天草下島・北東地区・御領周辺のキリシタン墓碑について

御領・岩谷観音像の元絵と思われるマリア観音絵・天草四郎ミュージアム所蔵
撮影・原田譲治
御領・岩谷観音の石板に描かれたマリア観音像・享保15年・1730年 撮影・原田譲治
山鹿市鹿本町にある小西行長供養塔・1600年初期建立
小西行長供養塔近くにあるキリシタン礼拝所・マリア観音像 浜崎献作氏
1600年初期時代のマリア観音像(正面)・山鹿市鹿本町
マリア観音像(裏面)・頭部後ろに十字の印が彫られている
菊池市七城町・沢村家・キリシタン灯篭・裏面・十字架を蝋燭で灯してキリストを象徴している
菊池市七城町・沢村家・キリシタン灯篭・表正面・聖母マリアを象徴している
福岡県田川郡香春岳西の五徳区畑ヶ田にある弘法院・鳥居型のキリシタン灯篭・上部
弘法院境内の鳥居型上部のキリシタン灯篭・右側・〇 デウスを象徴している
弘法院境内・キリシタン鳥居上部・左側・ ☽ 三日月・聖母マリアを象徴している

天草御領周辺のキリシタン墓碑

 細川興秋の天草御領での存在研究、1635年(寛永12)天草御領へ避難してから、脳卒中での1642年(寛永19)6月15日の死去までの8年間と共に、天草御領周辺のキリシタン墓碑をできる限り山本繁先生の案内で訪ねた。御領周辺に約900基以上の多くのキリシタン墓碑があることに非常に驚いたが、志岐麟泉時代1566年(永禄9)以来の志岐領地のキリシタン活動を天草キリシタン史で学べば、キリシタン墓碑の数も理解できるキリシタン史である。そのキリシタン史に伴う信徒組織(コンフラリア)の絆の深さも念頭に置いたら、御領地方におけるキリシタン活動がいかに活発であったかが理解できる。それが無名の墓石の数と一致していると考えている。御領地方の無名の墓碑を拒否することは御領地方におけるキリシタン史を拒否することと同じであることを理解すべきである。

*本島兵吉著『御領村史蹟 第10号』
『これから切支丹は次第にその布教をすすめ、本村(御領村)の大部分は切支丹宗門に帰依したことが信ぜられます。切支丹墓の現在に至るまで、数か所の墓地に残っていることを微しても明瞭であります。しかも現今石碑として一番古いものは承応年間(1652年~54年)前後のものでその前のものは切支丹石ばかりであります。いうまでもなく切支丹は現在の寺院以前に最も勢力を持っていたもので、徳川時代前はほとんどすべてが,切支丹信者ではなかったかと考えられ、いわゆる天草の乱の勢いが強かったのは推して知るべきであります。特に本村(御領村)に寺院の多く建立せられたのは、この切支丹宗徒の根絶を意味するということも当然なことと言われます。後年の切支丹宗禁制の法度に、その筋の目を凌ぐために裏返しにしてカブセ石と唱え、(墓を)裏返しにしたり、またその後、埋葬するものにも形を小さくし正方形としてカブリ石を唱え置き、前後を繋いだもの、現今に至るまで、慣習となって実行続ける気持ちがありました。ために保存は差し障りなく、現今に残存するといいます。天草郡内に於いても、本村(御領村)のように一般にカブリ石を置く村はありません。これから見ても本村(御領村)の切支丹史跡は意味が深いと言わねばなりません。 

 天草史跡研究会本田古城氏の調査によると、残存する切支丹墓石は次の通りです。

本村(御領村)では、小串藤の屋30、浦園15、清水川8、サガリ30,野首50、イナキザ(稲置座)150、岩屋20、沖畑15、堂山5、馬場5、池の尾30、大島向原の墓地、その他、山浦の山林中に残存しています。詳しく調査すると400基は下らないでありましょう。特にイナキザ(稲置座)墓地は110年前に大庄屋(九代)長岡五郎左衛門源興道氏が大庄屋の権威を持って威張り散らし、取り崩して新地を築いたとき、尾崎約一反歩近くの墓地を取り崩したと言われています。その一帯は最も古い墓地でありましたそうで、これが今あったならば、少なくても500基も600基もあったでしょう。 

サガリ(藤の尾)の墓地に土井寅造氏の祖先という墓石に立派な屋根型切支丹の墓石三個があり、またこの地に宝篋印塔(ほうきょういんとう)の傘石が残っています。これは約300年前後に流行した曹洞宗の大供養塔で郡内珍しいらしいものであるといわれています。なお完全なのは薬師様(芳證寺東)墓地に一基があります。
 野首墓地に見事なかまぼこ型切支丹墓石があります。ここの本村(御領村)において最も感銘に値する幕末前における勤皇の志士・西道俊先生の墓碑があります。』
*本島兵吉著『御領村史跡 第10号』御領小学校郷土室編 昭和28年夏・1953年発行 

九代・大庄屋 長岡五郎左衛門興道
(八代・中村喜七郎隆成の実弟)
寛延2年己巳(1749)6月2日誕生 幼名宇治郎
明和7年庚寅(1770)苗字御免
安永5年内申(1776)9月11日 帯刀御免

 享和2年壬戌(1802)6月15日、長岡家系譜を肥後髙橋司市、奉行斎藤権之助の差し出す。現在の「池田家文書」(長岡家系譜)である。

「池田家文書」の系譜自体は江戸後期1802年(享和2)編纂であり、細川興秋の時代の約170年余り後の記述であるが、細川興秋に関する唯一の系譜であるだけに、その史料的価値は高いと判断されている。

 実相庵法眼慈海包含居士(文化12年乙亥・1816・10月7日)歿 享年67歳(芳證寺過去帳) 

『特にイナキザ(稲置座)墓地は110年前に大庄屋(九代)長岡五郎左衛門(源興道)氏が大庄屋の権威を持って威張り散らし取り崩して新地を築いたとき、尾崎約一反歩近くの墓地を取り崩したと言われています。その一帯は最も古い墓地でありましたそうで、これが今あったならば、少なくても500基も600基もあったでしょう。』
*天草史跡研究会・本田古城氏の調査 

イナキザ(稲置座)にあった古い墓地のキリシタン墓碑は500~600基もあったと言われているが、御領の大庄屋・長岡五郎左衛門興道の時代に尾崎約一反歩近くの墓地を取り崩し、新地を築いたとき取り壊した墓碑は、現在の五和支所前に流れる川の上流の護岸の石として転用されている。護岸の石に使われている中に「☩」の印のある墓石が確認される。転用された墓石の大きさもまちまちである。(故山本繁氏の案内による) 

『佐伊津から御領・城河原・手野にかけて上面にクルス(☩)を陰印した凝灰石伏碑形式の墓碑が多く、伏碑形式の墓碑のクルスの中には干十字もあり、十字架を立てたらしいほぞ穴のある墓碑もある。』 

『昭和37年(1962年)の調査によると、十字記刻のある墓碑の分布は、御領では小串・野首・中洲・浦園等、城河原では打越・中野原・大野・野田等、手野では志田の原の墓地等、計93基が確認された。』
*『五和町史』第16節、キリシタン伝来と中世仏教の痕跡 428~429頁 平成14年 

『御領切支丹墓碑 宇野首、小串、塔の尾、芳證寺境内、稲置座、その他村内数ヶ所の共同墓地内に、切支丹墓碑の多数散在するのを見る。これらの多くは長方形、或いは方型の切石を主として稀に蒲鉾形、屋根形を成せるものあり。皆地上に伏せその上面に単に十字を彫る。この地方では俗に冠石呼んでいた。年代碑銘文字のあるものを見ない。』
*『五和町郷土史』48頁 昭和42年(1967年) 

『切支丹の史蹟として』県文化財保護委員・下田曲水氏の昭和25年(1950年)10月の調査 本村(現・五和町手野)に現存する切支丹墓碑は80基となっている。同年10月25日、内野中学校生徒の調査では、志田の原に27基、中の井手に2基、計29基となっている。墓碑のほとんどが内野川を境に東の方(御領地区)にある。墓石はいずれも土に面して段々に積み重ねたその裏に釘の様なもので彫られた幼稚な十字があるだけで、他にはなにも記してなく特別な史実は無いようである。』
*髙橋伝造氏編「芹生の郷(手野)」『五和町郷土史』48頁 昭和42年 

