諸田賢順の生涯・筑紫箏の始祖(クレド伴奏譜の採譜・継承・筝曲六段の編集者


諸田賢順の位牌・諸田稔氏所蔵(多久市)
諸田賢順夫妻の墓碑・多久市北多久町大字小侍


立葵蒔絵螺鈿『鳳凰』の筝・諸田賢順の弟子・多久千鶴姫使用・頭部(多久市郷土資料館所蔵)

    諸田賢順の生涯・筑紫箏の始祖
(クレド伴奏譜の採譜・継承・筝曲六段の編集者)

はじめに
諸田賢順(クレド伴奏譜の採譜・継承・六段の編集者)
「筑紫箏の祖」として有名であり、筑紫筝曲を成立に導いた筝曲家として伝えられているが、その人生は多くの謎に包まれている。『諸田氏系図』『諸田系志』等の文献から大まかな賢順の人生の歩みは推測できるが、細部にわたっては不明な部分が多くあった。まずは諸田賢順の生涯を知らなくては、坪井光枝氏が言われた「賢順はキリシタンだった」との話が本当かどうかもわからない。賢順に関して残されている『諸田氏系図』『諸田系志』の資料の歴史的事実の確認から調査した。歴史的に即した事実のみでの諸田賢順の生涯の再検討により、賢順の生涯の出来事が歴史的に確定した。賢順が1555年(弘治元)から豊後府内に来ている事実が確認でき、同じ時期に明国から倭寇の取り締まりの依頼に豊後の大友宗麟のもとに来ていた鄭舜功の歴史的事実の確認、鄭舜功たちが滞在した臼杵の海蔵寺の塔頭・龍宝庵の所在地場所の発見と海蔵寺の石碑による証明ができたことで『諸田氏系図』『諸田氏志』に対する信頼が増した。今まで不明とされていた明国の使者・鄭舜功の1555年(弘治元)の滞在地・臼杵の海蔵寺跡地の発見等、多くの歴史的事実が確認できた。賢順は豊後府内に14年間(1555年~1569年)滞在して大友宗麟に楽師として仕えている。この時期にキリスト教会も山口から府内に避難して、ルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida)が病院を開院して豊後教会の最盛期と重なっている。日本におけるキリスト教会の黎明期である。 

キリシタン史を学んでいたから当時府内に在住している宣教師たちはわかっていた。

その中で日本音楽(5音階旋法)を理解してかつ西洋音楽(教会旋法・グレゴリオ聖歌)に詳しい人物を消去法で調べたらロレンソ了斎、元琵琶法師しかいないことが分かった。 

ロレンソ了斎なら琵琶でグレゴリオ聖歌に伴奏を付けることができる。また、府内において諸田賢順との接点も多くある。諸田賢順の生涯の歴史的確認による位置付の研究は、謎の多かった賢順の生涯を新たな視点から再構築する研究となった。 

キリスト教が1549年(天文18)に日本に入ってきてわずか20年の間のなかに、諸田賢順が大友宗麟の招きで豊後府内に在住した1556年(弘治2)~1569年(永禄12)の14年がある。1556年(弘治2)府内において諸田賢順は日本人で初めてイルマン・修道士になったロレンソ了斎・元琵琶法師に出会い、ロレンソ了斎から西洋音楽である「クレドとその伴奏」を学び記譜をした。諸田賢順の府内で過ごした時期はキリスト教会の発展時期と重なっている。その後、諸田賢順は1569年(永禄12)に豊後府内から郷里の佐嘉南里に戻り17年を三根の東津で過ごし、1587年(天正15)9月、多久邑主多久安順に招きで多久に移住、1623年(元和9)7月13日、多久に於いて90年の生涯を閉じた。                      

第一章       生い立ち
 諸田賢順は、一五三四(天文三)年、筑後国宮部郷(現福岡県大牟田市宮部)に生まれた。父宮部日向守武成。
父・宮部日向守武成の死去

一五四〇年(天文九) 賢順七歳
『諸田系志』には賢順の父宮部日向守武成について『天文九年(一五四〇年)日向守(武成)於長門之戦場卒』と書いてある。

宮部氏は、賢順の父・武成の代か、その一代前の『大学頭』のときには、すでに「豊後大友」の配下に組込まれていたと考えられる。長門・周防の大内家と豊後の大友家は婚姻関係で結ばれていて、一五四〇年(天文九)の一月、米子の尼子晴久が防府に攻め込んできたために出陣、岩国へと転戦している。九月には大内は毛利軍を応援して郡山城で戦っている。

賢順の父・武成の死は『卒』という表現で記載されているので、戦死ではなく陣中においての病死、もしくは事故死だったと推測される。賢順はこの時七歳。宮部の家を継ぐには賢順はあまりに幼すぎた。宮部家は代々菊地家に仕えてきたが、一五二〇年、第二四代・菊池武包が大友義鑑に敗れて菊地を追われて菊池家の時代が終わった。菊池家滅亡後は大友家につかえていたが、当主を失った今、宮部郷での宮部家の存続が許されなかったと思われる。大友家としては、宮部郷が小領といえども、大友の息のかかった者に宮部郷を任せたかった。それ故、賢順の家督相続が許されなかったと推測される。『宮部家は、武成死去後、大友家に伺いをたてた』との伝承が大牟田の諸田家(故・諸田素子氏)に伝わっている。

善導寺に入る 
 一五四〇年(天文九年) 賢順七歳
武将の家柄を持つ武家の長男・賢順を仏門に入れることと引き換えに、宮部の家は所領安堵を図ったと推測される。当主・武成を失った今、これまで領していた土地や税は大友に召し上げられた。その代わりに大友家より宮部家の存続は許されたと考えられる。所領安堵と引き換えに宮部家嫡子賢順は剃髪して、久留米の『善導寺』に修行僧として入寺させられた。

 大牟田の諸田家の伝承では『賢順は一時宮部郷の末寺に預けられ,暫らくしてから久留米の善導寺に入った』『当時の宮部郷の寺に宮部家が寄進した燈籠があった』との話が伝わっている。

 『諸田系志』には、善導寺における賢順について『風骨卓異、挙動尋常にあらず』『奇童ももって目される』とある。

 武士の長男として厳しく育てられてきた賢順には、すでに身についていた礼儀作法の他、すべてに折り目正しく、物事には筋目を通し、はっきりとした自分の考えをすでに持っていて、決して曲がったことをせず一切の妥協をしない性格を持っていたことが判る。その賢順の性格が、善導寺において同じ年代の子供たちよりも際立っていたので、幼いながらも特異な子供として見られていたことが判る。善導寺の和尚を始め指導する僧たちも、賢順の持っている特別な音楽に対する才能と精神力を認めていたと思われる。

善導寺楽について
 善導寺は、久留米市善道寺町にあり、浄土宗大本山として現在も九州浄土宗の根本道場として栄えている。筑後の国司であった「草野永平」により一二〇八年(承元二年)に創建され、浄土宗の開祖・法然上人の高弟「鎮西上人」によって開山されている。

善導寺の寺号は中国唐の時代の浄土宗大成者『善導大師』に因んでつけられた。創建当時のこの地域の権力者であり、善導寺の保護者であった草野氏の歴代の墓所もある。

善導寺は浄土宗鎮西派の総本山として、北は筑後川から南は耳納山までの広大な敷地を有し、毎年三月に行われる開山法要を中心に数々の盛大な行事が営まれていた。修行僧の数も常時一〇〇余名に上り、仏教教学の他に『善導寺楽』と呼ばれていた荘厳で華麗な管弦楽が演奏されていた。善導寺楽という仏教雅楽であった。此の演奏は当時九州では善導寺のみで行われていて、その格調の高さを誇っていた。善導寺では管弦楽のための奏者の育成も行われていて、修行僧には厳しい修行の他に、仏学、音楽も教授していた。賢順が入門した当時の官長は第一五世天蓮社晶誉円水上人である。

善導寺の初代で開山の祖と言われる「鎮西上人」は、英彦山とも密接な関係があり、しばしば修験道の修行のために英彦山に行っていた。また「鎮西上人」は当時、琴の名手としても有名で、善導寺では鎮西上人ほどの箏を奏でる人はいなかったとの伝承が伝わっている。古来より英彦山は『箏の里』としても有名で、『唐ヶ谷』で帰化人の李氏が箏の名手として一三弦の琴を教えていたという。『鎮西上人』と『李氏』との『箏楽』に関する伝達関係が明確に確認できない。おそらく鎮西上人は帰化した新羅人から箏の手ほどきを受けたのち、箏や琵琶を、善導寺楽として、御経の伴奏に取り入れ確立していったと考えられる。

 英彦山は標高一二〇〇mの峻厳な山で、豊前・豊後・筑前の三国にまたがり、山襞の複雑な深さが、深い懐を造り、往時より『隠れ山』との別名を持っていた。古くから修験道の霊場として栄え、常に多くの修験者が住んでいて、往時より、いかなる権力にも屈しないほどの「宗教的城塞」をなしていた。高野山、比叡山、と並んで、日本三大「修験場」と呼ばれていた。

 善導寺では開山以来、仏事の催しに『箏や琵琶』等の楽器を、御経の伴奏に奏でていた。当時の御経は、朗読調ではなく、かなりの抑揚をつけて音階的に唱えられていたようだ。

 『音楽法要』とも言われていた『声明』であった。御経をあげるということは『御仏』を讃えることでもあった。当時の善導寺は『箏の里』と言われていた位、琴の音が響いていた。善導寺に僧の見習いで住んでいた幼い賢順にとって、琵琶の音や箏の音はどれほど心休まる音楽であったことだろう。賢順は本能的に琵琶や箏の音に魅せられていった。一心不乱に琵琶や箏の修行に打ち込む、幼い賢順の姿がそこにあった。『諸田系志』に『布生頴悟、奇人の名有。一二,一三歳にして善鼓浄土、仏事の琴』とある。

 賢順は、善導寺で演奏されるすべての音楽を一二,一三歳の若さで習得して、善導寺において賢順の右に出る人がなく神童と称される音楽の専門家になっていった。善導寺では、賢順の音楽の才能をさらに伸ばすために、善導寺より南に七㎞の耳納山の麓にある高良大社に通わせた。

髙良大社にて修業を積む
一五四六年(天文一五)頃 賢順一二歳

 耳納山,欲心山、高取山、高良山からなる筑後山地の北端に位置する高良山の麓に鎮座する『筑後一の宮』と称される大社。紀元四〇〇年に「履中天皇」が創建。時の朝廷からも、代々の領主家から崇敬され保護されてきた大社である。創建当初は「仏教」が入ることを禁じていたが「白鳳年中」(七世紀後半から八世紀の始め)に仏教が入ることを許した。神職の「大祝隆慶」の時、彼が出家して「高隆寺」を開いたとされている。その後「神仏混合」として栄え、三六〇の「僧坊」と一〇〇〇余人もの宗徒行者を持ち、更には神領九九八〇町の土地を有する一大勢力に発展した。

 高良山は肥前・豊前・筑後の幹線が通る交通の要衝にあたり、政治的にも、軍略的にも、重要地点であった。戦国時代、大友宗麟を始め幾多の戦国大名がこの高良大社に本陣を構えている。

善導寺と高良大社は、同じ久留米の地にあり、同じ領主・草野氏により保護を受けていた関係もあり、ごく親しい関係であったと推測される。高良大社にも、善導寺と同じく、箏の伴奏で御経を唱える「寺社楽・雅楽」が導入されていたようだ。賢順がこの高良大社の誰に習っていたかを示す記録は残っていない。しかし、この高良大社に、善導寺にはいない箏の名手がいたことは確かなようで、その無名の僧について賢順は一層の箏の修行を積んだ。高良大社での箏の修行によって賢順の演奏は著しい進歩をとげ、賢順の名は筑後一円に広まった。

英彦山に逃れる
 一五五〇年(天文一九)頃 賢順一六歳

三月、大友義鎮の伯父、菊池義武が隈本において大友義鎮に謀反を起こした。菊地義武に呼応して、筑後の国衆の三池親員、溝口丹後守、西牟田親毎が挙兵した。大友義鎮は鎮圧のために出兵、五月二五日に溝口城(筑後市)が陥落。七月二五日前に、三池城(大牟田市)を攻めて三池親員を落城させた。この三池城攻撃のときに、宮部郷も壊滅的被害をこうむり、宮部郷に小さな領地を得ていた宮部家は戦火を避けるために避難を余儀なくされた。八月二二日、菊池義武は隈本城攻防戦で敗退、姻戚関係であった相良氏を頼って落ち延び蟄居していたが、一五五五(天文二三)年に自害、また大友義鎮の刺客に殺害されたとも言われている。

『諸田系志』は『諸叔雖分領宮部郷菊池滅亡、宮部氏随絶、天文二十年周防国大内義隆沈没、其親戚妻室等避害、拪於豊前彦山之麓』と記している。『菊池氏が滅亡したので宮部郷も分領されて宮部氏が絶えることになった』というこの記述は一五五〇年七月に三池城(大牟田市)攻略の時、戦火に巻き込まれて、今まで所領していた宮部郷の領地も戦勝者の大友方に取り上げられて生活が困窮して生きづまり、宮部郷に住んでいた一族が善導寺にいた賢順を頼って落ち延びてきたことを示している。

 善導寺に仕える一僧に過ぎない賢順には、身内を養う才覚も経済力もなかった。善導寺の官長第一五世天蓮社晶誉円水上人の口添えと計らいで、英彦山領である山の麓に(現福岡県田川郡添田町)家族を養うための最低必要限度の田畑を与えてもらったと推測される。善導寺と英彦山とは、開祖「鎮西上人」とによって結ばれていて緊密な関係があった。善導寺住職が英彦山を選んだもう一つの理由に、賢順の持っている箏の才能を伸ばしてあげたいという配慮もあった。賢順の持っている非凡な才能は、将来『善導寺楽』を担って立つだけの器量があると見越しての配慮であった。

 大牟田の諸田家の伝承に『賢順は大友の庇護のもと英彦山の添田に行った』とある。 

 古来より英彦山は『箏の里』としても有名で『唐ヶ谷』で帰化人の李氏が箏の名手として一三弦の琴を教えていたという。善導寺の開祖・鎮西上人は帰化した新羅人から箏の手ほどきを受けたのち、箏や琵琶を、善導寺楽として御経の伴奏に取り入れ確立していったと考えられる。

善導寺と英彦山での箏の歴史はこの四〇〇年の間も受け継がれ発展していった。鎮西上人によって善導寺に始まった『善導寺楽』は徐々に浄土宗の各寺に伝わり、『善導寺楽』という音楽法要の形式が確立され、やがて定着して『寺院雅楽』となっていった。

 「鎮西上人」は一一六二(応保二)年に生まれているので、一五三四年生まれの賢順とは約三七二年の開きがあるために直接には関係がない。 

 英彦山に箏が伝わった背景は、七〇二(大宝二)年の『豊前圀戸籍』によると『新羅系渡来民族』の豊前圀田川郡(現福岡県田川郡添田町)地域が、朝鮮半島、とりわけ新羅と関係が深い事、秦氏の部族および秦部の在地管理者である勝氏の人数を合わせると総人口に対する比率が九三%に上り、秦氏の勢力がこの地域に広範囲に広がっていたことが判る。おそらく新羅の音楽全般が、箏に関することを含めて新羅系渡来民族の秦氏によって、この地にもたらされ継承されていたことは事実の様である。

『諸田系志』には『妻児此の禁垣に成長する』とあり、賢順はこの添田の村で、母や弟たち、家族のために田畑を耕しながら、時間を見つけては箏の練習を怠りなく日々続けていた。

『禁廷竹園之生処、禁中之楽府琴譜、賢順平日愛弾故欲修』英彦山に伝わっている新羅系の音楽や、平家が壇ノ浦で敗れた時、宮廷につかえていた女官らが、北九州からこの英彦山に身を潜め伝えた宮廷系の箏の伝承音楽等、宮廷の楽譜による箏を連日弾いて常に勉学にいそしむ日々であったことが判る。英彦山に伝わっている箏の音と楽譜は、賢順にとって、まさに音楽の宝庫であったと推測される。『洞上之秘曲、屡々山下に聞こえる』賢順の弾く箏の音は山里から村人にまで響き聴こえていた。英彦山には多くの僧堂や寺社があり、修験者や僧がいたので彼らの中の箏に秀でていた者から伝承されている音楽の教授を受けていたと考えられる。 

『諸田系志』に『天文二十年周防国大内義隆沈没、其親戚妻室等避害、拪於豊前彦山之麓』また、一五五一年(天文二〇年)大内義隆が陶晴賢の反乱で大寧寺に於いて自害した時、義隆の妻や親戚たちは戦乱を避けて、大友義鎮を頼り豊後に来て豊前英彦山の麓に避難場所を与えられて住んだ。この人たちは元来、公家の家の生まれで禁中の音楽箏譜に最も詳しかった。賢順は箏を弾くことを好んだので,洞上の秘曲を修めようとして、しばしばその人たちの住んでいる山の麓に行き、その音韻を聴き、自分の才能を高めた。 

英彦山麓添田村での一五五〇年から一五五六年五月の五年間は、生活面では自給自足の生活であったが、賢順の箏の成長という面からみれば、今まで習ってきた音楽を一人静かに見直し、また英彦山で出会った新しい音楽を今までの土台の上に構築するという、誠に初期の発展期における熟成期間と位置付けることができる貴重な時間だった。この期間に賢順が出会い自らの中に構築した音楽は『筑紫箏』(賢順箏)の基礎をなす非常に重要なものだった。

第二章       府内における活動

鄭舜功の豊後来航
 勘合(日明)貿易は大内氏が独占していたが、大内義隆が一五五一年八月に、大寧寺に於いて自害したため、一五四七年(天文一六)の勘合船が最後となって以後、明との国交は断絶していた。

当時、明では私貿易船が増加した。鎖国政策を取っていた明では,私貿易の根拠地雙興を官検が弾圧した。一五五二年(天文二一)四月、漳州・泉州の海賊が船千余隻に乗って,倭奴万余人を率い、浙江の舟山・象山等に上陸して,台州・温州等を攻撃して、無数の住民を殺害して捕虜にする事件が起こった。以後、明では大倭寇時代に入った。

