後藤是山氏の「細川興秋研究」九州日日新聞 大正15年(1926)9月15日~18日「細川忠利の兄」について


後藤是山著 九州日日新聞 大正15年(1926)9月15日(水曜日)細川忠利の兄 記事

後藤是山氏の「細川興秋研究」について 

後藤是山著 九州日日新聞 大正15年(1926)9月15日(水曜日)
細川忠利の兄 1 

忠興  忠隆
    称長岡 熊千代 羽柴興一郎 従五位下 侍従
    剃髪 長岡休無。天正八年(1580)庚辰四月二十七日生 干青龍寺
    正保三年(1646)内戌八月朔 卒干京都 年六十七
    號 泰仰院瑞岩宗禅 髙桐院 母正室 男爵 細川忠雄祖

    興秋
    称長岡 興五郎 忠似 忠吉
    天正十一年(1583)癸未生 後脱走後 初□
    細川玄蕃頭養子 後解消
    大坂陣陥落後 元和元年(1615)乙卯六月六日自殺
    號 黄梅院真月宗心 母同上

    忠利
    初長岡 光 千代 内記 越中守卅
    侍従五位下 左少将四位下 天正十四年(1586)内戌十月十一日
    丹後誕生
    寛永十八年(1641)辛巳三月十七日卒 干熊本 年五十六
    號 妙解院台雲宗悟大居士 葬干 泰勝寺    

こは細川氏系便覧より摘録せるところであるが、三斎細川忠興譜に記せるが如く元和元年(1615)大坂城の没落と同時に、卅有三歳(33)を一期として、果たして山城の稲荷東林院に自殺したものであろうか。私は天草郡一町田村なる長岡養四郎氏秘蔵の系譜、伝来の刀剣及び持仏,同郡御領村なる芳證寺に存する過去帳及び興秋の墓碑等より考察して、興秋の自殺に対し、一個の疑問を有しているのである。 

この天草の長岡家系譜には明和(1764~1771)の頃、長岡五郎左衛門興道に依って書かれたもので、興道は父祖の言い継ぎ語りつとしてきたのを文字に綴り、それを興道一個の解説と思わるる章句も交えているので、疑うものは斯の系譜を世々大庄屋であった興道の家が、彼に至って、初めて苗字を許されたので、其の際彼は家門の歴史的光輝を添えんが為に、長岡興秋を我家の始祖の如く装飾したもので全く一の虚偽に過ぎずと為しいる。されど具(つぶさ)に、この系譜を検し、来れば,元和寛永を距(く)る百七八十年後の享和に至って虚編せるものとしては、受取がたい節々も少なからずあり、且つ刀剣及び持仏などと対照し来れば、この系譜は細川氏の系譜に対して、少なくても一種の疑団を投ずるに十分であると思わるるのである。(未完) 


後藤是山著 九州日日新聞 大正15年(1926)9月16日(木曜日)
細川忠利の兄 2

天草の長岡氏系譜
細川興五郎源興秋入道宗専公
法名 長興寺殿慈徳宗専大居士
寛永十九年(1641)壬午六月十五日薧去

 •         一家伝曰く。右宗専様御事 大坂より御浪人被成候而(しかして)、尾州春日郡小田井村に暫く忍び被成、夫より直ちに肥後圀天草郡御領村に御居住被成候て,宗専様と奉申し候由。右勤而、安に元和元年(1615)六月六日、忠興公より松井右近に被仰せ付け、山城圀稲荷の東林寺に而興秋公を切腹被仰せ付け候時分、忠興公御意候は,多田の満仲御子に美女丸と申有之候を、其の美女丸悪行を為し申し候より、父満仲公より美女丸の首を討ち候様に、其の乳父仲光に被仰せ付け候處,仲光其の子を以而。右之美女丸の身代わりとなし申したる事を御出被成候而、総て見事なる金洊の太刀を右近に被下し候て、此の太刀にて興五郎の首を討ち候へとて、右近心得候而、興五郎様を御切腹の態にてなし、右の通り遁し奉りしなるべし。

(中略)

 •         御法名を宗専様と奉称し事は忠興公後には三斎宗立様と奉申し候さればその宗の字を御取り被成候て、宗専様と奉申しなるべし。

•         宗専様御病気にて御大切に相見候時分被仰せ候は、我等は細川三斎二男にて候へども、様子有之、親より勘気を請候而て、如此世を忍能在候ゆえ、当時迄苗字をも名乗不申、其方ともへも不申聞候。右之通り故、此以後とても長岡、細川の苗字など決而して、名乗り不申候様、相心得可申し候。又我等平日着用いたし候九曜の紋,亦(また)丸に内の二つ引き両の紋付候事も、必遠慮すへしと、堅比仰聞置候而、御薨去被成候旨、申伝え候事。