『本渡市(現天草市)佐伊津町から天草郡五和町一帯の村々には凝灰岩で作られた粗末な1000基余りの墓碑がある。中には「大七」「おたつ」等の俗名らしきものを刻んだり、簡単な「☩」を彫ったりしてあるが、ほとんどは無記名である。キリシタン全盛期から弾圧期にかけてのもの。』
*熊日『天草ガイド』所載 『五和町郷土史』48頁 昭和42年 

『切支丹墓碑の考察 墓碑は総て伏碑型式である。形状として、1蒲鉾型、2平庵型、3平型、4薄型、5自然石碑、5種類に大別される。

郡内の分布状況として、湯島1基、上津浦1基、城河原406基、御領368基、手野184基、二江33基、佐伊津90基、本渡1基、大江3基、一町田1基、郡内総数1088基、五和総数991基。』宮崎敬四郎氏 昭和40年(1965年)調査。
*『五和町郷土史』48頁 昭和42年 

「当地にキリシタンが伝来し信者集団ができたのは、1566年(永禄9)頃から1617~1623年(元和年間)にかけてのことで、当地の墓石はまずキリシタン様式の造成から始まったと考えられる。 

 佐伊津から御領・城河原・手野にかけて、上面にクルスを陰印した凝灰岩製伏碑形式があることに注目され出したのは1930年(昭和5)頃からで、それまでは住民には全くキリシタン関係地だとの意識も、キリシタン関係遺物だとの認識もなかった。 

伏碑形式の墓碑は仏教形式の石塔とは異質のものであるし、クルスの中には干十字もあり拝む時に十字架を立てたらしいほぞ穴のあるものもある。当地が志岐領であったことが判ってみれば、当然の事であるが、往時は自他ともにキリシタン遺物との意識が無かったことが、該墓碑温存の原因になったと考えられる。 

 昭和37年(1962)調査した当時、そのような十字記刻のある墓碑の分布は、御領では小串・野首・中洲・浦園等、城河原では打越・中野原・大野・野田等、手野では志田の原の墓地などに計93基が確認された。

昭和35年(1960)1月、本渡城山にキリシタン墓地が作られた際、同墓地に移されたのは、町域の中州・野頭・野田・志田の原からのものであったし、その後昭和46年(1971)町内各地の墓碑の多くは鬼の城墓碑公園に移された。本来遺物は現地において保存してほしいものである。」
*五和町史 キリシタン様式墓碑 428~429頁 

御領の東禅寺周辺に点在していた100基以上のキリシタン墓碑は、殆どが、昭和46年(1971)鬼の城(おんのじょう)墓碑公園建設の際に移された。鬼の城公園のキリシタン墓碑は明確にどの土地から移設したかが不明で、公園建設当時、地域にあるキリシタン墓碑は、地域住民に邪魔になるという理由だけで、持ち主に許可を取ることなく持ってきた墓碑も多くあり、どこから移設した墓碑なのかの明確な記録も役場には存在していない。安易な観光目的のキリシタン墓碑公園建設であり、当時の行政のキリシタン文化財に対する認識の甘さに深い反省を促したい。キリシタン墓碑は本来あった場所においてのみ、その場所のキリシタンの歴史を証明する意味を持つのであり、ただ集めて観光目的の墓碑集合体としてキリシタン墓碑を並べても意味をなさない。鬼の城墓碑公園の現状は、キリシタン墓碑が雑草に覆われていて、墓碑がどこにあるのかさえ分からない、識別さえ困難な状態で放置されている。 

実際、故山本繁氏と鬼の城(おんのじょう)墓碑公園を訪れた時は、マムシが草むらから出てきたりして、腰の高さまで雑草に覆われていてキリシタン墓碑の確認すらできない状態だった。山本繁氏がどうしても見てもらいたいという十字の特徴を持っている2,3の墓碑だけ、鎌で周囲の雑草を取り除いて見せていただいたが、公園全体の除草となると、それだけで大変な作業と維持費が掛かり、現在では放置されている状態である。 

二江字上久保にあるキリシタン墓碑の調査・浜崎献作会長・山本繁氏


侍ドンの墓碑・手前・蒲鉾型キリシタン墓碑・二江地区
山本繫氏と蒲鉾型キリシタン墓碑・二江地区・侍ドンの墓地
調査後の報告書作成・山本繁氏宅にて

二江字上久保にあるキリシタン墓碑群〔通称・侍どんの墓〕と二江教会跡地「侍どんの墓(キリシタン墓碑群)」(二江字上久保)
『旧・二江小学校南側の山腹に、通称「侍どんの墓」がある。「伊豆之国無縁法界之位」・「南無観世音菩薩」・「三界万霊等」(二基)・「宝暦十年(1760)」などの記銘もあるが、「伊豆国無縁法界等」とあるのは、典型的なカマボコ型キリシタン墓碑である。これ等の墓碑は、横の畑(現在杉山)にあったもので、無記名のキリシタン墓碑10数基が、記銘塔4基の台座として積み重ねられている。元和3年(1617)、徳川幕府のキリシタン弾圧悪宣伝に対抗して、スペインに送られた天草下島キリシタン代表34名の証言書(コウロス徴収文書)の中に、証言者として二会村(二江村)松田杢左衛門(パウロ)の名が見られる。(内野村3名、二江村3名)因みに、この墓地の管理者は二江の松田家である。』
*『五和の文化財を訪ねて・五和町史跡文化財案内』五和町教育委員会 平成12年 

故山本繁氏によると、二江の「侍どんの墓」墓碑群は元々キリシタン墓地であった敷地を、第2次大戦前の食糧確保のために陸軍が全てのキリシタン墓碑を現在の道端に積み上げ開墾して芋や野菜を作っていたとのこと。元々は二江地区のキリシタン共同墓地だったと言われていた。天草島原の乱時の二江村庄屋はコーロス徴収文書に記載されている松田杢左衛門であり、現在のこの墓地の管理者である二江の松田家は杢衛門の子孫であり、同家から司祭になった松田ミゲル神父を輩出している。 

侍ドンの墓碑・かまぼこ型のキリシタン墓碑

『侍どんの墓』
『侍どんの墓と言われているキリシタン墓碑群へ行った。ここは海抜70メートルぐらいの山の中腹に位する。段々畑の片隅にあまた積み重ねてあるが、それが“侍どんの墓”と呼ばれている。元は畑地が墓地で、一つずつ個別にあったものを終戦直後の増産時期に一か所に積み重ねてしまったとのことである。その積み重ねた上方には石塔式のが四基ほど建っている。向かって左から一番目のは典型的なカマボコ型で、しかも両側面に切り込みまである。ところがその表になっている所(実際は上面)に「伊豆之国無縁法界之位」と記銘してある。二番目のは長方型の石碑で「南無観世音菩薩」とある。三番目のは観音像を上方に刻んだ石碑で「三界万霊」「宝暦七辰三月日」とあり、四番目のは自然石に「三界万霊」とある。このなかで一番目のは明らかなキリシタン墓碑で、後の時期にほかのことを記銘したものと見られる。二,三、四番目のはキリシタン墓碑ではなく、この地に寄せ集めるときほかから混じったものであろう。ところが、そのほかに積み重ねたあまたの石を見ると、薄カマボコ型のが三基、凸型カマボコ型が二基あり、ほか約五○基は板碑式長方型のものである。以上ほとんどがいわゆるキリシタン墓碑とみられるものである。

二江教会跡地より早瀬の瀬戸と口之津を望む

 この“侍どんの墓”は元鉄砲鍛冶であった松田家の子孫が管理してきたようで、松田家の先祖の墓とも言われている。「侍どんの墓」という場合、松田家の祖先が武士だったことから呼ばれてきたかもしれない。しかし、松田家がキリシタン武士だったかは現在不明であるが可能性は十分にある。どちらにしてもその墓碑群のほとんどが形態からしてキリシタン墓碑群であることに相違ないようである。残念なことは、これらの墓碑が元の位置から移されたことだが、しかし、これからでも一つ一つを並べてみて復元に近くすることは必要なことである。なお近くの東雲寺の墓地にあるカマボコ型のキリシタン墓碑らしいのを見たが、これらの墓碑がキリシタン墓碑であるかは当の墓碑が一番良く知っている。この日も早崎海峡の向こうに口之津、雲仙岳の素晴らしい眺めをこの墓碑と共に見ることができた。』
*鶴田文史著『天草の歴史文化探訪』78頁 天草文化出版社 1986年(昭和61) 