一五五五年浙江総督楊宣は倭情探査のために、鄭舜功を日本に派遣した。彼は四月に広州を出発し琉球を経て豊後に到着した。一行は佐賀関を回って府内の沖の浜に上陸した。大友義鎮に謁見した鄭舜功は、倭寇の禁圧を願った。義鎮は、鄭舜功一行を国賓の待遇でもって扱い、臼杵の海蔵寺の塔頭・龍宝庵を宿舎として提供した。【日本一鑑】 

 鄭舜功は滞在中に、府内から彼の従事官・沈孟網と胡福寧の二人を京都に送り、朝廷に倭寇の禁圧を要請させ話し合った。鄭舜功が豊後に来たもう一つの目的は、この海沿いの地での倭寇の根拠地に関する情報収集が目的だったと考えられる。

諸田賢順について書かれている『諸田系志』には、諸田賢順は豊後府内滞在中に明國の『鄭家定テイカテイ』について、「善鼓・箏」「五音六音の音階や、三・五・七・十三・二十五弦の箏」「伏義・神農・黄帝の時代から伝わる古代中国の古事」更に「文武の宮廷上古の曲譜」等を学びその真髄を会得したと記している。この時期に古代より伝わる中国の箏の音律,漢詩(古詩)及び楽譜の書き方や箏の制作方法も教授され、賢順はそれらを学び習得したと考えられる。当時、豊後府内には倭寇の取り締まりを要請するために明國使節代表『鄭舜功・テイシュンコウ』が一五五五年~一五五六年に掛けて来航滞在していたと(日本一鑑)の記録にある。諸田賢順に中国の箏の音律、制作方法を伝授した『鄭家定』は『鄭舜功』の兄弟、あるいは身内かとも思われるが明細は不明。

 鄭舜功一行は、豊後に二年間滞在して、ほぼ来日の目的を達成して、一五五六年(弘治二)の秋頃、明へ帰国の途に就いた。大友義鎮は,鄭舜功の禁賊の要請を受け入れて、これを実行する意思を明廷に伝えるために、佐伯の龍護寺の僧・清授と、野津院の到明寺の僧・清超を,正使・副使に任命して同行させた。

 鄭舜功の一行が琉球を経て広州帰国してみると、浙江総督は楊宣と対立する胡宗憲に替わっていたから、鄭舜功は獄に繋がれてしまった。幕府の正式の貢使でない大友義鎮の使節を同行したことが、明の国禁に触れているのが理由とされた。鄭舜功は日本での見聞を『日本一鑑』としてまとめ、倭寇対策の資料として提出した。同行した二人の使節は、浙江省定海の七塔寺に抑留されていたが、一五五九年(永禄二)四月、四川省茂州の治平寺に流され、この地で没した。

小田鑑元の反乱・葛岳の攻防
 小原鑑元(あきもと)は、一五五一年(天文二〇)の戦いで,葛岳城(つづらだけ)城主、大津山河内守資冬(すけふゆ)を攻め敗走させた。大友義鎮の父・義鑑は小原鑑元にその葛岳城を任せ、肥後と筑後の国境を抑える要の城として重要な役目を担わせていた。

葛岳城は、熊本県玉名郡南関にあり、別名・大津山ともいい標高二五六mの孤立した山で、その山の頂に城が築かれていた。この城は菊地氏の時代から、肥後と筑後の国境に位置して、両国の抑えの要として重要視されてきた。肥後国誌によれば、葛岳は大津山河内守資基により一三九六年(応永三)より代々大津山氏の居城であった。

 大友義鎮は、英彦山で忍渋の生活をしていた諸田賢順(箏の祖と言われている)を葛岳の陣中に呼び出し、葛岳城攻略のための工作を命じた。

【大牟田の諸田家に伝わる伝承】故諸田素子氏による
『大津山城(葛岳城)の工作命令を受けた賢順は、この難攻不落の城を落とすにはどうすればよいかと考えた。賢順は単身、城内に乗り込むため琵琶法師の姿になり、山の南側の南関の村落を通り、琵琶を弾きながら城への山道を登って行った。

賢順は幼少のころ「布生頴悟、奇人」とうたわれていた。容姿風貌はたおやかではあるが一種独特の風格を持ち、ひとたび口を開くと人を引き付ける不思議な弁舌を持っていた。また賢順は箏や琵琶の名手でもあったので、城門の警備の武士たちも、賢順の奏でる琵琶の音に魅せられて、陣中見舞いの琵琶法師として城内に招き入れてくれた。城にあがっても警護の武士、女中や腰元、城主・小原の奥方たちにも不審の者とは思われずに歓迎された。賢順は琵琶を弾き、詩を吟唱し、城内に有った箏を弾いて人々を慰めた。この時、賢順は城の東北の筑後側に面する鬱蒼と茂った樹木を切らせた』

『南関記聞』には『この山城は搦め手にあたる北東部は急な崖であり、南西部の大手が攻撃路』と記されている。『西国盛衰記』に『高橋鑑種が六〇人でこの北東の急な崖から忍び込み、本城を乗り越え破り、一片の煙と燃えたつる…』と記録されている。

 大内家を滅亡させた毛利元就は、大内家の所領であった北九州奪回のために大友方の城主である、豊前、筑前の国衆を味方に引き入れようと画策した。それ以前に大友家には、大友義鎮の父・義鑑時代の大友家臣団の同紋衆(一族、譜代)と他紋衆(外様衆)の間の派閥抗争が根底にあった。豊前、筑前の国衆の動揺に豊後国内の他紋衆が呼応して大友義鎮に反旗を翻した。

 一五五六(弘治二)年五月、小原鑑元は、豊後佐伯の佐伯惟教、本庄新左衛門尉、中村長直らと密約を結び挙兵した。他紋衆の本庄新左衛門尉、中村長直、賀来は府内の町を襲ったが、同紋衆の志賀、戸次、吉弘,田北により打たれ鎮圧された。イエズス会の報告には『双方七千人が一夜にして死亡した』とある。豊後の首都・府内で起こった叛乱は大友義鎮と豊後国内の全ての武将を震撼させた。

義鎮はすぐに反乱軍の首謀者である小原鑑元の討伐を命じた。この時、肥前にいた元葛岳城主・大津山資冬が大友に帰参を許され、葛岳城攻略の案内を務めた。賢順はこの大津山資冬の軍に組込まれた三池軍に入り攻略に参加したようだ。(賢順の郷里、宮部郷は三池の領地に属していた)豊後の田原親賢、肥後の武将、木野、小代、筑後の谷川,河崎、辺春、三池、田尻、蒲池等の武将が三千余騎を持って葛岳城を包囲した。『肥後国史』

五月六日から始まった葛岳城攻撃は、七日も終日行われ、攻撃は町小路を焼き払いながら登山路へと取り掛かった。八日、総攻撃が開始され激しい攻防戦が展開された。木野親政も重傷を負い戦死した。元城主、大津山資冬は城への通路に精通していたから、北東部の急崖を精鋭の兵と共によじ登り城内に入った。武功の勇将である小原鑑元・四三歳はよく奮戦したが、城に火を掛けられたために、三六歳の妻と一七歳の娘を刺殺した後、一二〇名を率いて門外に出て討ち死にした。大友軍も一九二人が戦死している。高橋鑑種はこの時の武勲を認められ、後に筑前・宝満城の城主に抜擢されている。

賢順(二一歳)は、この時の工作の恩賞として、大友義鎮から豊後府内に来て出仕(自分に仕える様に招くこと)するように言われ、英彦山にいた家族や親戚たちを連れて府内に移り住んだ。

鄭家定に明の音楽を学ぶ(五月下旬頃~一一月)
 大友義鎮に出仕するように言われた時、大友義鎮(宗麟)は賢順に、昨年(一五五五年)五月頃・明国から鄭舜功が豊後府内に来航して、大友義鎮に謁見して倭寇の禁圧を願っていること。義鎮は、鄭舜功一行を国賓の待遇でもって扱い*臼杵の海蔵寺の塔頭・龍宝庵を宿舎として提供していること。明国の使節の中に『鄭家定・テイカテイ』(『鄭家定』は『鄭舜功』の兄弟、あるいは身内かとも思われる)という素晴らしい楽士がいて、明国の「善鼓・箏」「五音六音の音階や、三・五・七・十三・二十五弦の箏」「伏義・神農・黄帝の時代から伝わる古代中国の古事」更に「文武の宮廷上古の曲譜」等の真髄を会得ていること。また彼は、古代より伝わる中国の箏の音律,漢詩(古詩)及び楽譜の書き方や箏の制作方法も伝授できること。鄭舜功一行は、ほぼ来日の目的を達成して、今年の(一五五六年・弘治二)秋頃にも明へ帰国する予定であること等の情報を、賢順に伝えたと考えられる。

 豊後府内に移り住んだ賢順は、大友義鎮の推薦状を携えて臼杵の海蔵寺の塔頭・龍宝庵を宿舎としている鄭家定を訪ねて、早速に教えを乞うたと思われる。

明國の『鄭家定テイカテイ』について、「善鼓・箏」「五音六音の音階や、三・五・七・十三・二十五弦の箏」「伏義・神農・黄帝の時代から伝わる古代中国の古事」更に「文武の宮廷上古の曲譜」等を学びその真髄を会得したと『諸田系志』は記している。この時に古代より伝わる中国の箏の音律,漢詩(古詩)及び楽譜の書き方や箏の制作方法も教授され、賢順はそれらを学び習得した。鄭家定は自分の骨髄を会得し得る人を、かつて日本で会ったことがなかった。府内で教えた賢順はその妙手であり「通鬼神感」と賢順のことを賞賛している。賢順の弾く箏の音と、箏に合わせて朗々と歌うその声は「梅花然其調聲流存」と言った。

鄭家定は、鄭舜功使節と共に半年後の一五五六年秋に明国へ帰国している。

【明の箏、箏の製作法伝来の地・臼杵・海蔵寺・龍宝庵】
*臼杵の海蔵寺の塔頭・龍宝庵

大友記によれば、海蔵寺は旧市内から西へ二km程行った門前地区の谷間に建立されていた。

海蔵寺は、豊後国の国主一六代・大友雅親公によって、一四八二年(文明一四年)に建立されたと伝えられている。その寺域は広く現在の戸室の台にまで及び、多くの塔頭(たっちゅう・本寺の境内にある小さな寺)があったと記されている。その塔頭の名が地名となり、今に至っている場所もある。上市浜地区の呑碧(どんぺき)は、元海蔵寺の塔頭のひとつであった呑碧庵(どんぺきあん)の名が地名になり残った場所である。また、久保の天神様には鎮守社が祭ってあったと伝えられている。

『海蔵寺跡・羽衣山海蔵寺』
『臼杵小鑑に、この寺は豊後の国の国主であった第一六代大友政親公によって、文明一四年(一四八二)に建立されたと伝えられている。正親公の法名は「海蔵寺殿珠山如意大禅定門」である。

寺は大友家第一の大寺で、今の門前・戸前の岡まで海蔵寺の寺域であった。また多くの塔頭(本堂の境内にある小さな寺)があり、この塔頭のうち「知足庵」「呑碧庵」が良く知られていた。その後、第二一代大友宗麟公がキリシタンを信じた時に、この寺は破却された。後寛文の頃(一六六一~一六七三)月桂寺の和尚が草庵を結んだが、明治一七年(一八八四)堂宇はことごとく破却された。同二〇年(一八八七)ここの一六羅漢の石像は月桂寺に移された。市濱の小野天神(久保天神・天満神社)は海蔵寺の守護神として建てられた』

『海蔵寺跡』
『街の家並みの中で、ひときは目立つ勾配の強い寺院の甍(いらか)。臼杵では寺院のほとんどが旧市内に集められていることもあって、至る所でお寺を見かけることができる。これらの寺院の大部分は、稲葉氏が慶長五年(一六〇〇年)臼杵城主として入部し、城下町を整備してから建立されたものである。これより前の寺は、一ヶ所に集中することなく、領内各地に散在していた。稲葉氏の入部以前から存在していた寺院の中で、今日まで存続している寺は数ヶ所しかなく、他はすべて廃寺となっている。

この廃寺のひとつに海蔵寺がある。旧市内から西へ二km程行った門前地区の谷間に海蔵寺は建立されていた。現在、この寺跡の谷間の一帯は宅地造成や植林による地形の変化、更に雑草木の繁茂等により当時の様子等を知ることはできないが、わずかに残る石垣や池の跡から、在りし日の寺の姿を偲ぶことはできる。

 記録によれば、海蔵寺は、豊後国主であった第一六代大友政親公により、文明一四年(一四八二)に建立されたと伝えられている。その寺域は広く現在の戸室の台にまで及び、多くの塔頭があったと記されている。その塔頭の名が地名となり、今に至っている場所もある。上市浜地区の呑碧(どんぺき)は元海蔵寺の塔頭のひとつであった呑碧庵の名が付いて地名となった。

 また久保の天神様には鎮守様が祀ってあったと伝えられている。海蔵寺は大友宗麟の時代に無住の寺となったが、寛文の頃(一六六一~一六七三年)月桂寺の和尚がこの地に草庵を結んで以後は、明治に至るまで月桂寺の末寺として栄えたと言われている』

(加賀輝三氏・臼杵郷土史家・昭和五八年三月号に掲載・加賀輝三氏の許可を得て転載)(臼杵市文化財教室・門前地区の歴史を知ろう・平成二一年一一月号に再録より)

 一五七八年七月二五日、大友宗麟受洗。臼杵教会で大友宗麟は洗礼を受けて、ドン・フランシスコと称した。宗麟の新婦人、およびその娘も受洗。

大友宗麟も一五七八年(天正六)までは全盛を極めたが、同年一一月、日向の髙城・耳川の戦いで島津軍に敗れて以来、大友氏の勢力は急激に衰えていった。大友宗麟の受洗を期に、宗麟がキリシタンになったので、各地の寺は一五七九年以後強制的に破却されて無住の寺となった。

大友宗麟は洗礼によりキリシタンになったが、これを機会に豊後にある大きな寺院を除く、大多数の寺社仏閣が宗麟の命令により破却された。或る寺院はキリシタン寺【教会】として、そのまま使用された。

 稲葉氏が一六〇〇年、関ヶ原以後、臼杵城主として入部して、領内各地に散在していた寺を現在の旧市内の二王座周辺に集め寺町を形成した。

稲葉氏は月桂寺・臨済宗妙心寺派(臼杵市大字二王座一九七)を菩提寺と定めた。一六〇八(慶長一三年)年、湖南宗嶽禅師を開山,臼杵藩・藩祖の稲葉良通(一鉄公)を開基として第二代藩主・稲葉典通により創建された。臼杵五万石の藩主・稲葉氏の菩提寺であり、墓所内に稲葉家と奥方の二つの霊廟が建っている。

一六六〇年代(寛文時代・一六六一~一六七二)月桂寺の和尚が隠居のために無住の寺跡地だった元海蔵寺跡地に草庵を結んで以後、明治一七年(一八八四)まで月桂寺の末寺として栄えていた。

 この時点で、一五七八年の破却以後、一六六〇年代(寛文時代・一六六一~一六七二)まで八二~九三年間放置された後に、草庵が結ばれたことになる。

現在、この海蔵寺一帯は、宅地造成や植林による地形の変化、更に雑草木の繁茂等により当寺の様子等は想像できないが、山裾に残る石垣や池の跡地、石碑等などから在りし日の海蔵寺の姿を確認して偲ぶことができる。海蔵寺跡地の裏山にある石碑には一八二四年(文政七年)に当時の月桂寺の和尚が隠居した記念碑として建立したことが書いてある。隠居した月桂寺の和尚により一八二四(文政七)年に記念碑が建立されたが、海蔵寺が放置された一五七九年以後、二四五年経過した後一八二四年に建立された記念碑である。

この記念碑を建立した月桂寺の和尚は、明国使節が一五五五年五月に来日、翌一五五六年一一月に帰国している事実は知ることもなく、寺の縁起・由来の歴史としてのみを石碑に記録している。

 明国使節は一五五五年五月に来日、翌一五五六年一一月に帰国しているので、その一五五六年の帰国の時点から計算したら二六八年経過した後の再建された海蔵寺の記録としても非常に重要な意味を持つ石碑である。

*文政七年(一八二四年)正月に建立された石碑

海蔵寺石碑文五点: 原文漢字と現代語訳  (現代語訳協力:菊池美穂教諭)

海蔵寺開山の銘(正面の上下)
(上)大圓覺寳塔

現代語訳:大きな縁起(物事の起こり・由来)を宝として覚える(記憶に留める)塔

(下)渡宋宗匠          
前南禅海蔵     
開山要翁綱       
大和尚禅師

現代語訳:宗匠・道元(一二〇〇~一二五三年)は、一二〇〇年(正治二) 京都久我家で生まれ、一二一四年(建保二)出家して、園城寺・建仁寺で学ぶ。一二二三年(貞応二)明全と共に渡宋・南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受けて一二二六年帰国。一二三三年(天福元)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、一二四四年(寛元二)傘松に大沸寺を開く。一二四六年(寛元四) 大沸寺を永平寺に改める。一二四八~四九年(宝納二~三) 執権北条時頼、波多野義重等の招請により教化のために鎌倉に下向する。一二五三年(建長五)病により永平寺の貫首を弟子の孤雲懐装に譲り、一二五三年京都で死去。

海蔵寺は、以前は臨済宗南禅寺に属していた。必要があり開山して、翁(和尚)がこれを綱(再興・繋ぐ・存続)した。禅師大和尚がこの事(建立)を成した

*宋国:九六〇~一二七九年、北宋は九六〇~一一二七年、南宋一一二七~一二七九年滅亡までの期間
*明国:一三六八~一六四四年滅亡までの期間


正面より時計回りに
正面の左側 

两開基 
勝光寺殿 
海蔵寺殿 神儀 
大友家本攴貴
屬各々神儀 
淑霊等

現代語訳:勝光寺と海蔵寺の両方の寺を開き、神儀の基を作る。大友家が元々はこの寺を貴んでいたがこれを破却した。それぞれの寺の神儀を続けその霊を淑(しとやか)にと祈る

