩り』の「あとがき」でアンドレ・ブルトンについて語っていた語り口の違和感について、より的確に言語化できるようになったように感じた。〈自己について語る〉ことで導き出されるはずの〈自分にしか書けないこと〉を、川又は〈誰が読んでも分かるように〉は書くことができなかったということかもしれない。であれば、これは何を書くかという問題よりは、如何に書くのかという事項についての問題であり、なおかつ、川又の個別的事例が示しているのは〈自分にしか書けないこと〉(内容 - 本質)と、〈誰が読んでも分かるように〉書くこと(方法 - 表象)は対立項というよりも、相補的な関係性であるという点であろう。ある文章の内容が任意の書き手〈にしか書けない〉ものだと読者が諒解するためには、そもそもその書き手〈にしか書けない〉という点を〈誰が読んでも分かるように〉示す必要があるためだ。
そのため、私たちは誠実に書こうとするのならば、読者に自らの判断を示すだけではなく、その判断を支える事項も含めて示しておかなければならない。そしてそれは〈自己について語る〉場合であっても、変わりがないのかもしれない。そこまで考えたとき、そうであれば、年表を編むということこそが(あるいは特殊なデータベースを作成するという行為こそが)、〈自己について語る〉行為のためにはむしろ、重要な手法なのではないかとあらためて実感することになった。
ある種の博士論文がそうであるように、データベース的な知はそれ自体が編み手の知的個性の表現と見做せる。美術家の作品集や画集に譬えることの方が分かりやすいかもしれない。自己に関する一連の経験、あるいはその芸術的昇華の変遷を無機的にであるにせよ提示する行為は、純文学的な文体の振る舞いを持っていないとしても自然主義文学的な表現となりうる。そういえば私は、私について物語るための以下のような記事を、先月公開したばかりだった。
こうした年譜/年表を編むという行為が、はたして本当に〈自己について語る〉というテーマで〈自分にしか書けないことを誰にでも分かるように書く〉際の最適解であるかどうかは定かではない。しかし、特権的な位置に鎮座した(例えばこの文章のような)1人称の語り手によって全篇が統御された〈語り〉に比して、ある書き手〈にしか書けない〉ことを、〈誰が読んでも分かるように〉示す行為には繋がるものと考えられる。
もし、示す内容がアンドレ・ブルトンや清水良典のように文化史や出版文化のなかで重要な潮流の一翼となっていれば、語らずに沈黙を守ることで〈あの頃〉は〈神話〉に呑み込まれて不正確な誤解を残したまま後世に流布してしまう危険があるし、逆に(私のような)無名のままの書き手であったならば、語らないことによってそれこそ〈あの頃〉は本当に、〈無 nada〉に帰してしまう。
ある活動や経験が歴史的に重要な位置を占めることになるかどうかは、たまたまそうなるということに過ぎないだろう。しかしだからこそ私たちは、自らのことを語っておかなければならないのだと信じたい。〈学生時代〉というものを。あるいはいつしか過ぎ去ってしまった〈あの頃〉のことを。
文学の使命、などとというものがもし本当にあるのだとすれば、それは〈無 nada〉への抵抗であろう、と私は時折考える。無 - 意味、無 - 価値、無 - 駄――そういった、この資本主義社会においては〈無〉と同等に見做され、時間が経つごとに〈無〉へと還ろうとする、個人的な経験や思考の遍歴をこの世に繋ぎ留め、残留させること。
そのとき、あえて有限な、極限を有する言語表現に変換するという行為に、作文するという行為に、物語るという行為に、現在、どれほどの意味があるのかはもはや、定かではないのかもしれない。その〈抵抗〉の表現がたとえ絵画や写真や音声や映像、それらの総体(例えばコンピュータ・ゲーム、VRデータやVtuber的な表現、あるいは映画)や、それ以外の素材で構築されるのだとしても、受容した者の共感や反感によって伝達されるメディウムが凡て〈文学〉たりうるとすれば、たしかに、まさに、それこそそこに、プロアマの区別を考える意味などはない。〈読者〉が、そこに〈あなたの語り〉を読み取るなら。
文学的な振る舞いの文をともなう必要はない。あなたが残す内容を適切に伝達しうる文体であればいい。適切に評価されるような媒体で表象すればいい。自分にしか示せないこと=自分の経験や感情を、その経緯や原因とともに受け手の前に示し続けること。書き留めること。現前させること。それがあなたにしかできない〈学生時代を語る〉実践となりうるのであり、そして、できる1つのことなのだ。
(BGM:”Supermassive Black Hole” by Muse (2006) .)
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