二江キリシタン教会の基礎石
『謎の人工石』

二江教会の大黒柱を支えていた土台石・基礎石

『上方(うえがた)の君ヶ水にある謎の人工石を見に行った。大きな砂岩で、上面だけが人工化した平たいもの、そのほかは自然のままである。その上面の中に円周の溝が削ってある。大小六辺の変形のもので、縦横役八十センチ、円周の直径は外側が五四センチ、内側が四六センチ、石高(厚さ)が八センチもある。ちょうど人工の礎石か石臼とみられるが石臼にしては石の穴と溝がないので礎石ではないかと考えられる。

 ところで、礎石とした場合、柱の直径が約五十センチのものと思われるが、そうすると相当大きな建築で、現在までも天草でそんな大きな柱および礎石を利用している例がない。もし寺院などの礎石としたら一つではなく多数あるはずである。ところが附近の土地の改変があったとしたら埋蔵されているかもしれない。現にこの一つも畑地の土手に利用されていたものであるが、たとえ二つあったとしたら山門に利用したことも考えられる。どちらにしても、この地は旧二江の旧道の地であるが、当日も見る人に不思議さをのこしたまま、その大きな人工石は、確実なことは何もかたってくれなかった。』
*鶴田文史著『天草の歴史文化探訪』 77~78頁 天草文化出版社 1986年

 『二江教会跡地と二江教会の土台石』
二江教会跡地がどこかは残念ながら現段階では確定されていない。しかし、今回の「侍どんの墓」跡地が、二江教会付属の墓地だと仮定するならば、イエズス会報告に出てくる各地の教会の事例記述には、教会付属の墓地が教会のすぐ近く(または教会の真下、あるいは後方)に設置されていることが報告されているので、可能性としては「侍どんの墓」周辺にあると考えても間違いなさそうである。 

山本繁先生の御指摘のとおり「侍どんの墓」は戦中の食糧難の時期に、墓地だったその区域を芋畑にするために、点在していた墓碑が現在の「侍どんの墓」と呼ばれている畑の北端、石垣の根元に集められて積み重ねられた。したがって,『侍どんの墓』の跡地が二江教会の墓地であることはまず間違いないと推測される。 

次に着目したのは、墓地周辺の石垣の見事さである。畑を作るためにこのように堅固な石垣を築く必要があるであろうか。周辺の畑でこのような堅固な石垣が組まれているのはここだけとのこと。「侍どんの墓」の北西の堅固な石垣が、先ずその上にかなりの重量の建築物を支えるために頑丈に築かれていることを物語っている。 

「侍どんの墓」の上の敷地は大きな教会を建てるには残念ながら十分な広さではなかった。おそらく、教会の事務所、教会関係者たちの宿泊所、または倉庫を建てるに適している大きさと推測される。 

「侍どんの墓」の前の道、幅1メートルの道を隔てた北側は、墓地の約3,4倍の広さがあり、かなり大きな建物が建てられる広さが確認された。その広い敷地の上側の石垣がより堅固に作られている。堅固な石垣の中頃にある狭い石段を登ってみると、そこの敷地は教会を建てるに相応しい広さがあり、下の敷地よりさらに広く平らに整地がなされていた。その上側にも広い敷地が確保されていたが、おそらくこの敷地が二江教会跡地であろうと思わせるに十分な条件がそろっていた。 

そこからの見晴の素晴らしいことは言うまでもない。青く輝く早崎海峡を挟んで対岸に口之津が眼下に望め、口之津の後方に雲仙普賢岳、原城までが指呼の距離に見える絶景地である。「侍どんの墓」周辺の測量,及び、発掘調査をするならば大きな発見につながる可能性を秘めた場所である。近年(2011年5月)大分県臼杵市野津町大字原字下藤地区で出土したキリシタン墓地群と同様の大規模な二江教会跡地を含むキリシタン墓地やキリシタン遺構が出土する可能性の眠っている場所である。 

次に山本繁先生の案内で松田家の庭にある『二江教会の土台石』と呼ばれている六辺の変形の大石で各辺80㎝四方型の凝灰石を見た。上面だけを人工的に加工した平たいもの、そのほかの面は自然石のままである。その上面の中に円周の溝が削ってある。縦横約80㎝、円周の直径は外側が54㎝、内側が46cm、石高(厚さ)が8㎝、人工的に加工した礎石と考えられる。石臼にしては石の穴と溝がないので礎石ではないかと考えられる。 

現にこの礎石も畑地の土手に利用されていた。礎石と考えた場合、大黒柱の直径が約50㎝位と思われるが、50㎝の大黒柱が乗っていた礎石と考えると二江教会は相当に大きな教会建築であったと思われる。もし教会の礎石としたら一つではなく多数あるはずである。

二江教会跡地と推測した附近の土地のどこかに、この礎石と同じ形の他の礎石も埋蔵されている可能性があるかもしれない。礎石が発見されれば、それこそ二江教会跡地と断定できる。大きな歴史的発見につながり、天草キリシタン史に新たな一頁を書き加えられる。 

「ミゲル松田神父」
『天草の志岐出身で、1578年(天正6)に生まれ、年代は判明しないが6年間セミナリヨでラテン語を習い、1607年(慶長12)にイエズス会に入り、2年間、長崎のトードス・オス・サントスの修練院で修練期を終え、1609年(慶長14)に誓願を立てた。その後セミナリヨで2年間ラテン語を教えたそうであるが、1613年(慶長18)2月現在の会員名簿でラテン文法の教師として挙げられている。 

1614年(慶長19)の国外追放にあたって、彼はマニラへ渡り、そこで勉強を続け、1621年(元和7)に司祭叙階の許可を受けたが,何時叙階されたか判明しない。いずれにせよ、1623年(元和9)に司祭として史料に出ているが、その年、マニラからマカオへ渡航中,支那の海岸で逮捕され牢屋に投ぜられた。いつ解放されたかわからないが、ペトロ・カスイ岐部神父が自分の苗字をラテン語に訳し、Pineda(Pina=松)と称していた。

1630年(寛永7)の春、岐部神父と一緒に船を買い入れ、数人のキリシタン水夫を伴い、まずマニラ湾口にあるルバング島に行き航海の準備にとりかかった。6月に一行は出発し、7月に薩摩藩の坊ノ津に入港した。その後、松田神父は長崎で働いていたが、1633年(寛永10)9月に、彼をかくまっていた宿主が捜査を恐れて神父を家から去らせた。折からの暴風雨の最中で、神父は泊る所がなく、山中で倒れて死去した。』
*『キリシタン時代の邦人司祭』H・チースリク著442~443頁 
キリシタン文化研究シリーズ22 

元和3年(1617)、徳川幕府のキリシタン弾圧悪宣伝に対抗して、スペインに送られた天草下島キリシタン代表34名の証言書(コウロス徴収文書)の中に、証言者として二会村(二江村)松田杢左衛門(パウロ)の名が見られる。(内野村3名、二江村3名)ミゲル松田神父は、松田杢左衛門の息子と思われる。因みに「侍どんの墓」の管理者は二江の松田家である。「侍どんの墓」の唯一のカマボコ型のキリシタン墓碑はミゲル松田神父の可能性もあるかもしれない。 

もしそうでなくても、「ペーが墓地」「岩宗墓地」の墓碑と同じ墓碑が、「侍どんの墓」のその他に積み重ねた墓石の中に、薄カマボコ型が三基、凸型カマボコ型が二基あり、ほか約五○基は板碑式長方型のものがある。ほとんどがいわゆるキリシタン墓碑とみられるものであるので、その中にミゲル松田神父の墓碑もあると思われる。 

天草に於けるキリシタンたちの信仰
 1566年(永禄9)、天草富岡の志岐麟泉は宣教師たちがもたらす莫大な富に目がくらみ、宣教師アルメイダ(Luís de Almeida)を騙して洗礼を受け、領地の富岡港にポルトガル船を入港させようと企みナウ船入港と引き換えに志岐の領民(天草下島)をキリシタンにした。しかしナウ船が入港しないと判るとすぐに志岐麟泉は棄教した。 

『しかし、殿(志岐麟泉)の模範に従ってキリシタンになった領民は、後に領主志岐麟泉からの弾圧があっても屈服せずに信仰を守り抜いた。志岐麟泉の養子になった諸経(有馬仙厳の五男)は、キリシタンを辞めなかったために命を狙われ天草御領へ逃げている。志岐麟泉の領地は、現在の苓北町富岡から五和町の二江、鬼池、大島、浜田、御領、佐伊津、現天草市の広瀬地区であり、領民の大半がキリシタンであった。』
*レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』下巻 第14章 131~133頁