裏面
告文政七年甲申
正月
本朝金剛経初剣
法窟羽衣山隠寓
再住妙心春澤嵩拙
謹建識焉

現代語訳:文政七年(一八二四年)甲申の年の正月に建立
この寺の金剛力士像、経典,初剣を祀る
仏法の窟(寺)である羽衣山(寺の山号)に隠居として寓(住む)する
妙心春澤嵩(和尚の法名)は未熟者であるが再び住む
謹んでこの地にこの碑を建立した

正面の右側  
海西諸山一本
寺歴代祖師大和尚
境内四十二攴
院歴代諸老和尚等

現代語訳:海の西、諸々の山(寺の山号)のうち第一が本寺(海蔵寺)であり、歴代の祖師である大和尚が住み、境内には四二の塔頭を抱えている。
この寺には歴代の諸々の隠居した和尚が住んでいた

現在地:臼杵市稲田(大字)門前・天神社奥の住宅地の裏山
旧市街より、国道二一七号線で土橋交差点を直進、臼杵川を渡ったらすぐに左折、天神社前の交差点を天神社の方へ直進。谷の沢の小川を右に見てさらに山側に進むと突き当りが篠田家と丹生家(一七九五番地)。篠原家・丹生家の場所に海蔵寺の本堂があったと言われている。篠田家の裏山に海蔵寺の銘がある。丹生家の左下に元海蔵寺の小さな池が現存している。元の大池は、現在の篠田家・丹生家の敷地から右の小川に架かる渡り橋の下あたりから、すぐ上流に砂防ダムがあるところまで広範囲にあったとのこと(丹生家夫人の話し)。小さな渡り橋で小川を渡ると,住宅(一七七九番地)の裏奥右手(東側)に二段になった古い石垣が現存していて、その石垣の上と下(現在の住宅地一体)に昔塔頭・龍宝庵があったと推測される。何故ならば、鄭舜功一行は約一〇〇名前後に近い使節団であるので、それだけの人数の宿泊場所としては、それなりの大きな建物でなくては収容しきれないはずだから、塔頭・龍宝庵もかなりの大きな建物であったと推測できる。

(臼杵バプテスト教会松永正俊牧師と髙田重孝の現地調査・二〇一八年五月三一日実施)(写真より碑文解析、菊池美穂教諭協力)

現存している諸田賢順作の箏
『伝賢順作箏』 (多久市郷土資料館蔵)
天文三年(一五三四年)説では、天正一一年(一五八三年)は賢順四九歳の時の箏の作成となる。

 箏の内部に『干時天正十一年十月廿七日作者賢順斎卅七歳/寛永十一年歳作なわす/河副庄北古賀金左衛門尉』と書いてある。天正一一年一〇月二七日・一五八三年、賢順が三七歳の時、制作した箏で、一六三四年(寛永一一年)河副庄北古賀金衛門伊尉が修復したことが判る。

 本箏の銘文により、今泉千秋(一八〇九~一九〇〇年)は、賢順の生没年が『諸田氏系図』等に記載の天文三年(一五三四年)生まれではなく、天文一六年(一五四七年)と考えて、父・今泉千春著『松響閣箏話』等を含めすべて訂正した。付属の掛軸は、銘文の写しの横に、賢順の生没年についての訂正とも解釈できる書き込みがある。

(原文)
【箏箱】箏形杉箱。蓋裏に墨書あり。
『諸田賢順ハ松浦左近三郎為定の裔孫宮部日向守武成の子なり天文九気季(一五四〇)武成長門役に戦死す時に賢順年甫七歳善導寺にいり/僧となり傍音律を嗜ミ其寺に蔵せし筑紫箏譜を得私淑して是を多久安順室千鶴子に伝ヘ又柱厳寺の玄恕に伝ふ玄恕正定寺超誉上人に伝ふ今に臻り聯綿絶す遂に/王政復古治世の音とはなれりける村田道碩師造する所の箏を蔵せり道碩死して後男村田豊作東京に住し家貲と共に齎してありつるを今年二月松井通照の憲法発/布の詔によて東京に行公務の間村田豊作を訪て此箏を得琴の腹に曰天正十一年十月廿七日作者賢順斎卅七歳/寛永十一年作りなわす 河副庄北古賀金左衛門尉/明治廿六年七月三十日 今泉千秋』

 この箏箱裏の裏書により、一八九三年(明治二六年)二月、今泉千秋の弟子であった裁判官・松井通照が東京に公務で訪れた際、村田豊作氏宅にあった本箏を見つけ入手して、今泉千秋のもとに持ってきた経緯が今泉千秋自身の筆で記載されている。その後所有者が転々としたが現在は多久郷土資料館蔵となっている。
 箏の修復者の住所が『河副庄北古賀』在住であった金左衛門尉であるので、寛永一一年(一六三四年)頃の所有者は南里川副の正定寺ではなかったかと銘文から推測される。

 一七〇五(宝永二)年、徳応『秘録』に、賢順は自ら箏を作り、今遺っている箏も多いと記述されている。多久市郷土資料館蔵の箏以外にも、佐嘉南里川副の正定寺にも、賢順作の箏が伝来していたと記録されている。箏をはじめ雅楽器の製作は、江戸時代になって和楽器専門の職人が登場する以前は、主として寺僧達が自ら制作していた。善導寺にいた賢順は当然のこと、善導寺に伝わっていた箏の製作法を学んでいたと考えられる。

 今回、臼杵の海蔵寺の裏山跡地で見つけた石碑碑文を解読して、諸田賢順は従来、善導寺で学んでいた箏の製作法に加えて、臼杵の海蔵寺の龍宝庵で当時来日していた明国の鄭家定より、最新の明国の箏の製作法を新たに学んでいた事実が、賢順の系図に書かれていた文章と、臼杵の海蔵寺跡地裏山にある石碑碑文から、海蔵寺の存在の事実が確認され証明ができた。

 一五五六年五月、賢順は大友義鎮(宗麟)に出仕するように言われた時、大友義鎮は賢順に、昨年(一五五五年)五月頃・明国から鄭舜功が豊後府内に来航して、大友義鎮に謁見して倭寇の禁圧を願っていること。義鎮は、鄭舜功一行を国賓の待遇でもって扱い、臼杵での第一の大きい寺である海蔵寺の塔頭・龍宝庵を宿舎として提供していること。明国の使節の中に『鄭家定・テイカテイ』(『鄭家定』は『鄭舜功』の兄弟、あるいは身内かとも思われる)と言う素晴らしい楽士がいて古代より伝わる中国の箏の音律,漢詩(古詩)及び楽譜の書き方や箏の制作方法も伝授できることを賢順に伝えた。この時に、最新の明国の箏の製作方法を、豊後臼杵の海蔵寺・塔頭龍宝庵に滞在していた鄭家定から学習したと考えられる。これが後に賢順により、徐々に改良を加えられて、現在、多久郷土資料館に保管されている『伝賢順作成の箏』であり、それに改造を加えて大きくして黒漆を塗り螺鈿装飾を施された箏が『鳳凰の箏』と考えられる。

六段発祥の地・豊後府内
  臼杵から府内へ戻った後、賢順は大友義鎮(宗麟)から、府内にいるキリシタンのイルマン(修道士)で、琵琶で伴奏を弾きながらグレゴリオ聖歌を歌う盲目の琵琶法師ロレンソ了斎のことを聞いた。明国の音楽と記譜法を学んだ後、賢順にとって初めて聴く西洋音楽を求めて、賢順は府内にあるキリシタン住院を訪ねた。

 ロレンソ了斎の歌うグレゴリオ聖歌と琵琶の伴奏は、賢順にとっては初めて聴くキリシタン音楽だった。ロレンソ了斎が弾くグレゴリオ聖歌の琵琶の伴奏は、ザビエルに出会って洗礼を受けて以来六年の間に確立され、すでにロレンソ了斎の中で組織体系化されていた。

『主の祈り・Pater noster』『アヴェ・マリア・Ave Maria』『めでたし天の元后・Ave Regina caelorum』『めでたし慈悲深き聖母・Salve Mater misericoriae』『麗しい救い主の聖母・Alma Redemporia Mater』『クレド・Credo』『めでたし元后、憐れみ深き御母・Salve Regina Mater misericordiae』 

いくら時間が掛かろうとも、ロレンソ了斎は賢順に一音一音を丁寧に教え続けた。おそらく、ロレンソ了斎がグレゴリオ聖歌の旋律を歌いながら琵琶を弾き、賢順自身も琵琶を弾きながら覚えていった。賢順は習った音を、数か月前に鄭家定から学んだばかりの明の記譜法を使って書き取り記譜していった。ロレンソ了斎と賢順の二人して向き合う真摯な音楽に対してのこの作業がいつ始まりいつ終わったのか、何ヶ月掛かったのだろうか、賢順はこの学びでキリシタンになったのだろうか、これらすべては歴史という時間の中に埋却してしまったが、賢順によって残された楽譜が真実を語ってくれるであろう。
 ロレンソ了斎の府内滞在中、賢順は幾度となく、ロレンソ了斎の許を訪ね、グレゴリオ聖歌と琵琶の伴奏を習ったと考えられる。

ロレンソ了斎が歌いながら琵琶で伴奏を付けた伴奏譜が、賢順によって記譜されて残され、後日整理編集されて、段物と呼ばれる一二の箏の独奏曲として徳川時代の厳しい禁教をかいくぐり、実に四六〇年間を筝曲の中で生きていた。

琉球箏曲
瀧落管撹・一段  『アヴェ・マリア・Ave Maria』  
地管撹・二段  『めでたし元后・サルヴェ・レジナ・Salve Regina』
江戸管撹・三段 『麗し救い主の御母・アルマ・レッデムプトリス・Alma Redemptoris』
拍子管撹・四段 『天の元后・レジナ・チェエリ・Regina caeli』
佐武也管撹・五段『めでたし憐れみ深い御母・サルヴェ・マーテル・Salve Mater 』
六段管撹    『信仰宣言・クレド・Credo』【原曲と推測される・陽旋法】
七段管撹   『ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・キリエ・Kyrie』

本土箏曲の段物とグレゴリオ聖歌
五段 『ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日・聖なるかな・Sanctus』
六段 『クレド・Credo』【原曲が装飾されている・陰旋法】
七段 『麗しい救い主の聖母・Alma Redemporia Mater』
八段 『ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日・神の小羊・Agnus Dei』
九段 『ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日・栄光唱・Gloria in excelsis Deo』
一二段・乱れ 『主の祈り・Pater noster』

ロレンソ了斎と賢順が豊後府内において出会えた期間について
第一回 一五五六年五月~一五五七年八月
ロレンソ了斎がトーレス神父の命により山口から比叡山に遣わされ、交渉に失敗して山口に帰ったが、山口が戦火のために、トーレス(Cosme de Torres) 神父たちは豊後府内に避難し,それに伴いすべての教会の施設を移転させたために、ロレンソ了斎も府内に移ってきた。

この頃、賢順も大友義鎮の出仕命令により、葛岳城の戦いに参戦、工作をしたようだ。その後、戦いでの功績により大友義鎮に召し抱えられ、一族を連れて、英彦山より府内に移住した。

当時、臼杵に来航し、臼杵の海蔵寺に滞在していた明の使節・鄭舜功の使節の楽士、鄭家定を大友義鎮より紹介された。賢順は早速臼杵に行き、鄭家定に師事、明の音楽、箏の音律、箏の製作法等を明の使節が帰国する一一月までに修得した。この期間は五月終頃~一一月の五ヵ月間と考えられる。

臼杵より府内に帰った賢順は、大友義鎮より、ロレンソ了斎という盲目の琵琶法師が、教会にいてグレゴリオ聖歌を歌いながら琵琶で伴奏を付けて歌っていることを知らされ、西洋の音楽を知るために学びに行った。ロレンソ了斎が歌うグレゴリオ聖歌は、賢順にとって、初めて聴く西洋の音楽だった。新しい音楽の全てを学ぶために、ロレンソ了斎は琵琶で伴奏を付けながら歌うグレゴリオ聖歌を、賢順も一音一音、忠実に学び、鄭家定より学んだばかりの、明の記譜法を用いて記譜していった。この期間は一二月頃から~五七年八月頃の九ヵ月と考えられる。

第二回 一五五八年五月~一五五九年九月二日
ロレンソ了斎が平戸で布教した時、ヴィレラ(GasparⅤilela)神父がキリスト教に改宗した人々の持っていた仏像や経典を俵に詰めて海岸に運び、うず高く積んで焚火とした。ヴィレラ神父の熱烈な伝道方法は、仏教徒たちとの間に衝突を引き起こし、そのために自分たちの命が危険に曝されることになった。領主・松浦隆信はヴィレラ神父に立ち退きを迫り、ヴィレラ神父はロレンソ了斎と共に博多を経由して豊後に帰った。ロレンソ了斎は、府内の教会で説教をしたり教理を教えたりした。また新しく着た宣教師に日本語を教えた。ガーゴ神父の著した二五ヵ条のカテキズモ・教理書の翻訳を完成させている。
この期間、ロレンソ了斎は賢順と、どの様な会い方をしていたかは不明だが、おそらく、前回と同じように、賢順が教会を訪ねて、ロレンソ了斎からグレゴリオ聖歌等を習っていたと考えられる。この期間は一年四ヵ月。

第三回 府内滞在(一五五八年五月~一五五九年九月二日)一年三ヵ月
第四回 府内滞在(一五六五年三月~六月)三ヵ月
第五回 府内滞在(一五六八年二月頃~一五六九年二月頃)一年

第三章 降誕祭と復活祭
一五五六年一二月、クリスマス(降誕祭)(賢順二二歳・ロレンソ三〇歳)

『降誕祭が近づくと、我らは村々のキリシタンにその日取りと、全員が参集することを伝えさせた。市のキリシタンのほかに、八乃十里の多数の地区から大勢のキリシタンが降誕祭の夜のミサに訪れ、その余りの多さに故に修道院、すなわち教会と我らが宿泊している家々、さらにもう一方の地所にある教会にもほとんど入りきれなかった。我らは降誕を讃える数多くの歌とそれに関する説教により、ミサを執り行ったほか、終夜、説教をした』
*一五五七年一〇月二九日付け 平戸発、ガスパル・ヴィエラ神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二五二頁

 七月以来、府内で始まった音楽訓練は、ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)が指導して著しく上達した。ゴアの修道院で教育を受け、優れた音楽の素質と才能を持ち、グレゴリオ聖歌と『オルガン伴奏歌唱』に最も習熟した人たちであった。彼らの選抜の基準はまさに典礼的音楽の才能であった。ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)が中心となり、早速、府内の子供たち、および音楽的才能のある新しい信者たちに音楽の訓練が始まった。この成果は、徐々にミサに反映され、主日ごとのミサが、読唱ミサから歌付のミサにおきかえられた。同年のクリスマスと翌年一五五七年の三月、受難週とそれに続く復活祭で、二つの聖歌隊が組織され、歌ミサが挙げられた。

一五五七年(弘治三 )(賢順二三歳・ロレンソ三一歳 )
三月、受難週と復活祭

前年七月から、新しい音楽の指導者のもとで訓練を積んだ子供たちと新しい信徒たちの音楽教育も進んで、典礼聖歌が理解され唱和されるようになってくると、当然、聖歌隊が組織され、ミサでの司祭の応答が歌でなされるようになってきた。イルマンや同宿たちだけでなく信徒達を訓練した聖歌隊がいつどこで一番早く組織されたかは、必ずしも明確にはイエズス会の記録からは確認できない。しかし、この年一五五七年に府内の教会では、すでに聖歌隊が組織されていてミサを始め諸儀式はすべて歌唱を伴って行われていたようである。この年の枝の主日には、二組の聖歌隊が組織されていて、それに滞在中のポルトガル人数人と、五人ずつの聖職者も加わり、相当数の人々によって合唱がミサに中で歌われたことが記録からわかる。

『歌ミサの後十字架を捧げてプロシッサン(行列)を行ったのち、神父は十字架と共に聖堂の外に留まり、われわれは中に入って戸を閉じて歌った。そして神父が門を開けと言った時、聖堂内において「オルガンの歌」で、大きな信心をこめて三回応唱して、戸を開き、すべてに人々は大きな喜びに満たされた。行列をしてから聖壇に進み、ミサを始め、御パッショ(受難)の時となって、歌声は盛り上がった。われわれは聖務日課officiosすべてを歌唱して行ったが、水曜日には挽課treuas を唱い始めると、二つの聖歌隊には同地において冬を過ごしたポルトガル人数人も参加した。定刻となってオノオノ数人ずつ聖歌隊に加わり跪いて高声に歌唱した。

オルガンの歌のベネディクトゥスBenedictusをもってプサルモスPsalmos(詩篇歌)を終り、つぎにミゼレーレメイデウスを歌ったが、その時、聖堂内にいた沢山のキリシタンらは多くの涙を流し信心を表わした』
*一五五七年一〇月二九日付け、平戸発 ガスパル・ヴィエラ神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第Ⅰ巻二五五~二六〇頁

第四章 再び英彦山へ
一五五八年頃から一五五九年頃  (賢順二四歳頃)

賢順の府内在住は、葛岳城攻略後の一五五五年六月から、豊後を出国した一五六九年までの一四年間になり、二つの年号の期間、弘治年間一五五五年~一五五七年、永禄年間一五五八年~一五六九年になる。

 賢順の『府内在住七年余り』の年、つまり一五六二年の五月三〇日に大友義鎮は入道して『瑞峯院三非斎宗麟』と号した年にあたる。一五六二年以前の賢順については、大友義鎮の行動と連動するように賢順が行動していることが判る。

 府内に在住するようになった賢順(二四歳)は、善導寺から英彦山の麓に避難している時に聴いていた宮廷系の音楽を直接に学べるように大友義鎮に願ったと思われる。おそらく新羅の音楽全般が、箏に関することを含めて新羅系渡来民族の秦氏によって、この地域にもたらされ継承されていた。大友義鎮のお抱え楽士となっていた賢順は、大友義鎮の紹介状をもらい、英彦山の麓に伝承されている箏の音楽について、これらの音楽を知っている人々を正式に訪ねて学ぶ機会を得たと思われる。