   大庄屋初代
•         中村五郎左衛門興季(おきすえ)
   幼名 興吉

母は天草郡伊佐津村金濱城主関主水女なり。右主水は立家彦之進と申候ものなり、若年の時分数度の軍功有之者のよし、寺沢志摩守の手に属し名を出したる武士なり.元和年中(1615)大坂へ出陣いたし終に不帰候に付き、其の女を家来の中村半太夫養育いたしてゐたりしを宗専様被召寄り、妾と被成候て一男子を産ませ給う。即ち興吉と名を御附け被成候、成長之後興季(おきすえ)と名乗り申し候。

(中略)

右家伝は宗専様、尾州より被召連れ候家来両人有之候。一人は渡邊九郎兵衛、長野幾右衛門、御供いたし天草へ罷下候旨。右の九郎兵衛の子を半四郎と申し候。其の子を渡邊利兵衛と申し候。七十余歳まで存生にて、興道へ出し申し候儀を書記し候也。

 

•         宗専様以来持傳申候品
刀    一腰    無銘
茶釜一つ       焼失仕候
家康公御状      焼失仕候
秀忠公御状      是も焼失
家光公御状

右三状ともに御文言なし。月日附き御名判迄にして当所なし。
内御状三通並びに茶釜共興道迄所持罷在候と相見候。
其の外持傳遺品等有之候由ノところ興道代迄数度の出火有之、其砌焼失イタシ候哉。

当時迄相残り有る品を左に記す。
 無銘刀          一腰
 天國鈒(てんくに)懐剣  一振
 ひかけ(檜垣)けしょう(化粧)箱 一つ  但金紋九曜

後藤是山著 九州日日新聞 大正15年(1926)9月17日(金曜日)
細川忠利の兄 3

然るに現在長岡家に伝えられている物は
無銘刀   一振
在銘刀   一振
刀  銘有 泉守藤原国貞
厨子入観音像
同  不動尊
香炉    一基
懐剣    一口

 等であるが、不動尊、香炉、懐剣は、故あって他に保存されているために、私は遂に一見する機会を得なかった。又、金紋九曜の「ひかけ化粧箱」は今春、長岡養四郎氏が自ら携えて上京し、細川侯爵家に保留されてあるので、これも私は見ることを得なかった。其物のものは総て現に長岡氏の手許にあるもので、観音像は漆塗りの厨子の高さ一寸八分、巾六分,像の高さ一寸二分、像背に「景清」と刻まれている。兜の鉢に納められて戦場の守護仏とされたものである。長岡氏の語るところでは、不動尊も高さ殆ど観音像と同様のものであるとのことである。刀工和泉守藤原国貞は寛永時代(1624~1644)に於ける名工で、大坂正宗の稱ある眞改の父である。 

次に芳證寺の過去帳に就いて見れば十五日の面に
慈徳院殿宗専大居士 寛永十九年壬午六月 大庄屋開祖
月山妙雲大師 寛永十一乙亥七月 大庄屋元祖宗専大居士妾

と有り、長岡家に伝わる過去帳も又ほぼ同様である。但だ芳證寺の過去帳には「慈徳院殿宗専大居士」とあって、右側に「長興寺殿慈徳宗専」と書き込まれているが、長岡家のものは過去帳、系譜、及び墓石「享和二年(1802)建立」ともに「長興寺殿慈徳宗専大居士」と一様に記されている。

説を為す者は言う。長興寺は享和以前、古く(年代は詳にせぬ)天草の御領にあった寺で、享和の頃には既に廃退して僅かに寺名のみ存していたのであるが、時の大庄屋長岡五郎衛門興道は、自己の始祖「慈徳宗専」を長興寺の開基の如く捏造し、みだりに長興寺殿の文字を用ふるに至り,以て時代の修飾を為すに腐心したのであって、細川興秋と慈徳宗専とは、全然何等の交渉も関係も無き虚為の筋書きであると。けれども単にそれだけの憶説を以手、之を虚偽の筋書きとしてしまうには、長岡氏系譜の家伝の一部や渡辺九郎兵衛、長野幾右衛門の一項などは余りによく事実を語っているようであり、又切腹の體(てい)にもてなして遁れしめたということも、関主水の女(むすめ)である「月山妙雲大姉」とのことも、大坂陣前後の時代としては,如何にも有り得るべき当然の術策であり運命である。(未完)

 備考 多田系(廣文庫) 満中の三男源珍、童名美女丸十八出家、丹波に甘祖、彗心僧都弟子、歐人、*後拾遺(後捨遺和歌集)作者,寛和四年六月十八日入寂、行年四十四。

 *後拾遺(後拾遺和歌集)、撰者は藤原通俊。承保2年(1075年)奉勅、応徳3年(1086年)9月16日完成。同年10月奏覧された。20巻、総歌数1218首が収められている。