1621年(元和7)、天草番代として赴任した興秋の従兄弟・三宅藤兵衛重利がキリシタンを迫害した記録が克明に記載されている。富岡城下の志岐と大江で行われた迫害の記録が、天草のキリシタンたちの強い信仰を物語っている。数多くの信仰篤き信者が迫害により尊い命を奪われた。 

唐津藩寺沢広髙の統治していた天草に於いては比較的穏便な対策が取られていたが、幕府の方針に従い、1619年(元和5)を境に天草に於いても迫害が開始された。幕府のキリシタン政策の手前、各藩とも足並みを揃えなくてはいけない事情があった。天草番代である三宅藤兵衛重利にもキリシタン迫害の命が通達された。

1619年(元和5)初春頃から、三宅藤兵衛は各郡代にキリシタン百姓を強制的に棄教させるように命じている。迫害は富岡城のある志岐から始められた。三宅藤兵衛重利のキリシタン迫害は、キリシタン伝道と同じ工程を辿っていて、まず地元の志岐・富岡から西側の海岸線に沿って南へ下がり大江地区、﨑津地区、天草河内浦と迫害を進めている。 

三宅藤兵衛も従兄弟の興秋の息子興季(おきすえ)が庄屋をしている下島の東側、御領、佐伊津地区ではキリシタン迫害を行ってはいない。さすがに甥興季の前では酷いキリシタン迫害をできなかったと考えられる。興季の存在が藤兵衛の迫害の抑止力だった。

彼らキリシタンの信仰は「天草島原の乱」(1638年・寛永15)の後迄かくれキリシタンとして受け継がれていた。天草の下島・現在の五和町の二江、手野、城河原、鬼池、大島、浜田、御領、佐伊津地区には多くのキリシタン墓碑が存在している。 

キリシタンの信仰とは
 イエズスの記録には、大名も大名の奥方も武士も商人も百姓も下層階級の人々の記録も描かれている。改心は個々の人々の心の変化の記録である。またそれは歴史的な事実でもある。キリシタン史では、個人の改心は根本的な重要な出来事である。個人の改心の過程を無視することは、その人に起こった歴史を無視することでもある。 

歴史は個々の魂の変革により作られるものであり、それを無視して歴史は成り立たない。キリシタン史の研究が歴史研究の一端として扱われている現在、その研究が本当の意味でのキリシタン史の研究かどうかを検討していく必要がある。キリシタン史における歴史の出来事ばかりが扱われ、その時代に信仰に生きた人々の魂の回心(神の道へ心を向ける)や改心(心を入れ替えて新しく歩む)、改新(新しい心で人生を歩むこと)等が、歴史上のキリシタンであった人々の歩んだ道、魂の遍歴においてで語らなければ、本当の意味でのキリシタン研究とはならない。 

キリシタンが生きた時代の出来事ばかりを取り扱い、その出来事がキリシタン史だと書いてある本が多くあるが、その中に個人の信仰問題を扱った本は無きに等しい。キリシタンを扱うこととは、あの殺伐とした戦国時代に、その個々のキリシタンがその時代に於いて日々をいかに生き、如何に信仰を構築していったかを知ることが最も重要なことであり、その信じた信仰にいかに生きたかを知ることこそ本当のキリシタン研究である。 

本当のキリシタン研究は歴史に起こった事柄を知ることではなく、その時代にひとりのキリシタンとしてどう生きたか、どの様に信仰を堅持して殉教したかを知ることである。

そのキリシタンの生き様が、今の自分の信仰を生かすことを学ぶこと、400年の時を超えて、彼らの生き様を今の自分の生き方に取り入れて、キリストと共に今を信仰者(クリスチャン)として歩む生き方をすることを学ぶことこそ本当のキリシタン研究である。 

大友宗麟、黒田官兵衛孝髙、蒲生氏郷、髙山右近、細川ガラシャ、細川興秋、歴史上、キリシタンとして有名な彼らの生きた信仰と生き方を知らなければ本当のキリシタン史の研究にはならない。彼らの歴史書を読む時、ほとんどの歴史書が彼らのキリシタン信仰を無視している。外見ばかりの「彼らはキリシタンであった」の一言で片付けられている。 

歴史の中で彼らは一人の人として、キリシタンとして生き、葛藤し、生き方を模索しつつ生きた。信仰するという行為は、その人の中に、信じるという思想を構築することであり、その思想がやがて信仰というひとつの形を形成することである。 

人故に多くの失敗もあり、或る者は為政者の顔色を伺って信仰を棄て迫害者に転じて行った。それらすべてを洗いざらい歴史の流れの中で知ることにより、本当にその歴史の時間を生きた一人のキリシタンとしての真摯な生き方が現れてくる。 

学ぶべきは彼らの信仰による生き方であり、歴史に起こった出来事ではない。キリシタンの歴史を学ぶこととは起こった出来事を基礎知識として知ることでもあるが、その歴史の中で一人のキリシタンとして、あの過酷な禁教時代を如何に生きたかを知ることこそ、本当の信仰者の生き様が、これからの時代を生きる我々の手本となり励ましとなって行く。

あの過酷なキリシタン時代の社会で、異教徒を入信に導いた一番効果的伝道の手段は、言うまでもなく名もなき信者たちの献身的な宣教の姿だった。

殉教者たちの証

「迫害とは、信仰を棄てさせようとする権力者の暴力であり、殉教とは、その信仰の真実をあかしし、キリストへの愛を示すため、自由に捧げる命の犠牲である。日本での迫害は、長く、厳しかったが、キリシタンたちの証は輝かしいものであった。」100頁
*結城了悟著『ザビエルから始まった日本の教会の歴史』女子パウロ会 2008年

「日本に於けるキリスト教の歴史では、殉教者たちの証は特に意義深い。日本に生まれ、キリストの教えを信じ、身をもってキリストの苦しみを背負い、命を捧げた殉教者たちは、日本の教会の誉れである。彼らは真の意味で心の貧しい人々であった。人間としてすべての権利を奪われ、権力者の絶え間ない圧迫の中で生きたが、彼らの謙遜な忍耐は、ついに迫害者の力に打ち勝った。
聖フランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)の上陸(1550年)以来、日本で行われた人間的な出会いと、殉教者たちの英雄的な態度の結果として、キリストの教会は日本にも市民権を得、日本の文化の流れに融け込んでしまった。その教会に属するわたしたちは、現在と将来の日本の発展と人々の幸福のために力を尽くす責任がある。」8~9頁
*結城了悟著『ザビエルから始まった日本の教会の歴史』女子パウロ会 2008年

最近のキリシタン研究
最近「キリシタン墓碑学」なるものが定着して、キリシタン墓碑を時代ごとに区分して、「花十字架の形の移り変わり」とか、「墓碑の形式による時代的変成課程」また判別化が行われてきている。その研究成果として『日本キリシタン墓碑総覧』南島原市世界遺産地域調査報告書、企画 南島原市教育委員会、編集大石一久氏 2012年(平成24年)が出版された。西日本に於けるキリシタン墓碑の大半が網羅されていて、すべてカラー写真で紹介されている。「キリシタン墓碑」に関する素晴らしい文献である。 

1550年(天文19)初めてキリスト教がフランシスコ・ザビエル(Francisco Javier)とコスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres)神父によって日本にもたらされて以来、キリシタン墓碑がどのように変成していったかの過程が明確に時代ごとに分類されていて、墓碑学、考古学的見地からのキリシタン時代の分析のひとつの結果を、この本が明確に明示している。このような視点からキリシタン研究が支えられていることをうれしく思う。 

この本が出版された前後に大分県臼杵市野津町下藤地区で「キリシタン共同墓地」が調査された。この「下藤地区のキリシタン墓地」は完全な形を持つ大友宗麟時代のキリシタン墓地であり、野津地区の無名のキリシタンたちの共同墓地であり、その墓地の形態は新たな「キリシタン墓地の形態」として、今までキリシタン墓碑として認定されてきた墓碑の概念を覆すものであった。 

この下藤地区で使われていた墓碑の形態は、同墓地にある殉教した「常珎」の半円形状伏碑の形態とは全く違うものであり、天草地方御領にある「ペーが墓地」「岩宗墓地」に近い形を有する教会に付属した「教会墓地」の形を持っていた。天草市五和町二江字上久保にある通称「侍どんの墓」、御領周辺のキリシタン墓碑群も同様である。長崎市多比良町「垣内キリシタン墓地」も同様である。 