『諸田系志』に『天文二十年周防国大内義隆沈没、其親戚妻室等避害、拪於豊前彦山之麓』

 また、一五五一年(天文二〇年)大内義隆が陶晴賢の反乱で、大寧寺に於いて自害した時、義隆の妻や親戚たちは戦乱を避けて、大友義鎮を頼り豊後に来て、豊前英彦山の麓に避難場所を与えられて住んだ。この人たちは元来、公家の家の生まれで、禁中の音楽琴譜に最も詳しかった。賢順は琴を弾くことを好んだので,洞上の秘曲を修めようとして、しばしばその人たちの住んでいる山の麓に行き、その音韻を聴き、自分の才能を高めた。

『禁廷竹園之生処、禁中之楽府琴譜、賢順平日愛弾故欲修』英彦山に伝わっている新羅系の音楽や、平家が壇ノ浦で敗れた時、宮廷につかえていた女官らが、北九州からこの英彦山に身を潜め伝えた宮廷系の箏の伝承音楽等、宮廷の楽譜による箏を連日弾いて常に勉学にいそしむ日々であったことが判る。英彦山に伝わっている箏の音と楽譜は、賢順にとって、まさに音楽の宝庫であったと推測される。『洞上之秘曲、屡々山下に聞こえる』賢順の弾く箏の音は山里から村人にまで響き聴こえていた。英彦山には多くの僧堂や寺社があり、修験者や僧がいたので彼らの中の箏に秀でていた者から伝承されている音楽の教授を受けていたと考えられる。

大友義鎮の使節の楽士として宮廷で演奏する 
一五五九年から一五六〇年頃  賢順二六歳

英彦山の麓に伝承されている新羅系の音楽や宮廷系箏の秘曲を学んだ賢順(二六歳)に、その秘曲を演奏する機会が巡ってきた。豊後の雄・大友義鎮のもとに足利幕府より使者がきた。いまや朝廷や幕府が大友義鎮の力を認めて、朝廷の味方につけようと動き始めた。朝廷や幕府、都と大友家との交流が活発になってきた。大友家は大内家と同じように都の貴族文化を取り入れることに盛んだった。

一五五九年(永禄二)一月 将軍・足利義輝の求めにより、鉄砲一丁を作らせ献上する。六月二六日 足利義輝より豊前・筑前国守護職に補任される。
一一月九日 足利義輝より九州探題に補任され大内家督につき一任される。

一五六〇年(永禄三)三月二日 足利義輝より桐の紋の使用を認める。
三月一六日 足利義輝より左衛門督に補任される。
六月 足利義輝,香上(蹴鞠装束)を大友義鎮に贈る。

 大友義鎮からの朝廷や幕府への返礼の使節がいつ派遣されたか、明確な資料が残ってなく確認できないが、豊前・筑前国守護職に補任された時か、九州探題に補任された時かに正式な返礼使節が朝廷へ遣わされたと考えられる。この返礼の使節の一人・楽士として賢順が朝廷宮中に遣わされ、箏の演奏をして宮廷に伝わっている秘曲を披露した。

『諸田系志』は『禁廷、賜號筑紫懸、西国唱賢順懸』と記述している。賢順の名声は都中に広まり、宮廷の近臣より賢順の箏が高く評価され『筑紫箏』と賞讃された。

当時は第一〇六代正親町天皇の時世で、正親町天皇の在位期間は一五五七年一一月一七日~一五八六年一二月一七日。

コスメ・デ・トーレス神父は一五七〇年の報告に『日本の世俗国家は、ふたりの権威、すなわち』二人の貴人首長によって分かたれている。ひとりは栄誉の授与にあたり、他は権威・行政・司法に関与する。どちらの貴人も都に住んでいる。栄誉に関わる貴人は王と呼ばれ、その職は世襲である。民びとは彼を偶像のひとつとしてあがめ、崇拝の対象としている』

府内教会で行われたミステリヨ劇
 トーレス布教長の指示により、府内において毎年降誕祭及び復活祭には、聖書の題材を基にした演劇が行われるようになった。この演劇・聖書劇はトーレス布教長の指導下に行われた。トーレス布教長の治世、永禄年間三~一二年(一五六〇~一五六九年)に限られて上演された。

 演劇の目的が、キリシタンにとっては教えられた教理を再度深く学ぶことが土台にあり、その中で取り上げられている聖書の物語をより視覚的に体感して教化すること。未信者には、視覚的に見ることによって聖書の物語を学ぶことを目的としていた。
上演の期日が降誕祭や復活祭に限定されたことは、聖書の内容と教会の行事の中で企画された演目であるためである。降誕祭においてはキリストの誕生劇を視覚的に見せ、降誕の意味を説明する目的があった。降誕劇を土台として、神が人類の創造をしたこと、アダムとエヴァによって罪が生じた事、旧約聖書に語られている物語を教えること、キリストが人々の救済のためにこの世に幼子として生まれたことの意味、キリストが我らの罪のために十字架で死なれたこと、世の終わりにはキリストはこの世に再び来られて世の罪を裁かれること、等、聖書に書いてある物語が演じられた。

 『過ぐる降誕祭のおよそ二〇日前、司祭(コスメ・デ・トーレス神父)は二,三名のキリシタンに対して、降誕祭の夜、諸人が主(なるデウス)において楽しめる何らかの演劇を行うように言い、何をなうべきか決めていなかったが、司祭はそれを彼らに一任した。彼らは降誕祭の夜になると、聖書により知った事柄に関する数多くの劇を披露したが、これはデウスを賛美すべきことであった。初めにアダムの堕落と贖罪の希望を演じ、そのために教会の中央に金を塗った数個の実を付けた林檎の木を置き、その樹の下でルシファがエヴァを欺いた。これは日本語の歌とともになされ、喜びの日で会ったにもかかわらず、大人も子供も泣かぬ者はなかった。

 堕落の後、彼らは天使によって楽園を追われたが、この(劇の)内容によってさらに多くの涙を誘い、また(それを演じる)人たちが立派で心がこもっていたため、泣かぬ者は一人としてなかった。その後、やがてアダムとエヴァはデウスが与えた衣服を着て登場し、次いで天使が現れて,贖罪の希望を彼らに与えて慰めた。彼らは喜び少なからず涙を流して、歌いながら退場し観衆を喜ばせた。その後、彼ら(キリシタン)はソロモンに裁きを請うた二人の女性を演じた。この劇は,我が子を殺す当国の異教徒の女性を恥じ入らせる上で好ましいものであり、母の子に対する自然な愛の力や、そのほか聖書に記された多くの事柄を表わしていた。続いて司牧者らが登場し、彼らの前に天使が現れて喜びの報を伝え、幼きイエズスを崇めに行くべきことを教えた。そして彼(神)が生きている者と死んだ者とを裁くため厳かに現われるさまを演じた。このいっさいは一人の者が歌って唱え、他の側よりキリシタンらが応唱して彼が歌うのを助けた。右の事はすべて神の助力と恩寵によって、いとも完全に行われたので、いとも親愛なる兄弟たちよ,貴地においてこれを聞くよりも当地において見るほうが遥かに大きな喜びとなるであろう』
*一五六一年一〇月八日付け、豊後発、ジョアン・フェルナンデスの書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第二巻 三五五頁

『当地(豊後)では主の降誕祭ははなはだ荘厳に行われる。というのも、アダムからノアまでの物語のような新約・旧約の両聖書中の玄義を多数劇にして演じるからである。その物語は日本語の韻文に訳され、キリシタンはこれをほとんどすべて暗記し、行列で歩くときや祝祭において歌う。これは当地の人々が異教の歌を捨て、主の歌を歌うために取りうる最良の方法の一つであり、かくして彼らは聖書の大部分を暗記するようになる。このことは彼らがいっそう信心を深めるうえで大きな助けとなっている』
*一五六四年一〇月九日付け 豊後発 ジョバンニ・バティスタ・デ・モンテ神父の書簡 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第二巻 二三九頁

『降誕祭の晩餐は他の地方で通常行っているようなものではなく、夜に公家らが喜びと信心から、聖書中の多くの物語について詩を作って歌った』
*一五六六年一月三〇日付け 堺発 ルイス・フロイス神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第三巻 八五頁

ミステリヨ劇の演題
一五六〇年(永禄三 )
アダムとエヴァの物語、
イエスの誕生の物語、天使が牧人に現われる、牧人たちイエスを拝む、ヘロデ王の幼児虐殺。
イエスの受難の物語、ソロモンの裁判、最後の審判

一五六一年(永禄四 )
イエスの誕生の物語、天使が牧人に現われる、牧人たちイエスを拝む、ヘロデ王の幼児虐殺。
イエスの受難の物語、主イエスの埋葬、聖墓前のマリア・マグダレナ、
ノアの洪水とソドムの滅亡、ロトの物語、アブラハムの物語、

一五六三年(永禄六 )
アダムとエヴァの物語、
ノアの洪水とソドムの滅亡、ロトの物語、アブラハムの物語、

一五六五年(永禄八 )
アダムとエヴァの物語、
ノアの洪水とソドムの滅亡、ロトの物語、アブラハムの物語、

一五六六年(永禄九 )
アダムとエヴァの物語、
ノアの洪水とソドムの滅亡、ロトの物語、アブラハムの物語、
ヨセフの物語

大友義鎮入道して『瑞峯院三非斎宗麟』と号する
 一五六二年(永禄五)五月三〇日  諸田賢順二八歳

京都大徳寺(臨済宗大徳寺派)に塔頭(子院)瑞峯院を建立。京都の大徳寺から怡雲宗悦(いうんそうえつ)という高僧を招き、怡雲宗悦のために『臼杵の御殿と城に向かい合った地』(フロイス・日本史)臼杵城(丹生島・にうじま)の北側、臼杵川と熊崎川・末広川が合流して流れ込む臼杵湾を隔てた対岸の北側の臼杵の諏訪山に大きな禅宗寺院を建立した。この寺が『紫野壽林寺』であり、この寺で大友義鎮(三三歳)は入道して『瑞峯院三非斎宗麟』と号する。

『壽林寺』は現在の臼杵市諏訪地区にあったことが江戸時代中期に著かれた『臼陽寺社考』等などから推定されている。壽林寺は一五八六年(天正一四)島津軍臼杵侵攻直後、あるキリシタン女性の放火によって全焼したことがフロイスの記録にある。壽林寺跡には江戸時代臼杵藩別邸が建てられていた。大友宗麟は臼杵を城下町として整備して、臼杵の丹生島に城を築き、臼杵が大友氏の政庁所在地となった。

『壽林寺』推定地:旧市街地より県道二〇五号線で臼杵川を渡り次の交差点を右折、臼杵大橋を渡った袂周辺付近が『壽林寺』跡地

 大友義鎮の得度式において、諸田賢順は箏を弾じ宗麟の得度式をより一層厳粛な場に整えた。善導寺でのみ演奏されていた『善導寺楽・筑紫箏』がこの式典にも鳴り響いた。

大友宗麟は以前から賢順(二八歳)の才能を認め、大友家の楽士として取立てきた。また賢順の箏に対する情熱に理解を示して、勉学の機会を事あるごとに与えてきたが、今回、使節の楽士としての大役を果たし、正親町天皇の前で御前演奏をして禁廷より『筑紫懸』『賢順懸』と号を賜るほどになった賢順に対して、大友宗麟も賢順に褒美を与えることにした。

賢順・諸田の姓と妻を賜る
『諸田系志』は『大友義鎮甚幸之深愛敬之与館納室、不帰郷里転良田二百町、隔畦作二分宛、夫婦』『而名諸田之箏田』『似て諸田立氏』と記述している。

大友宗麟は、賢順に幼い頃僧籍に入る時に破棄した『宮部』の姓に変わり『諸田』の姓を授け、僧籍より還俗させ、これを機に『館』を与え、賢順に『妻』を娶らせた。*賢順の妻は大友宗麟の夫人・奈多の親戚で、中津の薦神社の大宮司・神官の娘である。諸田賢順の妻の選択には、奈多夫人が深く関係していることがわかる。なぜなら、良い田畑二〇〇町を与え、二つに分割して夫婦それぞれに一〇〇町ずつ授けている。授けた田畑は*『諸田の琴田』呼ばれた。また末永く楽士として自分に仕えることを望み,郷里宮部に還ることを禁じた。帰郷を禁じるくらい大友宗麟は賢順の箏の音と演奏が気に入っていた。当時の二〇〇町というのは、武士としては中級武士の所領にあたり、大友宗麟が賢順を非常に高く評価していたことが判る。褒美とした与えた二〇〇町の半分を賢順の妻にということは、賢順の妻になった女性は、宗麟の夫人・奈多の親戚の女性であり、中津の薦神社の大宮司・神官の娘である。そうでなければ賢順の妻になる女性にまで田畑を与えることは考えられない。【海老名市・諸田晋一様からの情報提供】

*薦神社(こもじんじゃ)大分県中津市大字大貞二〇九
薦神社は大分県中津市に所在する八幡宮で、別称大貞八幡宮(おおさだはちまんぐう)とも称される。境内の三角池(みすみいけ:古くは「御澄池」と記する)を内宮、神殿を外宮とする。

全国八幡宮の総本山である宇佐神宮の祖宮といわれ、承和年間(八三四~八四八年)の創建と伝わる古社である。宇佐神宮との関係が深く、宇佐行幸会の際に神輿に納める零代の枕は三角池の真薦で作るのが習わしである。

*奈多神社(なたじんじゃ)大分県杵築市大字奈多二二九
国東半島、別府湾に面した奈多海岸のほぼ中央に位置する神社。宇佐神宮と関係の深い神社であるが、正確な創建時期は不明。伝承では宇佐神宮の別宮として,神亀六年(七二九年)に宇佐神宮大宮司であった宇佐公基により創建された。大友宗麟の夫人は奈多神社の大宮司、奈多鑑基(あきもと)の娘。

諸田賢順の府内在住の場所
中世大友府内町跡発掘調査から
イエズス会史料によれば、一五五三年(天文二二)に初めて建設された豊後府内の教会の敷地内にすでに墓地が設けられたとの記述がある。イエズス会は一五五六年(弘治二)に、隣接する敷地を新たに購入して、一五五七年(弘治三)に当所の敷地を病院と墓地に二分している。教会と病院の敷地内の墓地は初めから一貫して教会敷地内に存在していた。

『府内古図』が伝わっていて、その古い地図によれば教会のあった場所は、大友館の背後にあたり、寺院が集中する南北街路に面して『ダイウス堂』と記載された敷地がある。その場所はイエズス会の記述の場所と一致している。現大分市顕徳町付近である。

二〇〇一年(平成一三)三月、JR大分駅の高架化に伴う中世大友府内町跡の発掘調査で、教会跡推定地の発掘調査が行われた。JR日豊本線線路下から、一基の墓が発見された。頭を北に向け仰向けに足を延ばし伸展葬の人骨が、長方形の木管に納められていた。その後この周辺から合わせて一八基の墓が発見され、教会の墓地の一角と断定された。この墓地の位置は教会推定地の南端にあたり、調査が進むにつれて一五九〇年代の地層で覆われた一五〇〇年後期の埋葬であることも判明した。この発掘調査の結果、墓地の継続時期がイエズス会の史料からわかる教会の存続期間と一致すること、古図研究に基づく教会推定地と発掘された墓地との位置が一致することから、発掘された墓地は豊後府内のイエズス会府内教会の敷地内に設けられた墓地の一部と断定された。

府内古図の街並み
府内古図に描かれている府内は、『大友館』を中心に、碁盤の目状に東西に五本、南北に四本の街路が通り,三八ヵ所の町名と二〇ヵ所の寺社名が記載されている。
この地図は府内古図と現在の大分市地図を重ね合わせて、南北の街路を東の大分川沿いから第一南北街路、第二南北街路、第三南北街路として、最も西側の街路を第四南北街路と仮称している。さらに東西に走る街路については現『名ヶ小路町』は『名ヶ小路』、『横小路町』は『横小路』とそれぞれ町名にちなみ、街路名としてある。

 大分川沿いの第一南北街路沿いには『上市町・工座町・下市町』等の町名があり、この場所は商工業者が居住して活動した場所と想定できる。大分川沿いには第1南北街路を遮断するように府内最大の寺院である『万寿寺』があり、その南に寺小路町がある。

大友館の東北側の第二南北街路沿いには『唐人町』があり、中国大陸や朝鮮半島出身の異国の人々が居住していたと考えられている。

更に、第四南北街路沿いにある中町の裏には『ダイウス堂』と記載されたキリシタン教会の場所があり、その名称は『デウス』と当時呼ばれていたキリストを表わしていて、この場所にキリシタン関係の施設が建ち並んでいたことが推測され、発掘調査によっても、この場所がキリシタン施設であったことが確認されている。

第四南北街路沿いの『上町・中町・下町・林小路』大友館前の『御所小路町』や『御内町』等は大友氏の家臣団が居住していた武家地と考えられている。賢順も大友宗麟よりこの地区に館をもらい居住していたと考えられる。

 大友宗麟の嫡子・義統が『文禄の朝鮮の役』文禄二年(一五九二年)で失態を犯し、領地豊後を没収され、別府石垣原の戦いで黒田官兵衛孝高に敗れて、秋田、常陸と流されて、常陸国水戸で幽閉中に書き残した『当家年中作法日記』には、大友館で行われた儀式や館に勤務する人々の様子が描かれている。その中に『同朋衆』や『猿楽衆』と言った芸能集団が描かれている。

この日記によれば、この時代の大友館には、南にハレの接客空間、北にケの日常の生活空間が配置されていた。ハレの空間は主殿を主とする儀式空間と、庭園を巡って展開する会所を中心とする饗宴と、茶・花・香・連歌等の遊芸空間から成っていた。賢順もこのハレと呼ばれる空間、接客殿および遊芸空間において、儀式に伴う饗宴、接客に伴う饗宴のために、箏を演奏していたと考えられる。
*キリシタン大名の考古学 別府大学文化財研究所企画二  思文閣出版
*戦国大名大友氏と豊後府内 鹿毛敏夫編  高志書院
*大友宗麟の戦国都市・豊後府内 玉永光洋・坂本嘉弘著  新泉社

諸田の琴田について
豊後領における『諸田』『琴』の地名から調べると、四ヵ所が関連する地域として考えられる。

一、国東市安岐町大字明治字諸田字尾園『諸田』
両子山標高七二〇mの山麓にある両子寺へ行く県道四〇五号線成仏杵築線が、県道二九号線とT字に交わる手前の地区が『諸田地区』である。
国東半島は六郷満山と言われるくらい八幡信仰の盛んな土地であり、八幡神社の総本山・宇佐八幡の社領も多く存在していた。この地区には『諸田山神社』があるが、創立時期は不明で、諸田賢順が府内から立ち退くときに、田畑を耕していた百姓達にそのまま土地を与えて感謝された。その感謝の御礼と標として『諸田山神社』が建立されたと言われている。
【伝承の情報提供。清末芳春氏。〒八七三・〇三五二 大分県国東市安芸町明治一・三四八】

 また別の伝承として、諸田飛騨守という国東の土豪の武士が、この地に社地を選んで社殿を設け、大山命他の神々を祀ったと言い伝えられている。諸田飛騨守は一五八八年(天正一六)黒田官兵衛孝高が、豊前を豊臣秀吉から賜ったとき、自元の国衆・宇都宮鎮房が反抗して居城の城井城に立て籠もった時、共に城に籠って戦った領主の一人と言われている。【諸田晋一様調査の情報提供】

二、豊後高田市梅木『琴の組』
上記の県道二九号線を豊後高田市方面へ行く途中に,国宝の『富貴寺』へ向かう県道六五五号線が左手に表われる。県道六五五号線を通り越して,百々塚の次の『甘木』のバス停から左の道を少し入った先の地区が『琴の組』『琴の組』という地名からも、何か琴に関するいわれがある様な地区だが、賢順の箏に関連する物的証拠や、伝承等は見つけられなかった。

この地区から四kmほど隔てた所に国宝『富貴寺』(天台宗))がある。この『富貴寺』は『蕗寺』とも呼ばれている。賢順の組唄に『蕗というも草の名、茗荷というも草の名、富貴自在徳ありて冥加あらせたまえや』という歌詞がある。この『富貴寺』『蕗寺』を歌ったものだろうか?

賢順はこの『富貴寺』近くに宗麟より田畑を貰い、その折この『富貴寺』にも来たのだろうか?周辺には、両子寺、富貴寺,熊野磨崖仏,真木大堂等があり、国東半島は古来よりの仏の里、仏教の聖地と呼ばれ、仏教文化は六郷満山と崇められていた。
『都甲川の上流地域南岸の丘陵台地に立地している(対岸は甘木である)。

地元の人の話では、箏を弾く、箏占いをする、お宮のおはやし、神楽などの組をつくっていたので地名ともなったのではあるまいかという。箏占いと言うのは、箏を弾いて神霊を迎え、吉凶を占う事、後箏板を笏でたたいて占う。また、箏を弾ずる間の神秘的な調子に徴して判断したものである。
組は、あらゆる生活方法が相互扶助的な共同生活の村落社会では、地域的団体としての組が非常に重要な役割を果たしている。地縁的なものがその結合の紐帯をなしている。そういう組織での箏の組か』
『国東半島の地名あれこれ』酒井冨蔵著 二、箏ノ組 六五~六六頁

三, 中津市『諸田』
中津市のJR東中津駅とJR今津駅のほぼ中間地点、海側は県道二三号線の左側から、JRの線路を挟んで、国道二一三号線の右側の地域。豊かな田園地帯で『良い田畑』であり『諸田の琴田』と呼ぶにふさわしい田園地域である。諸田地区の西方近くに薦神社【こも神社】諸田賢順の奥方の出身地の神社がある。しかし、この地域は豊前と豊後の国境付近にあり常に戦場になっていた地域だった。賢順が府内在住の時代一五五五年から一五六九年に掛けての一四年間も、毛利軍の豊前攻略のために数度、戦場となっている。

四、筑紫野市『諸田』
筑紫野市諸田。西鉄天神大牟田線桜台駅と筑紫駅の間の区間。この地域も筑前と筑後の国境付近にあり常に戦場になっていた地域だった。賢順が府内在住の時代一五五五年から一五六九年に掛けた一四年間も、毛利軍の筑前攻略のために数度戦場となっている。また、大友軍と龍造寺軍との戦いのために戦場になっている。

第五章 豊後府内から肥前南里の正定寺へ
賢順、府内から郷里に還る
 一五六九(永禄一二)年、府内在住一四年目、賢順は、大友宗麟から与えられていた楽士としての最高の地位と名誉を棄て、賜っていた『諸田の琴田』二〇〇町の良き田畑も棄てて、妻や家族を連れて郷里宮部を目指した。府内で築きあげた全ての地位と名誉を棄ててまで、賢順を付き動かしたものはなんだったのか。府内での生活は、生活のための仕事と食べていくための『物の充足』は十分にあっても、賢順の志向する『心の充足』や『芸術を極める』ための場所ではなくなっていた。安穏として琴を弾く毎日の繰り返し、賢順も大友館のこのハレと呼ばれる空間、接客殿および遊芸空間において、儀式に伴う饗宴、接客に伴う饗宴のために、箏を演奏していたと考えられる。

初めは高貴な人々の前で演奏する自分の箏に酔っていた賢順だった。しかし時間が経つにつれて、場所にも慣れ、雰囲気にも慣れ、儀式に伴う饗宴,貴人たちの接客に伴う饗宴にも慣れていくと、煌びやかな席のなかにある空虚感に気がついた。音楽があっても心の満たされない演奏、徐々に、賢順は自分の心が求める音楽が、此処大友館にないことに気が付いた。このまま、この大友館で箏を弾き続けて一生を終わるのか。それとも、この府内で築いたすべてを棄てて自分が思う箏の道に生きるのか、賢順は迷った。『生活の安定』か『箏の道』か?二者選択の岐路に自らの心を追い込んだ時に、賢順は純粋に『箏の道』を選んだ。『箏の道』を歩むために府内で築いたすべてを棄てる決心がついた。妻子を携え、母や二人の弟たち、府内まで自分を頼って付いてきた親戚たち、すべてを引き連れて、賢順は府内を出た。総べては箏の道を極めるために。

賢順は箏の道で生きることを決心した時に、先ず頼るべき場所として、幼い頃から自分を育ててくれた善導寺に連絡を付けたと考えられる。賢順は善導寺に庇護を求めたようだ。

この時代、善導寺の領地は『草野氏』に属し、草野氏は大友に敵対している『龍造寺』に属していた。この関係から善導寺は賢順の受け入れがすぐには出来ずに返事が遅れたものと思われる。府内にいて敵方の『龍造寺』の寺、善導寺との連絡を取っていることが判れば謀反人として処罰されるので、賢順は大友宗麟に現在の箏に対する自分の気持ちと、これから先の事を相談したと考えられる。大友宗麟は芸術に対しての造詣も深く、賢順の箏に対する情熱も日々の研鑚も判っていたので、賢順程の箏の名手を手放さなければならないことを残念に思いながらも渋々に承諾したと考えられる。賢順は大友宗麟の自分の芸術に対しての高い評価と、機会のあるたびに与えてくれた勉学の機会によって成長してきたこと、また身に余る高禄で召し抱えていただいた恩に感謝していることを伝えた。

賢順程の高名になると、弟子になりたい人はたくさんいたであろう。その中の何人かを賢順は選び、自分の後継者として数年前から育成していたと考えられる。おそらく、賢順は心の中で郷里に還ろうと決めた時から、大友館で行われる饗宴のための音楽の水準の維持に相応しい人物にするために弟子たちを厳しく教育したであろう。賢順は自分に任された饗宴の仕事を放りだすような無責任な人物ではなかった。大友宗麟の暖かい理解を得て府内を発ち、賢順は一族を引き連れて、昔住んでいた英彦山の麓の添田村に一時的に落ち着いたと思われる。郷里宮部郷の館と領地は賢順が善導寺から英彦山へ行く前、新しい領主によって召しあげられていた。郷里宮部郷には賢順の親戚が住んでいたようだ。何故なら、賢順が正定寺から、三根の東津に田畑を貰い移り住んだ時に、宮部郷の親戚も賢順を頼って、三根の東津に引っ越してきている。

 賢順独り、また賢順の妻子位の人数なら、善導寺もすぐに受け入れてくれたであろうが、一族郎党数十人となると、その人数をまかなう場所も、食べさせるための食糧をつくる土地も住いも確保しなくてはならないために、その確保の準備に時間が掛かったのであろう。

また善導寺が賢順を受け入れなかった理由に、賢順の還俗と妻帯者であることが関係していると思われる。賢順が『箏で生きる』決心をして歩みだしたときに、賢順が頼る場所、落ち着いた場所が、育った場所である『寺』であったこと。賢順は心の原点に戻っていった。

肥前南里の正定寺に落ち着く
 一五七〇年(元亀元年) 賢順三六歳。賢順は懐かしい故郷であった善導寺に庇護を求めたが、当時善導寺は『龍造寺』に属していて、大友宗麟のお気に入りのお抱え楽士であった諸田賢順を受け入れたときに、大友宗麟との間に起こる問題が初めから解っていたために、末寺の肥前南里の『正定寺』を紹介してきた。

 肥前南里の『正定寺』は、善導寺が九州浄土宗の総本山とされるのに対して『肥前の本山』の地位にあり、正定寺の開祖である『満彗上人』は善導寺の祖『鎮西上人』の末弟の間柄である。

正定寺の創建は久留米の善導寺とほぼ同じ時期と言われている。『正定寺由緒録』によれば、古くから既に善導寺楽を仏事に取り入れていたと書かれている。

 この由諸禄は、第二六世実誉上人によって、一七〇六年(宝永三年)に記述されたとされているが、願海上人の時代、一二六二年(弘長二年)には善導寺から『声明・管弦と作法』を取り入れ、より完成された形式で善導寺楽・仏教雅楽が『法事讃会』に使われていたとされている。賢順が正定寺に来た一五七〇年には、すでに正定寺において過去三〇〇年の間『善導寺楽』が奏されていた。

賢順がいつ府内を発ち、どこに落ち着き、いつ肥前南里の正定寺に入ったかは、『諸田系志』『諸田家系図』にも記録がないので断定が出来ない。しかし『諸田系志』に『賢順一族肥前南里正定寺,難を逃れ適す。宮部親戚皆跡に随す』とあり、賢順たちが正定寺に落ち着いたことは確かなようだ。賢順は正定寺において、豊後府内で学んだ、より高度な音律や箏の演奏技法等、寺の若い僧たちに教授したと考えられる。正定寺において賢順は率先して若い僧たちに混ざって法要のために善導寺楽・雅楽を奏した。

賢順が正定寺に落ち着き、この寺において新たな歩みをしようとしていた時に、地元の新興勢力、龍造寺隆信が大友宗麟に反旗を翻し、肥前南里正定寺周辺は戦場となりつつあった。

第二次佐嘉城攻め
 一五六九(永禄一二)年、九州での勢力拡大を目指していた毛利元就は、旧領を奪還しようとしていた出雲の尼子勢に対するために、九州から兵を引きすぐに出雲に向かわせた。

 毛利の後楯を失った佐賀の龍造寺隆信は一五七〇年(元亀元)正月には、高橋鑑種が大友宗麟に攻められて、和議を大友軍の蒋・吉弘鑑理に申し出た。大友宗麟に叛旗を翻していた秋月種実と原田入道了栄も大友に降り、妙見山城主草野親忠だけが大友に抵抗し続けた。龍造寺隆信から大友への人質として差し出されていた秀島家周(賢周と改名)は、秘かに脱出して佐賀(佐嘉)に帰還した。龍造寺隆信の再三の叛旗に大友宗麟は怒って二度目の佐嘉城攻めを決め、自ら大軍を率いて豊後を出て、三月一〇日、日田郡日田に着陣、筑後に討ち入り,三井郡高良山に本陣を置いた。豊後の大友軍の精鋭,戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速の三宿老に,豊前豊後・筑前筑後の四ヵ国の将兵を与えて進軍させた。三月二七日に肥前に入り、戸次鑑連は三万余の軍勢で肥前の東口の神埼郡阿禰・境原に陣を置いた。西は佐嘉郡巨勢野と神埼郡の西端犬童林、北は城原、南は筑後三瀦郡榎津の広範囲に展開して陣を布いた。吉弘鑑理と臼杵鑑速は佐嘉城の北の口の佐嘉郡金立、千布、春日、川上川岸の於保原・平野・大久保・川上、その西の山田・大願寺等、上佐嘉三里あまりの山野に展開して陣を布いた。

 筑後の兵は南の船手を承って三瀦郡榎田に兵船を用意して、夏足三河入道、斉藤民部小輔を榎津の渡し、その他諸浦の船留め奉行として、四月二〇日に来陣した。大友軍総数約八万余と言われ,佐嘉城周辺の山や野にあった町や村の民家は大友軍の略奪にあい、寺社はことごとく焼き払われた。これに対して佐嘉城に籠った龍造寺軍は隆信一族,従兄弟の鍋島信房,信昌兄弟の一族その他を合わせてもわずか五〇〇〇余にすぎなかった。

正定寺、寺井津の攻防戦に参加する
 大友軍宿老の一人、戸次鑑連は水軍を編成して、筑後川を渡って南側から佐嘉城を攻略しようと計画して、一五七〇年(元亀元年)五月下旬、田尻鑑種、蒲池勘解由旗下の下筑後の士を帰陣させ榎津において調練して、七月六日、数十隻の船で佐嘉郡川副郷の東、*寺井津に上陸して攻めてきた。(*寺井津は筑後川昇開橋のすぐ下流の西川岸)

同郷鰡江の無量寺の僧・北村清兵衛、その他与賀・川副両郷の野武士らが集まり攻防したために,兵船は損傷を受け、潮の引くに及んで退いた。

七月二七日、兵船数十隻が寺井津に再び来襲、今度は鹿江・南里・石井の一党が集まって防戦して、大友軍の兵船に損傷を与えたために再び退却した。翌二八日、兵船は舫(繋ぎ船)を付け、歩みのための板を渡して進退が自在になるように拵えて、寺井津に攻めてきたのを、近くの城、田中城主太田美濃守入道源舜旗下が防戦した。また佐嘉城から鍋島信昌が駆けつけて撃退した。この時、池田一党が打って出て抜きんでた活躍をした。

正定寺の証譽上人を先頭に、正定寺の僧侶たちや川副の武士たち一五〇人が結束して南里軍に加わり、この寺井津に攻めてきた大友軍と戦い防戦したと『正定寺由緒録』にある。大友軍との戦いの終結後、正定寺は龍造寺隆信より褒賞されたと『正定寺由緒録』にある。当然賢順も正定寺に身を置く者として正定寺の僧侶たちと共に戦ったと考えられる。

 『正定寺由緒録』には、『元亀元年(一五七〇年)七月、豊後、大友ノ兵船数百艘来て浮盃端津ニ蒋襲ハントス。佐嘉城数兵興賀河副之諸士防之時ニ證師集門輩曰佛法弘通偏依ル世静ナルニ世離則雖欲弘豈夫能哉今。隆信公蒋退ヶ逆徒ヲ静セントス。世吾傍蜼為タリト出塵之徒。此国ノ為ニ法ノ為ノ時何可不ル贔負メ而書忠義哉催促スルニ子院末派僧俗餘レリ百五十人便属南里氏之軍中ニ轣レテ一余似テ碎リ堅甲利兵豊軍退去ノ後南里氏似事稾ス之。隆信公大褒賞セラルト證カ之志ヲ伝ウ』(『正定寺由緒録』六〇~六一頁)とある。

八月六日にも寺井津に攻めてきて撃退されている。八月一七日には、大友軍の田尻鑑種・検使雄城薩摩守旗下が兵船を率いて筑後川を上って北橋津に攻め込んできた。北橋津の郷民は隣村の者を募り、縄襷・竹やりでこれに応戦、駆逐した。この時も城主太田美濃守入道源舜旗下が防戦した。この後水軍の来襲はなかった。

今山の戦い
 髙良山の本陣にいた大友宗麟は、一向に進展しない戦いに活路を見出すべく、新に舎弟大友八郎親貞に、玖珠越前守、森蔵人助、恵良左京亮に、玖珠郡の兵士三〇〇〇余名を与えて、佐嘉城攻略に向かわせた。親貞の出陣によって将兵の士気は奮いたった。親貞軍は筑後川を渡り、肥前路を西に進み、神崎郡田手の東妙寺を経て、金立山の権現堂に詣でて休息をとった。ここから三瀬城主・神代長良の案内で、八月一六日川上川を越えて大願寺野に陣をとった。

翌一七日、大将大友親貞は主従三〇〇余騎で今山の北嶺赤坂山の本陣を構えた。今山は(佐賀市大和町)佐賀市の西南六kmにあり、標高一五〇mの小高い山で、ここからは佐賀平野が一望に見渡せて、眼下に城を俯瞰できる戦略上重要な地点である。佐嘉城を取り囲んだ大友軍は援軍を含めて三万余といわれ、春日、川上,真手、今山、大願寺の肥北の山野は大友軍で埋め尽くされた。

八月一八日の夜、龍造寺軍の部蒋・成松刑部少輔は、忍びを今山に遣わして親貞の陣中を探らせた。密偵の報告は『豊後の兵は、龍造寺軍が少数故にあなどり油断している。落城はもうすぐと思いおごっている』(肥陽軍記)というものだった。

 成松は、密偵の報告をすぐさま鍋島信生に報告した。鍋島信生はその報告を受けて翌一九日早朝、わずかな手勢を連れて敵陣を偵察した。佐嘉城に帰った鍋島信生はすぐさま軍議を開き,敢然と敵本陣への夜襲を進言した。鍋島信生はわずかな少人数で佐嘉城を出たが、百武志摩守が後を追って合流した。城の西北、新庄村に入ると、農民たちも加わり、勝楽寺で休息した。新庄を発つ頃には従う人数は三〇〇余になった。鍋島軍が江頭から藤折村を通過する頃には鉄砲一〇〇挺余りが集まり、鉄砲部隊が編成された。小城方面から鴨打胤忠が信生の要請に応じて駆けつけて来たので、総勢七〇〇余名になり、地元の者たちも進んで道案内をして夜襲に協力した。この付近の山岳修験者・牛尾の別当琳信が一山の山伏たちを連れて鍋島軍に加わった。山伏たちの道案内で鍋島軍は藤折より山中に入り,暗夜の山腹をよじ登って、大友軍の背後に廻り、大友軍の陣地に忍び寄った。武将成松遠江守の手の者が大友陣営を覗き見ると、大将の大友親貞は、士卒に酒を勧めていた。(九州治乱記)