「キリシタン墓碑学」が確立してきたことは喜ばしいことだが、しかしその反面「墓碑学」により作られた基準に合う墓碑だけがキリシタン墓碑として認定される傾向にあるが、本当にその「墓碑学によって作られた基準」が全てのキリシタン墓碑の基準になるのだろうか。

墓碑に刻印された印が証明できる墓碑だけがキリシタン墓碑として承認されている現状では、天草にある刻印なしの一件無造作な作りの墓碑は対象からまったく除外されている。 

特に天草御領地方のキリシタンの歴史を鑑みる時に、そのような「現代的キリシタン墓碑学」の作成した基準に当てはまらない約1,000基の墓碑の多さに戸惑いを覚える。しかしこれら天草御領周辺にある無名の墓碑も立派なキリシタン墓碑であることに変わりはなく、400年後の現代的キリシタン墓碑学の作成した基準を無理やりに押し付け、その基準により識別して判別する強引なやり方に矛盾を感じるのは私だけだろうか。 

天草に於いても天草市立キリシタン館主催で行われた公開講演会で「御領周辺の墓碑はキリシタン墓碑ではない」との見解を示され、余りにも偏見に満ちた結論に呆れている。 

天草の御領周辺に点在している無銘のキリシタン墓碑が語りかける歴史の言葉に静かに耳を傾ける謙虚な姿が「現在のキリシタン墓碑学」には欠けている。自分たちの調査した「キリシタン墓碑の基準」作りが先行して、それに当てはまらないキリシタン墓碑はキリシタン墓碑として認めない、切り捨てていく風潮は、自分たち作り上げた「基準の自己主張の範囲の押し付け」に他ならず、逆にその自己主張の矛盾の押し付けを滑稽に思ってしまう。 

400年前から存在する墓碑を、現代の人たちが作った「墓碑学」という物差しで測り基準化する愚かな行為としてしか神の目には映らないのではないだろうか。神が見られた時にどう思われるのだろうか。 

『日本キリシタン墓碑総覧』は日本に於いての1550年からの約100年間のキリシタン時代に制作された墓碑を基準として作られているが、同時代のヨーロッパ、スペイン、ポルトガル、イタリア、イギリス等のカトリック国における墓碑形態の変化、変遷には全く言及されていない。 

日本に於けるキリシタン時代の1550年からの100年のすべてはヨーロッパのカトリック教会に負っているのだから、ヨーロッパのカトリック系教会の墓碑形態の変遷が土台としてあるべきであり、それに比較照合しての「日本に於けるキリシタン墓碑学」でなければならないと考える。 

墓碑の高さや大きさから年代の特定基準を述べている個所もあるが、その特定基準が必ずしも明確ではない。無銘の墓碑に関して、墓碑には年代は記載されていないが、その墓碑に対して調査した個人の判断で大まかな特定基準が述べられている個所も多くあり、その基準が非常に曖昧模糊としていることも疑問に思う。 

ヨーロッパのカトリック教会(イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス、イギリス等)大聖堂や修道院、地方の教会付属の墓地を巡って、確かに修道院ごとの形態、国ごとの形態、時代ごとの墓碑の形態があることは訪ねてみれば解るが、それが統一された形態化というと必ずしもそうではないことが判る。だからこそ、日本のキリシタン時代の1550年からの100年間の墓碑学を確立するためには、まずヨーロッパ各国における「墓碑の変遷」を知ることから始めなければ「元の基準が無い」「比較検討する基準が無い」「ヨーロッパの基礎史料のない」独り善がりの「日本の墓碑学」になってしまうのではないだろうか。 

キリシタンの信仰とは墓碑の立派さや形や姿で判断するものではないはずであり、その時代を生きた信仰者がいかに神と共にどのように生きてきたかを知ることこそ、真の誠のキリシタン研究であると考えている。 

特に「天草島原の乱」に関する基礎史料の大半は、天草島原の郷土史家たちにより既にすべてが明らかにされている。また「天草に於けるカクレキリシタン」変容の課程の姿も、ほぼ全容が明らかにされている。現在に至るまで「天草島原の乱」に関する本が出版されているが、それらはすべて過去の天草の郷土史家によって調査され明らかにされている文献によっていることが大半であり、新事実は極稀にしか書かれていない。 

また某大学教授の書いたカクレキリシタンを含むキリシタン関係の本の基礎史料が、実はある地方の郷土史家の長年の研究調査史料が著書の土台として使われていることを知るときに呆れかえる。郷土史家を踏み台にして大学教授になった人の多さにも呆れかえる。 

今日でも某大学の博士課程研究員が、親切で人の好い地方のカクレキリシタンや郷土史家を訪ねて情報資料を集めて回っている現状を聞くときに、何か不純な動機を感じるのは私だけだろうか。カクレキリシタンの歴史から何を学んでいるのだろうか。カクレキリシタンの信仰なのか、それとも彼らキリシタンの生き方なのか。自己の学位取得のための情報収集だけなのか。地方の郷土史家の親切心や信仰心に付け込んだ自己本位・自己中心的な研究、キリシタン史蹟案内依頼は慎むべきである。 

事実、キリシタン史関係の著者(大学教授等)が自分の足でその土地に行き、自分の足で現地を歩き回り調査して築き上げた史料でないことが多くある。昔はそれでよかったのかもしれないが、これだけ情報が簡単に入手できる時代でも、自ら現地へ行き収集しなければ集まらない歴史史料や地域資料もあることを肝に銘じるべきである。 

逆に各大学が持っている史料をすべての人に開示提供することを如何に怠っているかを考えていただきたい。自分たちが持っている史料を開示せずに、それを特権の如く扱い、キリシタン史において権威者の如く威張り振舞う大学教授のいかに多いことか。大学教授、大学研究員と言って、地方の郷土史家を見下す時代はすでに終わっている。 

神不在のキリシタン研究
神不在のキリシタン研究は学問的に成り立っても、信仰に益するものはひとつもなく、そこには研究者の学問の自己主張、自己満足だけが横行する。神はそのようなことは決して喜んではおられない。 

「キリシタンはロマンだ」「キリシタンは金になる」という風潮が、近年キリシタン研究の世界に中に生まれていることも事実である。「キリシタン文化遺産を世界遺産にしたのは観光目的です」との発言に商業主義の本音を聞く。 

「未知のキリシタン学では博士号が取りやすい」。謎の多いキリシタン研究、キリシタン歴史学により、自分の主張を論考にして学位を取り、あわよくばキリシタン研究により飯を食おうとする自己本位な学者たち、大学教授も最近は多く目につき始めている。教会内部にも「博士号なんかとっておいたほうが、格好が付く」「博士号を取得しているほうが、教会信徒が信用する」「博士号を持っていないと教会内部での指導的立場に付けない。教会内部で出世できない」という教会指導者たちの言葉を耳にする時に、キリスト教精神の真摯な姿からの逸脱や矛盾、脱落、軽薄な信仰を感じるのは私だけだろうか。真摯な信仰の欠如を神はどのように見られているのだろうか。 

「神の教会とはエクレシア。神により呼び集められた人々」という意味である。だから教会は神により呼び集めて下さった神の基に集まる人々の集う場所、主キリストのものである。 

その教会をいつの間にか自分たちの所有物の様に考えたり、支配しようとしたりする人々が横行し始めている。今一度教会とは神の御座であることを考えなければならないし、教会を超えて、神が個人の信仰を義として認め救ってくださることを確認しなければならない。神にのみ救いがある真理を、キリシタンたちは信じ知っていた故に殉教もいとわなかった。 

学問的なキリシタン研究を決して否定するものではないが、神不在のキリシタン研究の姿勢を神はどう見るであろうか。キリシタン研究にあるべき神の存在無くして、その研究はもはやキリシタン研究の意味を持たない。キリシタン研究者は神に対する真摯な信仰を持つべきである。少なくともあの苛酷な時代に生きたキリシタンの信仰を深く理解すべきである。信仰無きキリシタン研究は、唯の虚しさだけが残ることになる。 

キリシタン時代、苛酷な迫害の中、殉教することもいとわない信仰心とは何なのか。彼らは神に命を賭けて信じていた故に、迫害に耐えた事実を認識していただきたい。綺麗事のキリシタン研究などはいらない。自分のためのキリシタン研究ならばやめていただきたい。自己顕示、自己出世のためのキリシタン研究ならなおさらである。 

神のため、殉教者のため、命を賭けて神を信じてあの逆境の中に命を賭けて日々を生きたキリシタンの生き方を学ぶための研究でなくては、真のキリシタン研究にはならない。 

キリシタンが命を賭けて持っていた尊い篤い信仰心を無視して、学問優先のキリシタン研究は、真のキリシタン研究になり得ないこともまた確かな事であり、少なくともキリシタン研究に従事するのであれば、キリスト教の真理とは何かを自覚して欲しいし、また神に対する信仰とは何かを真摯に真剣に考えてほしいと願うのは私だけではないはずである。 

真のキリシタンの信仰
神の前に真摯に生きることこそが人の生きる道であること。キリシタンと呼ばれる時代は人間の尊厳や人間の存在そのものまで疑わせる時代だった。しかしその時代であっても、キリスト教の信仰を自分のものとして受け止め、絶対に譲れない神を信じる信仰の自由、それに命を賭けて自分の生き方を神の前に問い続ける姿勢を持って日々を生きた。人生における困難と迫害を神の御旨として受け止め、神という絶対者を信じ、神の領域にこそ永遠の命があると信じて生きた。それを信じて生きるためには確立した自己がなければならなかった。キリスト教を自分の生き方として受け止め、それを生きた人たちと為政者との間に生じた確執の結果が殉教だった。殉教した人たちとは、確立した自己を持ち、人間の生き方、信仰の高貴さや魂の優しさを証しする必要があったとき、ひとりの人間として神の前に真摯に生きること選んだ人たちだった。

天草御領の郷土史家・故山本繁先生・後に「マリア観音像の掛け軸」がある・サンタマリア館にて

キリシタン遺物(信心道具)の取り扱いについて

御領の郷土史研究をされていた故山本繁氏から教えて頂いた話に、その昔、下島南西地区の髙浜、大江、﨑津、今富地区のキリシタンたちが、下島北東地区の御領周辺のキリシタンを訪ねて来て、1805年(文化2) の「宗門心得違い」事件の時、徹底した穿鑿調査により、この地域のキリシタンが所持していた信心道具は全て没収された。それでもキリシタンたちは心の拠り所として、没収された信心道具の代用品を希求した。その求めた先が同じキリシタン組織のあった下島北東地区、御領周辺のキリシタンたちが所持していた信心道具だった。 

役所・官憲に没収された、あるいは提出しなければならなかったキリシタンの信心道具の代わりに、御領周辺のキリシタンが所持していた信心道具「マリア観音像」「十字架の付いた仏像」「マリア観音を描いた掛け軸」等を譲り受けて、新たに自分たちの信仰の対象として拝んでいたことを聞いた。 

山本繁氏の話によると、髙浜、大江、﨑津、今富地区のキリシタンたちが現在所持しているキリシタン信心道具は、殆どが御領周辺のキリシタンから譲り受けた道具との事である。その意味でも、大江にある「ロザリオ館」、天草市本渡の「キリシタン館」の展示物の中には、出所不詳のキリシタン信心物があることは確かな事で、そこには出所が明確なキリシタン遺物を見分けることの難しさも存在している。 

キリシタン遺物の正否判定についての問題点
キリシタン関係の学芸員がいるからすべてが正しく判断されているかどうかも疑わしい問題もある。天草独自のキリシタンの歴史を十分に熟知していない経験の浅い学芸員の判断が間違っていることも多々ある。自分の置かれている学芸員や館長の地位を笠に、すべての天草のキリシタンの歴史を知っているかのように発言し指導する明らかに間違った行為は、正に暴挙としか言えない。御領の約988基あるキリシタン墓碑を、すべてキリシタン墓碑でないと否定したキリシタン館主催の公開講演講座等が良い例である。 

正しく物事を伝える事、自分の意見を正しく相手に伝えることとは、十分な検証作業を経てなおかつ意見を吟味して、そのような作業を重ねてこそ正しく相手に伝わるのであり、その場での思い付きでの無責任な意見を述べることは許されない。もし間違っていると気が付いたら、その時点で潔く修正すべきである。このような姿勢こそ正しいキリシタン研究者の在り方だと思っている。 

このキリシタン遺物の正否を見極める難しい作業は、天草、島原に限定した問題ではなくキリシタンが存在したすべての地方を含むすべての博物館に当てはまることであり、全国にある博物館に展示されているキリシタン遺物に対しての検証問題としても当てはまる。 

時代の移り変わりと共に、科学が発達して、キリシタン遺物に対する検証過程の変化による正否判定が確立されていくことだろう。偽物(商業主義や観光客目的で作られた土産物・模造品等)は淘汰されなければならないが、カクレキリシタンが所持していた本物と偽物の見分け方をどう確立していくのか。その過程に於いての正否問題の難しさをどう克服していくかも、後世の我々研究者に課せられたこれからの課題だろう。 

古田織部灯篭について
古田織部重然(しげなり)1543年(天文12)誕生、1615年(慶長20)7月6日死去

今まで「キリシタン灯篭」と言われ認識されていた灯篭が、実はキリシタンとは一切関わりが無く「古田織部が発案した灯篭」だったことが定説になってきた。「カクレキリシタン研究会」も今まで「キリシタン灯篭」として認識していたが、現在ではこの認識が誤った過去の指導者たちによって作られてきた認識であることが周知理解され、今では是正されている。過去の間違った認識は時代と共に修正されて、新たな進歩に繋がっていく。

「古田織部灯篭」と言われているが、果たして、いつの時代に、茶人古田織部が創作した灯篭なのか、いつの時点から織部灯篭と言われ、世に広まって行ったのかを、歴史的に検証して確定していくことにより「キリシタン灯篭」と言われていた誤った認識が、歴史的にも是正されていくことに繋がっていくことになる。 

熊本県菊池市七城町にある沢村家墓地・左端・古田織部灯篭 右端・キリシタン灯篭
右端にあるキリシタン灯篭正面・三日月・聖母マリアの象徴
キリシタン灯篭の裏面・くり抜いた部分・父なる神・デウス、横棒と蠟燭で十字架を作る

沢村さんの墓碑・キリシタン灯篭
熊本県菊池市七城町大字亀尾字北杉田2028
『沢村家系図によると、初代・沢村大学は足軽で姉川の合戦等の多数の戦いに参加して武功あり9,000石を賜り、二代目大学は功により1万1,300石で家老職を務めている。三代目大学は家老だったが、閉門を請け(キリシタン嫌疑により)四代目がこの五輪塔の主で、先祖の功により閉門を解かれて知行を返下されている。名を友武(友明)ともいう。代々細川家重臣であり、沢村家の菩提寺は熊本市柿原の成道寺に代々ある。四代目だけがこの七城にある確たる理由が判らないが、沢村家の知行地がこの一帯に在り、その取り立て地がこの七城にあった。四代目は風流を好み茶道に精通していて、前川の山紫水明を愛し、茶室を造り、風流三昧の末に、この地を菩提と定めたと考えられる。隣地の山本氏は当時から代々この墓碑を守り今日に至っている』
*案内板の説明文より

写真説明 
写真中央に ①第四代の沢村友武氏の墓碑(五輪塔) 
②左下端に「古田織部灯篭」 
 
③右下端にキリシタン灯篭・制作年代不明
正面・☽ 三日月、聖母マリアを表現している
後面・〇 丸く繰り抜いて太陽を表現していて・父なる神・デウスを表現

側面左右に細い棒を通す穴があり、この穴に棒を通すと十字架の横棒となる。
その横棒の前に蝋燭を点すと、縦の十字の線になり、全体的に見ると十字架になる。
裏面・〇太陽・父なる神の中に子なるキリストを象徴する十字架が表現されている。
正面・三日月から明かりが通り、聖母マリアを表すようになっている。

沢村家のキリシタン墓碑にあるキリシタン灯篭には、冬至と春分の日の年二回,火が灯され慰霊が行われている。冬至はキリスト教ではクリスマス(降誕祭)に当たり、春分の日はキリストの復活祭(イースター)に当たる。
現在は冬至と春分の日に何故慰霊祭が行われるのかの意味さえ忘れられているが、明確にキリスト教の降誕祭(クリスマス)と復活祭(イースター)を祝っていたことが伝統となっている行事から判明する。