薄明かりが差してきた卯の刻(午前六時)鍋島信生の合図とともに、一斉に敵陣に突入した。

 不意を突かれた大友軍は,威声を上げて突進する佐賀軍の前で大混乱となり、次々に将兵は打たれて凄惨な状況となった。未明より辰の刻(午前八時~一〇時)に至る激戦となった。浮足立った大友軍は態勢を立て直すことができずに総崩れになった。搦め手にいた納富信景は五〇〇余騎を指揮して逃げ惑う大友軍を追撃して一〇〇〇余の首級を挙げた。大将の大友親貞は主従一〇余名ばかりで、山伝いに筑前に落ちようとしたが、先回りしていた成松信勝らに見つけられて討ち取られた。この合戦後、鍋島信生は鍋島直茂と改名した。鍋島直茂の龍造寺家中における地位は揺るぎないものとなった。龍造寺隆信の死後、鍋島直茂は龍造寺家を取り仕切り、佐賀藩成立の基礎を築いき、佐賀藩主への道を歩んだ。

 今山での敗戦は大友家の肥前喪失の端緒となり、大友家の弱体を招いた。今山の敗戦後、肥前においての大友氏の勢力と影響力は後退していった。この今山の戦いでの勝利は龍造寺氏の興隆のきっかけとなっていった。一五七一年(元亀二)龍造寺隆信は東肥前を支配下に置き、一五七三年(天正元)には肥前一国を支配するようになった。

多久梶峰城攻め
 八月二〇日、今山での戦いが終わった。鍋島信昌は配下の小河信貫・龍造寺信重(家晴)鴨打胤忠父子・納富信景・牛尾の別当琳信旗下三〇〇余名を従えて、軍装を解かずに多久の梶峰城に向かった。多久城主・小田鎮光は、最初龍造寺隆信に従っていたが、大友氏が来襲した時、大友方に味方していた。小田鎮光には、龍造寺隆信は養女を嫁に与え,末子鶴仁王丸を養子に遣わしていた。鍋島信昌は多久郷に入り、別府に陣を進め、地侍・相浦右衛門尉を味方にして案内を頼み、八月二一日早朝、多久梶峰城に着いた。城主小田鎮光の出陣中の留守をする老臣・江口右馬助は少ない人数で防戦したが、鍋島信昌は水の手口から城兵を突き崩して城中に入った。鶴仁王丸とその母も無事確保して佐嘉城に連れて帰った。龍造寺隆信は感涙して歓び、鍋島信昌の功を称した。多久の梶峰城には龍造寺隆信の実弟・龍造寺長信を置いた。

佐嘉東口の戦闘
 今山での敗戦で佐嘉城周辺に展開していた大友軍は退却したが、神崎郡の西境の阿禰・境原に展開していた大友軍はそのまま陣を堅持していた。八月二二日、この地に駐屯していた臼杵民部大輔旗下二〇〇〇余の軍が、佐嘉城東の高尾口に攻めてきた。八月二三日、龍造寺隆信は自ら出馬,納富信景が先陣として戦い、鍋島信昌は龍造寺信重(家晴)とともに、佐嘉城下の東北端から適の背後に回り込んで攻撃して大友軍を敗走させた。臼杵民部大輔は捕らわれた。

高尾口の大友軍は退却させたが,阿禰・境原の軍勢はそれでも退却しないので、龍造寺隆信は再度出馬した。阿禰は一戦もせずに龍造寺軍に下った。龍造寺軍は境原の軍に対して夜襲を仕掛けて退散させた。

大友・龍造寺の和睦
 宗麟の宿老、戸次鑑連・臼杵鑑速から筑後の田尻鑑種へ和平の話が持ち込まれ、田尻鑑種から佐嘉の龍造寺隆信へ和平の話がなされた。龍造寺隆信も和平には賛成だったので、九月下旬、大友宗麟の三宿老、戸次鑑連・臼杵鑑速・吉岡鑑理が阿禰・境原から船で下筑後の高崎村の田尻鑑種の陣所で会した。連日の談合の末、使者として田尻鑑種自身が佐嘉城に赴き龍造寺隆信に三将の意見を隆信に相談したところ、隆信もこれを承諾したので、ここに大友と龍造寺との和睦が成立した。一〇月一日、豊後大友軍も筑後軍も佐賀領から引き揚げて高良山に集結して軍装を解き、一〇月三日、大友宗麟は高良山の陣を引き払い豊後府内に帰り、諸勢もまた自分の国に帰った。

大友軍が肥前佐嘉から撤退した後、龍造寺隆信は弟の龍造寺長信と信周に、大友の勢力圏に近い肥前東部の神埼・三根方面を制圧させている。依然として肥前周辺には大友方に就いている国衆がいたし、龍造寺隆信が肥前の国主になったことで反旗を翻す一族もあった。

肥前東部の大友方に加担していた在地領主や国衆の制圧は,一五七〇年~七二年(元亀元年~二年)にかけて行われた。

第六章 多久梶峰城に招かれる
一五七一年(元亀二)一二月 賢順三八歳

龍造寺長信は正定寺が一五七〇年(元亀元)五月~八月にかけての寺井津の攻防戦に参加したことに感謝していた。正定寺の多大な働きによって寺井津の戦いに勝利したことは紛れもない事実だった。正定寺の証譽上人に感状を与えるために、正定寺を訪れた時、初めて龍造寺長信は賢順の箏を聴いたと思われる。『この寺にこのように箏を弾じる名人がいようとは!』『まして賢順が大友宗麟のお抱え楽士であったとは!』長信にとって賢順の箏の音は衝撃の何ものでもなかった。この時の賢順の演奏は、長信に大きな感銘と深い感動を与えたと思われる。龍造寺長信は文武両道の知将であり、『箏』についてもかなりの知識を有していた。

『諸田系志』には『元亀二年辛末、賢順三十八歳,応龍造寺泉州公の招に適於、梶峯城。而わずか安妻孥』

一五七一年(元亀二)一二月、賢順三八歳は多久梶峰城主龍造寺長信の招きに応じて、妻と妻の侍女を伴って、長信の多久の梶峰城を訪ねた。長信の梶峰城内で、すべての家臣の前で、賢順は筝曲を演奏した。その演奏は、賢順がこれまで経てきた人生の全てが込められている演奏であったし、これまでに修得した技術の全てに裏付けされている完璧な演奏だった。城内にいる人々はその透明で純粋な箏の音のひとつひとつに、自分が経てきた人生の喜びと悲しみを見出して、涙したであろうと思われる。賢順の箏の音は、人々に深い感動と感銘を与えた。

『諸田系志』は『夫琴瑟、和陰陽之気を感ず、鬼神之霊を与う、天地も同じく曽の心を与う、万物皆の体、自然の音体を生ず』と表現している。

龍造寺長信より三根の東津に領地を賜る
 多久城での龍造寺長信の前での演奏により、長信より賢順は箏の演奏の素晴らしさを褒められた。長信は賢順の芸術家としての生き方に共鳴して、援助の手を差し伸べた。賢順には大友館での心の満足が得られなかった苦い経験があるので、貧しくても箏の道を歩めるだけの援助を願った。長信は賢順の欲のない生き方に深く感じ入った。

しかし現実には、賢順が養わなければならない豊後から連れてきた家族とその親戚がいる。賢順の家族が生きて行けるだけの領地を賢順は願った。賢順の願いに答えて、長信は賢順一族が十分に生活できる必要な田畑を三根の東津に与えた。

 賢順は三根の東津に与えられた広大で十分な領地に移り住み、賢順を頼って宮部郷から来た親戚にも田畑を分け与えて,皆が十分に暮らしていける土地を初めて手に入れた。賢順は生活のために農業にいそしみながら、正定寺の僧たちにも箏を教え、また自分の演奏にも日々精進した。三根の東津は正定寺のある川副の南里から筑後川沿いにほぼ一〇km東に上ったところにあり、緑が広がる穀倉地帯である。この当時、この三根の東津は龍造寺隆信の領地で、すでに大友方に味方した国衆や叛乱領主は平定されていた。賢順はこの三根の東津にいつまで住んでいたのだろうか?この三根の東津の地で何ものにも束縛されず、また高名になることも利益を上げることも求めず、賢順はひっそりと一六年間を暮らしていた。

 三根の東津にある八幡神社の周辺には、四〇〇年前の古くから『諸田姓』の一族の田畑が広大に広がり、今も*八幡神社【賢順の奥方は薦神社の大宮司の娘であり、奥方の願いにより建立】の南側の墓地には『諸田家』累代の墓地があり、宮部一族たちの墓もひとつところに集められて並んでいる。近くの川底に埋まっていて墓銘も判別できない墓石も多くあった。近くには今でも『諸田』の家がある。

故諸田素子様の従姉妹で,小郡市在住の石井浩子様の案内で、みやけ市三根町東津の八幡神社の南側にある諸田家の墓地を訪ねた。諸田家累代の墓碑や、宮部一族の墓もひとつところによせてあり、この地、三根東津に諸田家が代々生きていたことが事実と確認できた。

*三根の東津に関して諸田家に伝わっている伝承
『肥前南里の正定寺まで同行してきた豊後の人々の一部の人や、賢順を頼ってきた、大牟田の宮部郷の親族の人々は、『三根の東津』(現・佐賀県みやけ市三根町東津)に定着した。東津の八幡神社の周辺は、何百年も古くから『諸田姓』を名乗る一族の田畑が広大にあった』

『諸田賢順の奥方は薦神社の大宮司の娘であり深く神々を信じていたので、この地に奥方のための八幡神社を建ててお参りを続けていた』【諸田晋一様情報提供】

『賢順は家督を弟に譲り、弟が賢順に代わり出仕して龍造寺家に仕えた。東津に移り住んだ諸田一族は、鍋島藩から代々周辺地域の土地の地頭職を仰せつかり、筑後川の堤防を築づく工事と堤防の補修を任されていた。また稲作のための灌漑用水路の建築整備等、土木関係の仕事に従事していて、土地の農民たちからの信頼も厚かった。諸田家の治水工事との関わりは筑後川一帯に渡り、諸田家の工事監督職は明治の時代まで続いていた*諸田家では漢方薬等の薬も扱い、医者のような役目も担っていた』【諸田晋一様情報】

*諸田賢順が医学の知識を学ぶ機会があったとしたら、それは府内でのアルメイダが作った病院での漢方の医師、パウロ・内田からであろう。 

トマス・内田(内科医)
 トマス・内田は一五五七(弘治三)年四月、毛利元就によって、山口の大内義長が自害した後、山口の町が毛利軍により焼失破壊された時、山口に残っていたキリシタンたちは豊後への移住を余儀なくされた。この時、山口の住院教会の祭具,二枚の聖絵等を背負い豊後府内まで逃げてきた。トマス・内田は日本におけるキリシタン信者の第一番目の信者であった。トマス・内田は、自分の息子をイエズス会に受け入れてくれるようにこの時に願っている。 ルイス・フロイス神父はトマス・内田のことを『パウロ・キョウゼンに代わって気の毒な人びとに奉仕するために病院に赴きました』と書いている。

アルメイダは『先に死亡したパウロ・キョウゼンに代わって山口より府内に来たトマス・内田が内科治療を行い、大いにデウスに仕え、住院にとってははなはだ必要な人になりました』と書いている。トマス・内田はもともと山口で医者をしていたと考えられるが、府内に来て、アルメイダの指導のもと、パウロ・キョウゼンの漢方の処方の指導も短い間だったが受けていた。パウロ・キョウゼンの死後、キョウゼンが残した漢方薬の処方に関する『熱性万病の漢方療法』を学んで、独自の漢方療法を確立して府内病院の内科医として活躍した。』

 賢順は一六年後の一五八七年(天正一五)九月 (賢順五三歳)多久安順より招かれて梶峰城にあがる。隠居した龍造寺長信は一六年前の一五七一年(元亀二)一二月に、多久梶峰城に賢順を招いた時の事をよく覚えていて、嫡子、安順の婚礼のための祝いの演奏を依頼したと考えられる。

佐賀藩藩主・鍋島直茂公の長女『千鶴姫』の婚礼の席での晴れがましい舞台に賢順は招かれて演奏した。箏を弾く者にとってこれ以上の名誉ある舞台があるはずもなく、最上の機会を賢順は与えられた。この多久梶峰城の婚礼での演奏以来、賢順は多久梶峰城の下に屋敷を与えられ住むことになった。うら若い安順の妻『千鶴姫』に、賢順は箏を教授する役目を仰せ付けられた。賢順は自分が理想とした箏の演奏の真摯な取組みとその心の姿勢、箏の技術を伝授した。

 一五七八年七月二五日、大友宗麟受洗。臼杵教会で大友宗麟は洗礼を受けて、ドン・フランシスコと称した。宗麟の新婦人、およびその娘も受洗。

大友宗麟も一五七八年(天正六)までは全盛を極めたが、同年一一月、日向の髙城・耳川の戦いで島津軍に敗れて以来、大友氏の勢力は急激に衰えていった。大友宗麟の受洗を期に、宗麟がキリシタンになったので、各地の寺は一五七九年以後強制的に破却されて無住の寺となった。

龍造寺隆信の戦死 
 一五七八年(天正六)一一月、九州最強を誇っていた大友氏は、日向伊東氏の旧領奪還のために日向に侵攻、日向髙城(宮崎県児湯郡木城町)から耳川にかけて島津軍と激戦の末大敗して、以後大友の勢力は急速に衰退した。九州一の大友氏を破った島津氏は勢いを増し九州制覇を目指した。

一五七九年(天正七)龍造寺隆信は大友氏の衰退に乗じて大友領内の筑後に攻め入り、三池、蒲池、黒木。田尻等を降して、更に北肥後に侵攻し、北肥後の国衆、和仁、永野、小代、赤星等を従え、肥後南部の島津勢力と対峙した。隆信はこの頃隠居して、佐嘉城を嫡子の政家に譲り,須古城に移ったが、実権は握っていた。この頃から隆信の行動に乱れがでてきた。地位と領地を得た満足から、次第に酒色の生活を享楽するようになっていった。隆信の従姉妹で義弟・鍋島信生(直茂)は隆信に讒言するが、隆信はこれを煙たがって信生を柳川城に移した。この頃が龍造寺隆信の全盛期で『五州二島の太守』と称された。

龍造寺隆信は勇猛な武将ではあったが,仁愛を欠き、女婿小田鎮光と弟賢光兄弟を謀殺、恩のある柳川の蒲池鎮並も謀殺して、蒲池一族を滅ぼした。肥後の赤星統家に佐嘉への参例を命じたが統家が参例を渋ったのを怒り、赤星の人質、嫡子の新六郎一四歳とその妹八歳を磔にして見せしめとした。最愛の子供たちを殺された赤星統家は、島津軍の八代の陣に赴き、慟哭しながら事の次第を語り、以後、薩摩軍と行動を共にした。隆信の非道な残忍行為は龍造寺家臣や諸将たちの恨みをかい信望を失っていった。力ずくで従属させていた土豪たちも、次々と離反していった。仁愛のない非道な国主は領国の民衆に見放されて、いつしか自滅の道をたどり死んでいく。龍造寺隆信の生涯は典型的な例であろう。

箏の制作
一五八三年(天正一一)一〇月二七日

天文三年(一五三四年)説では、天正一一年(一五八三年)は,賢順四九歳の時の箏の作成となる。

『伝賢順作箏』 (多久市郷土資料館蔵)
箏の内部に『干時天正十一年十月廿七日作者賢順斎卅七歳/寛永十一年歳作なわす/河副庄北古賀金左衛門尉』と書いてある。

天正一一年一〇月二七日・一五八三年、賢順が三七歳の時、制作した箏で、一六三四年(寛永一一年)河副庄北古賀金衛門伊尉が修復したことが判る。

本箏の銘文により、今泉千秋(一八〇九~一九〇〇年)は、賢順の生没年が『諸田氏系図』等に記載の天文三年(一五三四年)生まれではなく、天文一六年(一五四七年)と考えて、父・今泉千春著『松響閣箏話』等を含めすべて訂正した。付属の掛軸は、銘文の写しの横に、賢順の生没年についての訂正とも解釈できる書き込みがある。

【推論】天文一六年~寛永一三年(一五四七年~一六三六年)説は、『伝賢順作箏』(多久市郷土資料館蔵)箏の内部に『干時天正十一年十月廿七日作者賢順斎卅七歳/寛永十一年歳作なわす/河副庄北古賀金左衛門尉』と書いてある銘文に由来して今泉千秋が一八九三年(明治二六年)以降提唱し始めた。

天正一一年一〇月二七日・一五八三年、賢順が三七歳の時、制作した箏で、一六三四年(寛永一一年)河副庄北古賀金衛門伊尉が修復したことが判る。本箏の銘文により、今泉千秋(一八〇九~一九〇〇年)は、一八九三年(明治二六年)二月、今泉千秋の弟子であった裁判官・松井通照が東京に公務で訪れた際、村田豊作氏宅にあった本箏を見つけ入手して、今泉千秋のもとに持ってきて以後、賢順の生没年が『諸田氏系図』等に記載の天文三年(一五三四年)生まれではなく、天文一六年(一五四七年)と考えて、父・今泉千春著『松響閣箏話』等を含めすべて訂正した。付属の掛軸は、銘文の写しの横に、賢順の生没年についての訂正とも解釈できる書き込みがある。つまり、天文一六年~寛永一三年(一五四七年~一六三六年)説は、『伝賢順作箏』内部の銘文、一五八三年(天正一一年)賢順三七歳から、九〇歳没を一六三六年、誕生を一五四七年と割り出したものである。従って、『諸田賢順の系図』において歴史的に確定している事実に照らし合わせた場合、天文一六年~寛永一三年説は多くの問題点を露呈している。

沖田畷の戦い
 一五八四年(天正一二)三月一八日、龍造寺隆信(五六歳)は、島津に寝返った島原の有馬晴信を討つために,須古城を出発した。隆信は嫡子政家に有馬討伐を命じたが,有馬家は政家の妻の実家であるために戦いの成果はあがらず、隆信をいらだたせた。業を煮やした隆信は政家に代わって戦うために自ら出陣した。有馬晴信より救援要請を受けて、島津義久は末弟家久を有馬救援軍大将として三〇〇〇余名の精鋭を派遣したが、その中には、隆信に二人の子供を殺された赤星統家の一党が加わっていた。柳川城から駆け付けた鍋島信生は、隆信に対して隆信自らの出陣を思い止まらせようと諫めたが、聞き入れる隆信ではなく、鍋島信生も、やむなくこれに従った。龍造寺隆信は肥前・筑後の軍勢三万余を率いて島原半島北端の神代海岸に上陸、三会村に陣を置いた。二四日早朝、龍造寺隆信軍は進撃を開始、島原の手前,沖田畷で有馬・薩摩連合軍との戦闘が始まり、未の刻(午後二時頃)島津の武将、川上左京之亮忠堅が龍造寺隆信の脛を切り付け、馬から隆信が落ちたところを、右京亮の家来、万膳仲兵衛が首を切り落とした。鍋島信生も残りの兵をまとめて敗走した。

龍造寺隆信の家督は嫡子・政家が継いだが、一五八六年(天正一四)豊臣秀吉の九州平定の時に、肥前一国を安堵された。その後病のために久しく奉公ができずに、また政家の子・長法師(後の髙房)も幼少のために代理ができず、龍造寺隆信一門相談の上、鍋島信生が佐賀藩の国政を預かることとなった。

多久安順より招かれて梶峰城にあがる
 一五八七年(天正一五)九月 賢順五三歳

龍造寺長信は嫡子『安順』に家督を譲り隠居した。安順の時に龍造寺家より分家して『多久家』を興した。この時、龍造寺安順を改名して多久安順と名乗った。安順の時代に鍋島とは別に、肥前多久邑となり安順が初代領主になった。一五八七年(天正一五)九月、龍造寺長信は嫡子・多久安順(二四歳)の妻に鍋島直茂の長女『千鶴姫』(一五歳)を迎え、両家の一層の繁栄と安定を願った。

 隠居した龍造寺長信は一六年前の一五七一年(元亀二)一二月に、多久梶峰城に賢順を招いた時の事をよく覚えていて、嫡子、安順の婚礼のための祝いの演奏を依頼したと考えられる。

佐賀藩藩主・鍋島直茂公の長女『千鶴姫』の婚礼の席での晴れがましい舞台に賢順は招かれて演奏した。箏を弾く者にとってこれ以上の名誉ある舞台があるはずもなく、最上の機会を賢順は与えられた。この多久梶峰城の婚礼での演奏以来、賢順は多久梶峰城の下に屋敷を与えられ住むことになった。うら若い安順の妻『千鶴姫』に、賢順は箏を教授する役目を仰せ付けられた。賢順は自分が理想とした箏の演奏の真摯な取組みとその心の姿勢、箏の技術を伝授した。

賢順は幼くして善導寺に入り、そこで善導寺楽・宗教雅楽に出会い、御仏に捧げられる御経に合わせて演奏する箏の音の響きに喜びを感じていた。『箏管弦』の中で、仏より与えられた命を謳歌し、天空に舞い踊る天女にも似た姿の中に、心の平安と極楽をみる。これが『浄土楽』の神髄であった。御仏の前にある人本来の善の姿を、賢順は箏の音曲で表そうとした。御仏が与えた自然を愛でる心、人を愛する心を箏の調べに託した。

 『諸田系志』は『夫琴瑟、和陰陽之気を感ず、鬼神之霊を与う、天地も同じく曽の心を与う、万物皆の体、自然の音体を生ず』と表現している。賢順の箏に対する純粋な思いは、多久千鶴夫人に受け継がれ、千鶴夫人の実家、鍋島家にも受け継がれ、長く肥前の地に留まり、鍋島家に伝承されていった。賢順の箏に対する純粋な心を一番初めに愛でたのは龍造寺長信であり、長信の賢順に対する尊敬の念を受け継いで賢順を庇護したのは、多久安順と妻・千鶴だった。多久安順は茶道にも造詣が深く、筝曲は茶道にも通じるものと考えられていた。多久家と鍋島家とは、ともに龍造寺家よりの分家であり、元来中国の孔子の礼学思想や儒学を尊重する家風を持っていたが、賢順の箏に対する考え方が、この孔子の思想に近い思考であった。鍋島家の佐嘉統治の根本に儒学思想に基づいた治世思考があり、鍋島直茂も龍造寺長信も当時より、儒学思想に基づいた治世を行い人材の育成に力を入れていた。後の多久四代領主・多久茂文は、一七〇八年(宝永五)多久梶峰城の下に『多久聖廟』を創建した。

ロレンソ了斎の死去
ロレンソ了斎が長崎の修道院で死去した。六六歳。

『毎週必ず修道院の小聖堂へ椅子にすわったまま運ばれて御聖体拝領する習慣があったが、この日、食事の後、あるイルマンとひとりの信者が話している時,用があるからちょっと部屋からでるようにと彼らに言い、いつも彼に仕えているひとりの小者を呼び、起き上がるのを手伝うように頼んだ。ベットに座り小者が腕をかかえた時には、ロレンソは「イエズス」の聖なる名を呼んで、一瞬の間に静かに亡くなったので、小者さえ、彼がこの世を去ったとは気が付かなかった。その後しばらくして、ロレンソが死んでいることに気がつき、外で待っていたイルマンを呼んだ。イルマンは部屋に入ると、そのまますわって小者にかかえられて死んでいるロレンソを見つけた。亡くなったのは1592年2月3日のことであった。家の人もよその人もみんな非常に悲しんで彼を偲んだ。』*Luis Frois S.I.“Apparatos para a Histpria Ecclesiastica do Bispado de Japam”
Biblioteca de Ajuda, Lisboa Codex 49, IV, 57, cap. 35

 『イルマン・ロレンソ、日本人、肥前國出身、六六歳。イエズス会では29年を過ごした。山口で聖パードレ・マエストロ・フランシスコより洗礼を授けられ、同宿として受け入れられた。1563年、コスメ・デ・トーレス神父によって入会を許され、都の地方の主だった信者を導いたり、日本では非常に効果的な布教の活動をしたりして、1592年2月3日、長崎で没した。』*”Monumenta Histrica Japoniae I, Textus Catalogorum”, proposuit Joseph F. Schutte S I. Roma 1975, p.339 

 ロレンソ了斎。懐かしい豊後府内における賢順のもう一人の教師。ロレンソは盲目の琵琶法師であり有名な説教者であった。賢順はロレンソ了斎からキリストの話を聞き、信仰の話を確かに聞いた。ロレンソは賢順にグレゴリオ聖歌の旋律を歌いながら琵琶を教えてくれたし、ロレンソが独自にグレゴリオ聖歌に付けた伴奏も教えてくれた。ロレンソの中で、日本の音楽と西洋の音楽とが出会い混ざり合い、ロレンソの心と感性の中で昇華され純化された時に、ひとつの融合した形となった。それがグレゴリオ聖歌の琵琶での伴奏だった。記念すべきロレンソの伴奏は、キリシタンの宝として残さなくてはならない貴重なものだった。しかし盲目のロレンソにはそれを残すすべがなかった。ロレンソの作った伴奏。それがロレンソにとっても賢順にとっても、どれだけ大切なものかは賢順自身が一番解かっていた。賢順はロレンソから教えてもらったグレゴリオ聖歌の伴奏譜を箏の独奏曲に整えていくこと、後世に残すことが自分の使命だと考えていた。

いつから賢順がグレゴリオ聖歌の伴奏譜であったものを整理して『一二の段物』として残したのかは定かではないが、賢順は秘かにその使命を果たし『一二の段物』を完成させ後世に残した。ロレンソ了斎が作り、諸田賢順が記譜して整えて残した『一二の段物』の真実を、神が神秘のベールで被い守り給うた。

二人の音楽家が巡り合い邂逅した一五五七年以来四六〇年間、神の摂理がこの真実を隠していた。神はなぜ、今、この真実を明かされたのであろうか。

グレゴリオ聖歌の教会旋法は独特の調性を持っているので、箏の調弦で言えば『乃木調子』が一番近く、賢順が初めて『六つの段物』を整えた時は『乃木調子』であったであろうと推測される。乃木調子の音階を、グレゴリオ聖歌の半音の所と同じように変えるだけで、違和感なく双方とも同じ音階(旋法)になり演奏できる。それがいつの時代に、『壱越の平調子』『双調の平調子』に変更されたのかは定かではない。一六一四年に始まったキリシタン禁教令の後の激しい迫害を逃れるために『乃木調子から平調子』に変えたとか、『乃木調子』ではキリシタン音楽と判るために『平調子』に変えたとか推測されている。

 沖縄に伝わっている『六段』は陽旋法であり、一七〇二年に琉球政府が本土の文化の能楽や筝曲を取り入れるために稲峰盛淳を薩摩に派遣している。この時箏の指導をしたのは薩摩藩士・服部清左衛門政真父子。政真は八橋検校の弟子の吉部座頭に学んだと伝えられている。この時伝えられた筝曲がいわゆる琉球筝曲と言われるもので陽旋法の六段等であり『六段菅撹』として現在も残っている。これから考えると、賢順から玄恕、玄恕から八橋検校と伝わった『段物』は八橋検校在世中から次の弟子の時代、おそらく一七〇〇年代初頭くらいまでは陽旋法として伝承されていたのではないかと推測される。保守的で変化を好まない薩摩では徳川時代を通して変わりなく音楽は陽旋法であり続けた。当然、薩摩の支配下にあった琉球でも、音楽は陽旋法であり続けた。

 琉球箏曲は一五五〇年、日本音楽【五音階旋法】とキリスト教音楽【教会旋法】が初めて邂逅した結晶でもある。それも本土では半分が消滅してしまった。

信仰的見地から考えれば、神は一五五〇年に初めて日本に伝わったグレゴリオ聖歌に付けられた伴奏譜を箏曲の中に隠されたのだと思う。四六〇年前の一五五〇年の初めから神は計画されておられた。ロレンソ了斎が諸田賢順に伝えたグレゴリオ聖歌の伴奏譜が、整理され段物に姿を変えて、本土で伝えられた一二の段物の半分が一七〇〇年以後本土ではなくなることを知っておられたが故に、一七〇〇年に琉球王朝に伝え琉球箏曲として一段から七段までを秘曲として琉球王朝に託されたのだと思う。本土では琉球箏曲の一段から七段までは伝えられなくなり消えてしまった。しかし残りの五段から九段まで、一二段が残され伝えられてきた。一二段も一〇段と形を変えてしまい、本当のことが分からなくなってしまったので、もとが一二段だったのか、はじめから一〇段だったのかの論争が起きてしまった。しかし今回元歌だった『主の祈り』の旋律に添って和声的に解釈した結果、もとは一二段の形であったことが分かった。信仰がなければとても信じられる話ではないが、これが箏曲の一二の段物の辿った四六〇年の歴史の真実の姿だと考えている。

 一方、上方の大阪や京、江戸など、三味線が庶民に浸透した都市部では、三味線の影響もあり陰旋法化が進んでいたようで、元禄時代(一六九〇年頃)から宝永,正徳、享保時代(一七二〇年位)を経て陰旋法は定着した。この辺りの時代に『段物』も陰旋法化の影響を受けて『乃木調子から平調子へ変わって行った』と推測される。

第七章 常雲誕生
一五九三年(文禄二) 賢順六〇歳

『諸田氏系図』には『文禄弐年、賢順六〇歳、生常雲』と有り、賢順が六〇歳の時に盛綱、諸田新兵衛弥兵衛(法名清誉常雲)が生まれたと書いてある。系図には三人の系図が書いてあり、常雲は第二子だったことが判る。

第一子、某、諸田蔵人・諸田孫左衛門先祖、
第二子、盛綱、諸田新兵衛弥兵衛トモ云。寛永一五年(一六三八年)寅二月二二日、有馬原城(天草・島原の乱)にて戦死、享年四六歳、法名清誉常雲第三子、某、諸田某

『水江臣記』第二巻七七頁・諸田賢順

諸田弥兵衛
一 某先祖宮部日向守子諸田賢順儀、天理様多久御入場巳後被召寄り
一 右賢順子諸田親兵衛儀、有馬原城ニテ戦死仕り事
一 右新兵衛子某親新兵衛ニテ御座り事

賢順はこの多久に来て、新しい妻を娶ったと思われる。一五七一年一二月に多久に賢順と共に来た豊後で結婚した大友宗麟の奈多夫人の親戚の女性【薦神社大宮司の娘】は、この時にはすでに亡くなっていたのだろう。おそらく、豊後から連れてきた妻の親戚一族は、三根の東津に定住して安定した生活を送っていたと考えられる。賢順が身の回りを世話する侍女だけを連れただけで多久に来ていた。その様な賢順を見かねて、多久安順・千鶴夫妻は賢順に、多久家の女性を世話して嫁がせ、その妻と賢順の間に三人の男子が生まれたと考えられる。

 長子、諸田某は、多久家に武士として奉公して『蔵人』という役職についている。おそらく嫡子は一五八九年か一五九〇年(天正一八)位の生まれであろうと推測される。

 第二子の『常雲』こと『盛綱』は一五九三年(文禄二)生まれ。嫡子と同じく多久家に武士として奉公して、四六歳の時、一六三七年(寛永一四)鍋島軍兵士として『天草・島原の乱』に参戦、寛永一五年(一六三八)寅二月二二日に戦死している。この『盛綱』の系統が賢順の直系の子孫となっている。

 一八一二年(文化九年)多久邑家臣二四五家が差し出した*「多久諸家系図全七冊」第四巻に収録されている『諸田氏系図』(多久市郷土資料館蔵)は賢順没後一八九年後に賢順から八代目の盛綱の直系の子孫・諸田和十によって書かれ、多久邑領主に差し出された記録。

朝廷より筑紫箏『鳳凰』の號を賜る
一六〇五年(慶長一〇)、鍋島直茂の嫡子勝茂と徳川家康の息女との婚礼が京都伏見で執り行われた。徳川家と鍋島家との婚姻の労を取った多久安順千鶴夫妻も婚儀に参加した。この席で鍋島勝茂の実姉である多久千鶴夫人が箏を弾じた。この筝曲が話題となり、千鶴夫人が筑紫箏の名手であることがいつしか後陽成天皇の上聞に達した。後陽成天皇は是非にでも聴きたいと所望され、参内して演奏するように勅命があった。『帝の御前で箏を弾じるのは恐れ多い』と千鶴は辞退した。鍋島家はすでに千鶴が佐嘉に帰国したことにして辞退、その代わりに箏だけをお見せしたいと上奏した。帝は非常に残念がられ、藪大納言に持参した箏を弾かせた。箏の音が非常に素晴らしかったので、その箏に『鳳凰』という名称を与えたと伝えられている。

後陽成天皇の在位は一五八六年一二月一七日~一六一一年五月九日。 後陽成天皇の第八皇子が良純法親王(一六〇三~一六六九年)で、賢順の弟子,玄恕が江戸に出た時に良純法親王に出会い親しくなり、良純法親王が都に戻る時に共に都に行き、後陽成院の前で御前演奏をして感動させている。

『鳳凰』と名付けられたその琴は、今も現存していて多久市歴史民俗資料館に保存されている。

『立葵蒔絵螺鈿箏・鳳凰』
全長一六一cm、幅竜頭二一・五cm、竜尾一九・五cm。天正五年(一五七七年)霜月一八日の墨書銘がある。

『伝賢順作箏』 (多久市郷土資料館蔵)
箏の内部に『干時天正十一年十月廿七日作者賢順斎卅七歳/寛永十一年歳作なわす/河副庄北古賀金左衛門尉』と書いてある。天正一一年一〇月二七日・一五八三年、賢順が三七歳の時、制作した箏で、一六三四年(寛永一一年)河副庄北古賀金衛門伊尉が修復したことが判る。

 本箏の銘文により、今泉千秋(一八〇九~一九〇〇年)は、賢順の生没年が『諸田氏系図』等に記載の天文三年(一五三四年)生まれではなく、天文一六年(一五四七年)と考えて、父・今泉千春著『松響閣箏話』等を含めすべて訂正した。付属の掛軸は、銘文の写しの横に、賢順の生没年についての訂正とも解釈できる書き込みがある。
 天文三年(一五三四年)説では、天正一一年(一五八三年)は、賢順四九歳の時の箏の作成となる。

【推論】
天文一六年~寛永一三年(一五四七年~一六三六年)説は、『伝賢順作箏』(多久市郷土資料館蔵)箏の内部に『干時天正十一年十月廿七日作者賢順斎卅七歳/寛永十一年歳作なわす/河副庄北古賀金左衛門尉』と書いてある銘文に由来して今泉千秋が一八九三年(明治二六年)以降提唱し始めた。

 天正一一年一〇月二七日・一五八三年、賢順が三七歳の時、制作した箏で、一六三四年(寛永一一年)河副庄北古賀金衛門伊尉が修復したことが判る。本箏の銘文により、今泉千秋(一八〇九~一九〇〇年)は、一八九三年(明治二六年)二月、今泉千秋の弟子であった裁判官・松井通照が東京に公務で訪れた際、村田豊作氏宅にあった本箏を見つけ入手して、今泉千秋のもとに持ってきて以後、賢順の生没年が『諸田氏系図』等に記載の天文三年(一五三四年)生まれではなく、天文一六年(一五四七年)と考えて、父・今泉千春著『松響閣箏話』等を含めすべて訂正した。付属の掛軸は、銘文の写しの横に、賢順の生没年についての訂正とも解釈できる書き込みがある。

つまり、天文一六年~寛永一三年(一五四七年~一六三六年)説は、『伝賢順作箏』内部の銘文、一五八三年(天正一一年)賢順三七歳から、九〇歳没を一六三六年、誕生を一五四七年と割り出したものである。従って、『諸田賢順の系図』において歴史的に確定している事実に照らし合わせた場合、天文一六年~寛永一三年説は多くの歴史的事実との矛盾を指摘できるので、問題点の多さを露呈している。

天文三年(一五三四年)説では、天正一一年(一五八三年)は賢順四九歳の時の箏の作成となる。

補遺 玄恕のこと
玄恕の誕生と賢順の許での修行
 一六〇八年(慶長一三) 賢順七四歳

賢順の弟子と言われている玄恕は、俗名を『宮部典譽』と言い佐嘉で生まれた。玄恕が『宮部氏』ならば賢順の係累に属する。賢順の弟たちの孫か従兄弟の孫の世代に属すると玄恕の誕生年から推定される。佐嘉で生まれたとなれば当然、宮部郷の親戚は賢順を頼って三根の東津に来ているので、玄恕は三根の東津に生まれたはずである。玄恕がいつ頃から賢順のもとで箏の修行に入ったか定かではないが、賢順が善導寺に入ったと同じ七歳の年(一六一五年・元和元)頃から多久の賢順(八一歳)のもとで修業したと考えられる。賢順が多久領主の妻『千鶴夫人』以外に、玄恕に箏を教えたのは、宮部の血縁関係があったからであろう。賢順は孫のように若く幼い玄恕を可愛がり愛した。玄恕は賢順の家に住んで、寝起きを共にして賢順から箏を学んだ。賢順は箏を教える時には一人の教授として玄恕に厳しく教えたであろうことは事実であろう。『賢順、弟子、玄恕なる者を得』と『諸田系志』に書いてある。

【重要問題点】
賢順は玄恕に段物を伝えた時、段物がキリシタン聖歌の伴奏曲だと伝えたか?