門構えをした鳥居の上にあるキリシタン灯篭・制作年代不明
福岡県田川郡香春岳西の五徳畑ヶ田・弘法院境内

福岡県田川郡香春岳西の五徳畑ヶ田・弘法院境内・キリシタン鳥居・上部・キリシタン灯篭

福岡県田川郡香春岳西にある五徳畑ヶ田の弘法院の右手に「胎蔵界」として、長さ20・5mの自然トンネルがあるが、キリシタン時代、礼拝する場所として使用されていたとも言われている。五徳畑ヶ田の町道より階段を上り詰めた上に門構えをした鳥居があり、鳥居の上の中央部の上に火を灯す灯篭がある。この灯篭の右側に〇(デウス・神)

〇デウス・神を象徴しているキリシタン灯篭

左側に ☽ 三日月形(聖母マリア)を象徴した彫り物がある。

三日月・聖母マリアを象徴しているキリシタン灯篭
*情報提供・柳井秀清氏・三島さとみ様 香春町鏡山932
香春町殿町・秋月街道沿いにあるキリシタン祠・右扉・〇デウス、左扉 ☽三日月・聖母マリア

福岡県朝倉市秋月の長生寺
キリシタンである興膳善入が創建した教会がある。貿易商だった興膳善入はイエズス会の会計を支えた裕福な博多商人であり、莫大な富で秋月の土地を購入して、この地に教会を自費で建設して寄付している。当時秋月には800名のキリシタンがいたと記録にある。
興膳善入の創建した長生寺には多くのキリシタン墓碑があり、また石の祠には、〇デウス・神、☽三日月・聖母マリアを象徴する祠、キリシタン灯篭等が数多くみられる。

秋月・長生寺裏山にある興膳善入の墓碑

大涼院・黒田長政夫人のキリシタン寺
同時代を生きた黒田長政夫人・栄姫の菩提寺

秋月・大涼院・黒田長政夫人・栄姫墓碑

*この様な「キリシタン灯篭」「キリシタン祠」が各地にあるようだが、明確な情報が得られていない。もし、これと同様の「キリシタン灯篭」「キリシタン祠」等を見つけられたら情報を教えて頂きたい。
 
草におけるキリシタン信心道具の取り扱いについて
1805年(文化2) 2月に発覚した髙浜、大江、﨑津、今富における「宗門心得違い」事件後も、大正期、昭和初期まで存在していた天草のカクレキリシタンの求めに応じて作られた信心物の存在も含まれる。これらはかくれキリシタン信徒が自らの信仰の対象物として求めた信心道具(信仰の対象物)であり、その信仰には純粋な信仰心が働いていた。 

また、昭和初期の時代になり、天草に於いては1805年(文化2) 2月に発覚した髙浜、大江、﨑津、今富における「宗門心得違い」事件を起こした下島南西地区のカクレキリシタンの組織も、信徒数が減り、水方・帳方の高齢化、過疎化と相まって組織と信仰が維持できなくなり昭和30年代には自然消滅的に消えていった。これにより天草に於けるカクレキリシタン組織の存在が無くなった。

天草の骨董品店・土産店で販売されていたマリア観音の掛け軸 
模造された掛軸のマリア観音の拡大


天草御領から持ち込まれた幼いイエス・キリストの御像・年代不明

特に戦後、御領周辺の元キリシタンたちから、元キリシタンが使用していた信心道具を大量に買い集めた御領の故柴田和義氏が、鬼池港の隣の骨董品店で、天草土産・キリシタン遺物土産として販売していた話も聞いている。
天草にあった骨董店、土産物店のほとんどで模造品のキリシタン遺物が販売されていた。「マリア観音像」「十字架の付いた仏像」「マリア観音を描いた掛け軸」等が土産物として人気があり、特に白磁の平戸焼の「マリア観音像」は人気が高く、売れ筋として一番の人気商品だったと聞いている。 

天草御領にある東禅寺の住職・北川顕正和尚様から「東禅寺がキリシタン寺と言われているが、過去の記録が無いので調査して頂きたい」旨依頼され調査させていただいた。東禅寺の初代住職の志岐諸経・悟道眞元空法禅定は有馬仙厳の5男でありキリシタンだった。嫡子・第2代住職・正願和尚は御領周辺のキリシタンを指導した人物で、細川興秋(宗専)が1635年(寛永12)小笠原玄也の穿鑿訴追により山鹿郡鹿本町庄の「泉福寺」より避難することを余儀なくされた時、興秋の息子・佐伊津の庄屋の興季の依頼を受けて、興秋を御領の東禅寺に匿っている。その後、興秋は御領城内に『長岡寺薬師堂』を建立して、東禅寺より独立している。それ以来8年間、正願和尚と興秋は共に宣教に働きキリシタンたちを指導し、1637年(寛永14)「天草の乱」の時、御領周辺のキリシタンたちを乱に加担しないように導いている。正願和尚の代の後は、興秋の孫の一人、第2代・大庄屋・長野宗左衛門興茂の双子の弟が、東禅寺に入寺して「了宿」和尚と名乗り、正願和尚の後を継いでいる。東禅寺の3代住職からは興秋の子孫が住職を務めている。この時代当主がキリシタンならば、一族郎党は皆キリシタンだった。一族すべてがキリシタンであるので、厳格にキリシタンであることが外部には漏れず、秘密が守られるからである。
*参照 天草御領の東禅寺・キリシタン寺の歴史 

北川顕正住職に「東禅寺はキリシタン寺だったから、何かキリシタンに関する遺物等が寺に保管されてはいないですか」と尋ねた。北川住職は「子供の頃、2,3点のマリア像や、明らかに仏教寺(東禅寺)に関係が無かろうと思われる遺物があったが、それがキリシタン遺物とは思わなかったし、父の代に、檀家で古物商の故柴田和義氏が、その遺物を欲しがったのであげてしまった。」と言われた。どのようなキリシタン遺物だったのか興味は尽きないが・・・ 

特に戦後の35~40年代、1966年(昭和41)9月24日の天草五橋開通による三角町(熊本県側)から車で直接天草へ訪れる利便性の良さによる観光開発に合わせて、土産物としての販売目的でキリシタンの信心道具の模造品・コピー品も作られていて、多くの観光客が天草のキリシタンにロマンを感じて土産物として購入していた。「マリア観音像」には中国製の輸入物、白磁の平戸焼の物が多くみられる。中には「マリア観音像に十字を彫り込んだ像」まであった。「☩の印のある仏像」は仏教徒の家庭にあった古い仏像(大概は弘法太子像)に十字の印を彫り込んだ仏像。「マリア観音を描いた掛け軸」は絵が描ける人に依頼して描いてもらったマリア観音絵に表装師が綺麗に表装した類似画(コピー、または想像で描いたマリア像画)である。
*上記に掲載の様な「聖母マリアを描いた掛け軸」と同等物。 

博物館の展示品の中にはそれらが含まれているようで、それらの模造品が、キリシタンが実際所持していた本物の信心道具かどうかを見極めることを一層難しくしている。

長崎外海のカクレ(潜伏)キリシタン帳方・村上茂則宅に伝わる唯一のマリア観音像

マリア観音について
 天草における岩谷(岩壁)の観音像群があるのは五和町御領周辺だけで、この岩屋観音群を初め、浦園、鬼之城、城河原の野口、手野の三岳などに無数の観音群が存在しているのは石材としての凝灰岩が多いということばかりでなく、観音信仰の宗教的傾向を明確にする必要がある。土台にあるのは「マリア崇拝信仰」であり、マリア崇拝信仰が、観音信仰を仮託として仏教化していった。

 御領城近くの專福庵跡地・御領字堀(岩谷観音堂の崖上)
「岩谷観音と石仏群(御領字堀)」

『もとは北西方、松ヶ迫仙福庵に祀られていたものを、お告げを受けた農夫某がこの地に移したものである。高さ約2mの板碑に柳の小枝を持った楊柳観音が刻まれている。特に子宝・出産・乳の出などの悩みに御利益があると言われ、女の願いを聞いて下さるありがたい観音様として名高い。地域はもとより県内外から参詣者が多く、年中香の香りが絶えない。地元では「いわや(岩谷)さま」と言って親しまれ、祭礼は旧暦の1月と6月の18日に行われる。』*『五和の文化財を訪ねて』五和町史跡文化財案内 五和町教育委員会 平成12年 

「岩谷観音」の説明板

『板碑に等身大の見事な観音像が彫刻されているが作者は確かでない。享保15年(1730年)の開眼、左手に洒水をのせ右手に柳の小枝を持った楊柳観音である。もと、この観音はここより西北方の專福庵(松ヶ迫)にあったが人里へ移り困っている人々に功徳を授けたいと三郎右衛門の夢枕に立ち、ここに移されたもの。乳授けや安産祈願の観音として近隣の人々の信仰が篤い。俗説によればこの観音様は、毎年一度は京のぼりをされ、その時は衣の裾がほこりで汚れていると伝えられている。』
*五和町役場 岩谷観音堂前の説明板より 