賢順が五三歳の時、一五八七年(天正一五)、多久安順より多久に招かれて、安順の妻『千鶴姫』に箏を教授する役目を仰せつかり、多久梶峰城の下に屋敷が与えられ住むことになった。

しかし、時代はキリシタン禁教に向かって徐々に進み始め、キリシタン信仰の故に殉教する人達が増えてきた。これらの殉教報告を受けて、賢順はロレンソ了斎から学んだグレゴリオ聖歌の伴奏譜の取り扱いをどの様に考えただろうか?

一五九七年二月五日、長崎西坂、二六聖人が磔に掛かり殉教
一六〇三年一二月、熊本八代、六人殉教
一六〇五年八月、山口、二人殉教
一六〇九年二月、熊本八代、四人殉教、一一月、長崎生月、三人殉教、
一六一二年八月六日、江戸幕府がキリスト教禁令を発する
一六一三年一〇月、島原有馬、八人殉教、一二月二三日、伴天連追放令を発布
一六一四年一〇月、多くの宣教師、髙山右近等、マカオ、マニラに追放、
一六一九年一〇月、京都、五二人殉教(京都の大殉教)
一六二二年八月、 長崎西坂、五五名殉教(元和の大殉教)

【推論】
上記の殉教報告は代表的事例だけだが、これらの殉教報告を聞いた賢順は、ロレンソ了斎から自分の受け継いだ音楽がキリシタンと深く関係していることを知っているが故に、玄恕に段物の本当の意味を知らせることは、幼い玄恕にとって命を危険にさらせることになる故に、十二の段物と言う音楽の形だけを継承させたと考えられる。賢順はこの時までに、すでに十二の全ての段物の形を完成させていたと考えられる。

諸田賢順斎、多久の地に没す
一六二三年(元和九)七月一三日 賢順九〇歳
『元和九年、癸亥の年の七月一三日卒。享年九○。法名賢順養晋』と『諸田系志』『諸田氏系図』に書かれている。また多久市北多久町大字小侍三三九・一、諸田稔氏所持の『諸田賢順位牌』にも表『賢順養普庵主』裏『元和九年癸亥七月十三日 享年九十』とある。

【伝承】
諸田賢順は多久安順より拝領していた領地『浦山』に葬られた。現在の多久市北多久町小侍にある賢順の墓は『浦山』より移されたと言われている。いつの時代に浦山から改葬されたのか時期は不明。『浦山』は昔の地名で、現在の地名は『筑紫山地』、多久方面から唐津方面に向かう県道二〇三号線、JR唐津線の山本駅の手前のバスの停留所『筑紫山地』が昭和三〇年代まで『浦山』という地名で呼ばれていた。(諸田家伝承・小郡市・石井浩子様情報)

*多久市郷土資料館学芸員,志佐喜栄様よりの修正情報
『賢順が領主・多久安順から拝領していた領地『浦山』は多久市にも『浦山』と言う地名があります。しかし、実際に賢順が領地としていて最初の葬られた場所と伝わっているのは『内浦』という所です。『内浦は、現在の墓地より南側の場所で現在の観音山入口周辺です』『唐津線山本駅手前の場所・浦山は、当時龍造寺(多久家)の勢力が及んでない他藩の領地であり、賢順がこの地を領地として与えられたという可能性は低いと思われます』

玄恕についてのその後
 賢順が九〇歳で没した一六二三年(元和九)七月一三日、玄恕はまだ一五歳。当代きっての稀有の箏の大家、筑紫箏の創始者、諸田賢順斎が亡くなったので玄恕は教えてくれる人を失ってしまった。賢順を失った後、それから玄恕は佐嘉の南里の正定寺に入ったのではないかと推測される。玄恕が正定寺に入ったときまでに、玄恕は賢順からすでに七,八年は箏の指導を受けていて、賢順から十二の段物すべてを受け継ぎ、玄恕の腕前は相当な水準にまで達していたと考えられる。

玄恕についての新しい記述
『正定寺由緒録』から判明した玄恕に関しての新しい記述。
*正定寺第一六世団譽上人の優秀な門下の内,龍・應・典・頂(龍誉・應誉・典譽・頂譽)の四人に数えられ,経蓮社典譽と称号した。

*玄恕は天性学問を好み、国内外の経典に通じていた。暇があると箏瑟を愛し、諸田賢遵(賢順のことと思われる)に琴を学んだ。

*賢順から禁中の秘曲を、底を叩いて学び妙手になった。

*玄恕の調べは高く,至妙の処を得て、琴を好む者は皆、玄恕の門下になった。

*玄恕は関東のゆかりのある三寺に遊学して音楽は大成された。

*八ノ宮良純法親王(第一〇七代後陽成天皇の第八皇子・母庭田具子)に召され、箏についての質問に対して筑紫流の秘事を答えた。

*良純法親王は大変喜び玄恕を指南として、入洛の供をさせ帝に伝えた。

*玄恕は勅命により参内して箏を弾じた。帝は感極まって玄恕に上人の位と名琴を与えた。 『上人位及び名琴,弥陀尊像一躰を賜う』

*第一〇八代後水尾天皇(後陽成天皇の第三皇子、良純法親王の異母兄)の在位は、一六一一年(慶長一六)~一六二八年(寛永五)の一八年間

*玄恕には阿弥陀様の気風があると、堂上堂下、感服してもっと早くから聴いていたかったと残念に思った。

*これにより玄恕の名前は京都では有名になり後の世の人が筑流という時は玄恕を開祖とした。

*玄恕が帰国後,浄土宗同門が相儀して玄恕を肥前諫早の慶巖寺(現・長崎県諫早市城見町一五・一九)の住職とした。一六三〇年(寛永七)一二月二六日、慶巖寺住職に就任・玄恕二二歳。

慶巖寺縁記
慶巖寺縁記によると、文禄年間(一五九二~一五九五年)頃、筑前博多の西方寺に住んでいた礫道済蓮社九誉と号する僧が伊佐早(諫早)に来て、現在の原口町泉野にお寺を創建してこれを『常楽寺』と呼んだ。諫早領主第二代竜造寺岩見守直孝の室(夫人)慶巖院の志願によって寺号を慶巖寺と改め、一六〇五年(慶長一〇)今の城見町岩小屋に改築移転した。領主竜造寺岩見守直孝はこの慶巖寺を領主の帰依寺と定めて、霊屋廟所を設けた。諫早の慶巖寺は創建一六〇五年(慶長一〇)九品院常楽山慶巖寺と称する。浄土宗の御教義相続、念仏の道場として星霜を重ね、江戸芝の増上寺末寺(九州に於いては非常に稀)に属し、肥前國の浄土宗僧侶養成道場の位を持って往時から多くの人材を送り出していた。

第三代住職,龍誉上人は佐嘉南里正定寺の出身で一六一六年(元和二)三月一三日に慶巖寺住職になり、一六三〇年(寛永七)一二月二六日に退院した。龍誉上人が退院するに当たり、玄恕上人の京都での活躍や、帝の前での演奏、帝より上人の位を送られたこと等を栄誉として、正定寺の弟弟子にあたる玄恕上人を推挙して慶嚴寺に迎えたと考えられる。

*慶巖寺過去帳によると初代住職から四代目住職の在職期間は下記の通り。

創建一六〇五年(慶長一〇)九品院常楽山慶巖寺と称する。
初代、一六〇八年(慶長一三)一二月一五日~一六一六年(元和二)三月一三日  開山・九誉上人
二代、一六一六年(元和二)三月一三日~一六三〇年(寛永七)一二月二六日 龍誉上人
三代、一六三〇年(寛永七)一二月二六日~一六四九年(慶安二)一一月一一日 玄恕上人
四代、一六四九年(慶安二)一一月一一日~一六八九年(元禄二)三月三日

慶巖寺過去帳によると、玄恕の慶巖寺住職在位は一六三〇年(寛永七)~一六四九年(慶安二)一一月一一日、玄恕が佐嘉南里善興寺に於いての死去日までの一九年間であり、この過去帳によれば玄恕は慶巖寺第三代住職ということになる。玄恕は、通説によれば慶巖寺第四代住職と言われているが、果たしてどちらが正しいのであろうか?

*玄恕は慶安二年(一六四九年)の夏、病になり故郷の南里の浄土宗善興寺(現・佐賀市川副町南里一六四七)で療養した。薬を数ヶ月飲んだがまったく効き目がなく自ら死を予期して仏を称えながら、同年一一月一一日、四二歳で没した。玄恕の墓は長崎県諫早市城見一五・一九、慶巖寺本堂前、左側の住職墓地にあり、正面三基の右側が玄恕の墓。経年劣化のために墓碑に書いてある文字は判読不明。

玄恕略伝
一六〇八年(慶長一三)誕生
賢順の弟子と言われている玄恕は、俗名を『宮部典譽』と言い佐嘉で生まれた。玄恕が『宮部氏』ならば賢順の係累に属する。賢順の弟たちか従兄弟の孫の世代に属するであろうと推定される。佐嘉で生まれたとなれば当然、宮部郷の親戚は賢順を頼って三根の東津に来ているので、玄恕は三根の東津に生まれた。賢順七四歳

一六一五年(元和元)頃
賢順が善導寺に入ったと同じ七歳の年(一六一五年・元和元)頃から多久の賢順(八一歳)のもとで修業したと考えられる。賢順が多久領主の妻『千鶴夫人』以外に、玄恕に箏を教えたのは、宮部の血縁関係があったからと推測される。

一六二三年(元和九)玄恕一五歳
諸田賢順が九〇歳で没した一六二三年(元和九 )七月一三日、玄恕はまだ一五歳。当代きっての稀有の箏の大家、筑紫箏の創始者、諸田賢順斎が亡くなったので玄恕は教えてくれる人を失ってしまった。賢順を失った後、それから玄恕は佐嘉の南里の正定寺に入ったと推測される。

正定寺第一六世団譽上人の優秀な門下の内,龍・應・典・頂(龍誉・應誉・典譽・頂譽)の四人に数えられ,経蓮社典譽と称号した。

玄恕の箏の調べは格調高く,至妙の処を得て、琴を好む者は皆、玄恕の門下になった。

一六二五年(寛永二)頃、玄恕一七歳
玄恕は江戸芝の増上寺へ伝宗伝戒の為、上京した。芝増上寺で後陽成天皇の第八皇子・良純法親王(知恩院門跡と出会い、八ノ宮良純法親王(第一〇七代後陽成天皇の第八皇子・母庭田具子)に召され、箏についての質問に対して筑紫流の秘事を答えた。良純法親王(一六〇三年生まれ、二二歳)は大変喜び玄恕を指南として、筑紫箏の奥義を学んだ。

良純法親王について
 良純法親王は一六〇三年(慶長八)生まれ。第一〇七代後陽成天皇の第八皇子・母は庭田具子。一六一五年六月二八日、良純法親王は徳川家康の猶子となった。

 徳川家康の死去(一六一六年・元和二,四月一七日)後、家康は日光東照宮に東照大権現として祀られた。そこで、良純法親王は徳川家の催事のために度々関東・江戸に下向することになった。勅使や公家達だけでなく、良純法親王も日光へ法要のために参会した。

一六二五年(寛永二)五月、知恩院門跡良純法親王関東下向。
一六二六年(寛永三)九月、後水尾天皇二条城行幸。良純法親王も京都に上洛。
一六二七年(寛永四)九月、知恩院門跡良純法親王関東下向。
一六二八年(寛永五)五月、日光にて東照大権現一三回忌。
五月一〇日、知恩院門跡良純法親王、日光山御神会にて上香。

特に一六二八年(寛永五年)の東照大権現一三回忌、一六三二年(寛永九年)の第一七回忌法要は脤々しく挙行された。一六三二年(寛永九年)一月二四日に第二代目将軍・徳川秀忠が死去したため、第三代将軍・徳川家光は日光には参詣したが、父・秀忠の喪に服して参宮しなかった。家光の江戸帰着後、門跡,公家,公卿たちが日光に参着、良純法親王も参宮している。

一六二六年(寛永三)頃、玄恕一八歳
良純法親王は玄恕の箏を大変気に入り、自分の父・後陽成天皇(第一〇七代・在位一五八六年~一六一一年)と異母兄・後水尾天皇(第一〇八代・在位一六一一年~一六二九年)に玄恕の箏の演奏を聴かせるために入洛の供をさせ帝に推挙した。

 玄恕が筑紫箏の名手であることを、良純法親王は、父・後陽成天皇と異母兄・後水尾天皇に上奏した。後陽成天皇と後水尾天皇は是非にでも聴きたいと所望され、参内して演奏するように勅命があった。玄恕は参内して帝の御前で演奏して大変素晴らしいとお褒めの言葉を頂いた。

『天聴叡感に達し、玄恕の箏を筑紫箏と呼ばれた』また玄恕に『上人位及び名琴と弥陀尊像一躰を賜う』た。帝は『玄恕には阿弥陀様の気風があると、堂上堂下、感服してもっと早くから聴いていたかった』と残念に思われた。

 玄恕の帝の前での御前演奏の高名を京都の公家たちや箏の愛好者たちが聴き、玄恕の名前は京都で有名になり後の世の人が筑紫流箏という時は玄恕を開祖とした。多くの人々が玄恕の筑紫箏を習いに玄恕の元を訪れた。この後約四年間一六二九年~一六三〇年まで、玄恕は京都に住んで多くの公家たちに箏を教授している。この京都在住の間、良純法親王と共に再度関東に行ったのかどうかは不明。

一六三〇年(寛永七)玄恕二二歳
玄恕が肥前へ帰国後,浄土宗同門が相儀して、慶巖寺第三代住職,龍誉上人(佐嘉南里正定寺の出身)一六三〇年(寛永七)一二月二六日に退院するに当たり、玄恕上人の京都での活躍や、帝の前での演奏、帝より上人の位を送られたこと等を栄誉として、正定寺の弟弟子にあたる玄恕上人を推挙して慶嚴寺に迎え、玄恕を肥前諫早の慶巖寺(現・長崎県諫早市城見町一五・一九)の住職とした。
一六三〇年(寛永七)一二月二六日、慶巖寺第四代住職に就任・玄恕二二歳。

一六三六年頃(寛永一三)玄恕二八歳
八橋検校(一六一四年~一六八五年六月一二日)(二二歳)が最初の上洛をはたし匂当の位を得ている。その後、筑紫箏の奥義を極めたいと、肥前国諫早の慶巖寺住職であった玄恕を訪ねて弟子入りしている。

一六三九年頃(寛永一六)玄恕三一歳
八橋検校(二五歳)再度上洛して,当道における最高官位『検校』に任ぜられ,上永検校城談と称した。その後、名を『八橋』と改めている。八橋検校の生涯そのものも幾多の不明な点が多くあるので、確定的なことは言えないが、八橋検校が肥前國諫早に来て玄恕に師事した期間は、八橋検校の生涯記録から割り出すと一六三六年~一六三九年頃までの三年間余りと考えられる。

一六四一年(寛永一八)玄恕三三歳
この頃筑紫箏は法要に用いられて、晴れ雨を祈り、神明仏陀を祀るにあたって弾ぜられていた。玄恕は箏の奥旨を超譽に伝えた。

超誉は南里・正定寺第二一代住職で、九蓮社と称し徳応とも言った。一六三九年(寛永一六 )一三歳で剃髪して一六四一年(寛永一八 )一五歳で肥前國諫早の慶巖寺に来て玄恕から筑紫箏の伝授を受けた。超誉はその後、大運寺,浄円寺を経て浄林寺の開基となったが、一七一五年(正徳五 )八九歳で没した。また、超誉は法要のための声明音楽が衰えるのを嘆いて僧徒の勉励を勧めて、その振興に功績を残した。

超誉の孫弟子の予賀浄土寺の厭譽が筑紫箏を継承していく。厭譽は一七五八年(宝暦八 )に死去。

玄恕の伝えた筑紫箏は、超誉、厭譽と継承され、佐嘉南里川副郷の正定寺を中心にして一時期、大いに栄えた。その後変遷しながら現代に伝承され、筑紫箏は楽箏(雅楽)と俗箏(生田流・山田流)との分岐を経て、現代まで継承されている。

一六四九年(慶安二)一一月一一日、玄恕四二歳
玄恕は慶安二年(一六四九年)の夏、病になり故郷の南里に戻り、浄土宗善興寺(現・佐賀市川副町南里一六四七 )で治療療養した。薬を数ヵ月飲んだがまったく効き目がなく自ら死を予期して仏を称えながら、同年一一月一一日、四二歳で没した。

玄恕の墓は長崎県諫早市城見一五・一九、慶巖寺本堂前、左側の住職墓地にあり、正面三基の右側が玄恕の墓。経年劣化のために墓碑に書いてある文字は判読不明。




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