「専福庵」の崖下にある岩谷観音は聖母マリア観音像と考えられるので、禁教時代1730年(享保15)以降のカクレキリシタン礼拝堂ではなかったかと考えられる。 

「美人観音像」
『楊柳観音がある岩谷観音へ行ってみた。禅利芳證禅寺の西側の坂道を上り下ってからさらに西へ約200メートル細い道を行ったところ。そこには高さ約5メートルくらいの凝灰岩の岩壁が30メートルほど続いており、北に面している岩陰で陽射しの無いところでヒンヤリとしていた。

一番手前の入り口に当たる所には屋根付の大きな地蔵が立っていた。古そうに見えたが、実は明治34年3月3日建立の南無地蔵大菩薩で施主郷若連中であった。岩壁にはいくつも刳り抜いて砂岩で造った観音像を安置してあった。これが「岩谷観音」と呼ばれているもので、その数の多いことと天草では例のない観音像なので驚いた。奥の方には長さ3間、幅1間半の御堂があった。さらにその奥には、また感嘆するほどの美人観音像が立っていた。高さ150、幅62、厚さ6センチの砂岩の板石に約1センチ位の浮彫になっていた。その観音像は高さ143センチ、当時の女性の等身大で、12色のきれいな彩色になっていた。この板碑の右上方の表面に『享保十五年(1730)庚戌六月十八日開眼』と銘記してある。この観音はしなやかな手指に柳の枝を持っているので「楊柳観音」と言われているが、信仰上は、子を恵んでくれるとか,乳を出してくれるとかで「子宝観音」として近在近郷の人々から親しまれている。(中略) 

 天草における岩谷(岩壁)の観音像群があるのは五和町だけで、この岩屋観音群を初め、浦園、鬼之城、城河原の野口、手野の三岳などに無数の観音群が存在しているのは石材としての凝灰岩が多いということばかりでなく、観音信仰の宗教的傾向を明確にする必要もあろう。といっても、ここで簡単にできるわけではなく、今後の課題として考えてみたい。 

凝灰岩の多い御領を中心にキリシタン墓碑群と観音群が多いということが一致していること。天草の乱後(1637年・寛永14)仏教の全盛期を迎えた天草に於いて表面は仏教徒になった隠れキリシタンたちと観音信仰とのかかわりがないものかどうかということ。お寺参りを中心とした仏教信仰と少々変形した野外の偶像信仰としての観音信仰は、隠れキリシタンがお寺の支配に対して合法的な中でのレジスタンス(resistance・抵抗運動)の現われではなかったのであろうか。 

もちろん、これはあくまでも主観的な仮説であるがとにかく前にも述べたように五和におけるキリシタン墓碑群と観音像群との関連性について解明することは文化財保護の立場から重要な研究課題であるといえよう。』
*鶴田文史著『天草の歴史文化探訪』80~81頁 天草文化出版社 1986年 

「子安観音」
『もともと子安観音なるものは仏教にはなく、古来より「木花咲耶姫命」(このはなさくやひめ)を安産、子育ての「神」として祀る信仰が仏教の観音や地蔵と合併して出来たものとされている。

すなわち、日本古来より信仰の主流をなしていた神教は仏教が伝わり盛んになるとその主流をうばわれ、日本の神々はその本地である仏(本地仏)が形を変え、神として現れたものと考える「本地垂迹」(ほんちすいじゃく)の思想が生まれた。

その結果、「子安神」に「観音」や「地蔵」信仰が加えられ「子安観音」が誕生したと言われている。天照大神の本地仏は大日如来で、八幡大神が八幡大菩薩になったりしたのは、この本地垂迹の思想からであった。

このような思想の中,禁教になり「聖母子像」を拝むことを禁じられたキリシタンはいち早く、子安観音や子育て地蔵・鬼子母神・慈悲観音を聖母子と見立てて拝みはじめたのである。 

これを「マリア観音」と言っている。観音であって観音でないこの「マリア観音」はキリシタンの間にたちまちの内に広まり、本地垂迹の思想はキリシタンにしてみれば絶好の逃げ道であったのである。さらに好都合でキリシタンの心を励ましたのは、子安観音の子供をいつくしみ抱くその姿は、聖母の御姿に通じ鬼子母神の持つ柘榴(ざくろ)はキリスト教では復活や純潔のシンボルとされ、中国から輸入された慈母観音の「白磁」はキリスト教の純潔の「白」の象徴でもあった。

 九州において、マリア観音は素人でも作られたが、有名なものに長崎県の北高木郡の古賀焼がある。これは熊本に伝播され、さらに広田政吉によって天草にも広められた。特に天草土人形の中では「山婆(ヤマンバ)」と呼ばれるものは信者の中で愛用されていた。その他、白磁で人気があったのが九州では平戸焼があった。(中略) 

本来のキリスト教の教えは、観音や地蔵を聖母やイエズスに見立てて信仰することは厳禁されていたにもかかわらず、日本の隠れキリシタンの間では慣例となり、これが幕末までの長い禁教期を乗り越えるための、ひとつの信仰の支えとなっていた。 

 『長崎地方では、その方言で天王(デウス)のことを地蔵尊(ジゾース)、イエスのことを地蔵菩薩像(ジゾーズ)、マリア像のことを丸屋仏とよんでいたという。』
*三田元鐘著『切支丹伝承』。高田茂著『聖母マリア観音』142~143頁 

『このマリアの懐妊や受胎告知について日本のキリシタンは観音の腹を大きくして妊娠した姿として現している』58頁 

『お腹の大きい観音様、天草(五和町御領)の元キリシタンの家にあった観音だがお腹が大きく十字架を無数に付け、冠には日と月が描かれている。観音を仮託したマリア像であろう。』
「天草サンタ・マリア館所蔵の岩谷観音の掛け軸」59頁
*浜崎献作著『かくれキリシタン・信仰の証』1997年 

香春町髙座石寺に安置されているマリア観音像・髙座石寺は細川孝之の館に隣接したキリシタン寺
貴船神社に奉納されているマリア観音像・髙座石寺のマリア観音と同様と思われる
髙座石寺のマリア観音の剥離した頭部・顔面のマリア観音像と同様だったと考えられる
柳井秀清氏と三島さとみ様・神間歩入口にて

「マリア観音」・結城了悟神父の見解
『迫害者の憎しみは踏絵を考え出したが、潜伏キリシタンの愛は子安観音像をサンタ・マリアの御像にした。(中略) 

私(結城了悟神父)はそのマリア観音を三つに分類する。中国磁器の観音像、平戸焼の観音像、木や他の材料で作られた観音像である。 

最も代表的なのは中国からのもので、その制作場所を見ると、キリスト教と直接結びつきが無いことは明らかであるが、マリア観音として認められるのは、潜伏キリシタンの家に祀られたからである。キリシタン時代、すなわち1650年頃まではマリア観音がなかった。宣教師たちがそのような使い方を許す筈はなかったし、キリスト教の純然たる宗教品は皆の手に入る可能性があったので、必要ではなかった。 

 また江戸時代までは日本では赤ん坊を抱く観音像は見られなかった。ちょうど鎖国の結果として、長崎が外国貿易のための唯一の開かれた港であったとき、福建省から子安観音が導入された。当然のことながら長崎と大村藩の寺々には、そのような観音像が今も祀られている。 

 同じ地方の潜伏キリシタンにとって今迄見られなかった子供を抱く観音像は、禁じられていたサンタ・マリアの御像を思い起こさせ、その代わりに簡単に受け入れられた。それは潜伏キリシタンの信仰が変化したことではなく、宣教師たちから教えられた聖母マリアに対する信心を守るためのひとつの手段であった。(中略) 

 平戸焼のものはもっと遅い時代のものである。素朴で、中国の観音像の荘厳な面持ちの代わりに優しさが溢れている。時には微笑んでいるかのように見える。この2番目の種類のものには時々小さな十字の印が見られる。どのような種類であっても、マリア観音として指定するために必要なことはひとつである。 

すなわち、潜伏キリシタン、あるいは現在のキリシタンの家に祀られているかどうかということである。それはそのまま磁器のマリア観音は深い愛情と英雄的な忠実な歴史の証し人である。』
*結城了悟著『キリシタンのサンタ・マリア』117~120頁 日本26聖人記念館

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