 構成は『古今和歌集』を基として、春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、賀、別、羇旅、哀傷、恋(4巻)、雑(6巻)からなる。巻20(雑歌6)に納める。「神秖」「釈教」の分類は勅撰集における初見。撰歌範囲は『古今集』『後撰集』以後、村上朝から白河朝までの約130年間である。

 
後藤是山著 九州日日新聞 大正15年(1926)9月18日(土曜日)
細川忠利の兄 4

けれどもそれを似て直ちに細川氏系譜便覧の興秋自殺の記載を抹殺し、天草に於ける慈徳宗専居士を長岡興秋なりと断定することは如何であろうか.狩野家の先祖附は興秋自殺に就いて、ひとつの有力な資料を残している。狩野家は細川藩に於ける狩野派の総講を似て立った家であるが、其の祖窪田五郎秋則(初め三輪善助秀柴と称す)は、長岡興秋の守役を務め、関ヶ原の役、大坂の陣にも従って武勲を樹てた者である。然るにこの狩野家先祖附けの秋則の件(くだり)の中に興秋の自殺の前後の事が細やかに記されている。 

狩野家先祖之覚
前略
•          同十九年(慶長)大坂御陣出来仕、興五郎様籠城之節御供申上、落居以後者、後家来中も大方ちりじりに相成、興五郎様も一旦御城を被為開、稲荷山東林院に暫御忍被、宗斎(秋則の入道後、興秋の命名するところ也)も罷出、稲荷橋邊に忍?に御介抱申上居候處、不依存六月六日御生害被遊候付、御遺骸を稲荷山之南谷に奉埋葬.自身は京都狩野之厨子と申候に付き,此方に親類共居申候に付、此方に頼寄り申候。右親類之旦那寺清蔵(不明)所に、貝足山妙覚寺と申候に、御位牌を建て置き、朝暮参拝仕候。其の後右旦那寺において、黄梅院様御三回御法会、乍憚寸志に相勤、辞世書き置仕、子孫之内、何と存在御家に再勤仕候様にと申置き、愁傷之餘、御位牌前に而(しかして)自殺仕候。御生害の節、御つづら之内御入組之御道具目録等、宗斎手跡にて干今所持仕候。併せ其此の者奉対、将軍家、大坂方の者は、末葉たり共顕仕候儀、以之外趣に付、何事も殊之外穏便に仕、右之一件とても、御圀え被召し候以後迄も,堅く秘置申し候而、漸養父狩野芳仙時分(正徳1711~1715の頃)より、先祖譜にも少々書き顕申し候事に御座候。
―以下略―
 

乃(すなわ)ち、狩野家の先祖附けによれば、興秋は大坂の陣に敗れて後、しばらくは伏見の稲荷橋付近に忍んで居たが、六月六日遂に切腹したので遺骸は稲荷山の南の谷に葬られたことまで明らかにされ、且つ興秋の遺品である道具、目録等は狩野家に伝来されていることをも附記されている。殊にまた宗斎が興秋の切腹後三年にして,愁傷の余り自殺した一事は興秋の切腹の虚偽の作偽となすには,余りにも痛ましい筋書きである。其の他、藩譜採要には、興秋生害の有様が殊勝であったので、皆々涙に暮れたとも記されている。 

 されど「長岡越中守忠興行状」中の「元和元年(1615)七月朔日、大坂軍功懸賞」の件に、忠興は大坂再起して家康進発の報に接し、三男忠利をして陸路より押し上らしめ、自らは松井右近等数名と、近習四百人、弓鉄砲六百人を率いて海路より駆け上り、松井右近は殊勲に依って知行五百石を賜ったことが記されて居るから、当時の松井右近が忠興に於ける信任は略ぼ、察することができる.従って忠興が二男興秋の一身を処理する際にも,一切を松井右近の胸中に秘めさせて、秘かに興秋を遁れしめたことが全く想像されぬことでもない。狩野家の先祖附に『不依存六月六日御生害』とあるに見れば、狩野宗斎に取って興秋生害のことは、実に予期せざる意外の出来事であったのである。是れ或いは、忠興及び松井右近が、徳川家に対しては勿論(もちろん)、興秋の家臣の者に対しても,飽くまで興秋の生害を真実らしく伝えんとした苦哀の存するところを、言外に語るものであるかも知れない。 

之を要するに、興秋自殺説も、興秋の慈徳宗専居士説も、両(ふた)つながら、一個の疑問として尚十分研究の余地がある。細川家に於いては、現在興秋の位牌を如何にされているか、又その遺骸を葬ったという稲荷山の南の谷の墓所を如何に取り扱はれているか、或いは興秋の関する如何なる記録が残されているか、私は全然しるところが無い。天草の長岡氏の資料にすれば、興秋は忠利の熊本に死後一年、寛永十九年(1642)六十歳にして、天草に其の生を終えられたことになっているが、若しこれを、真実をすれば、寛永九年(1632)忠利の熊本入国後、十八年に至る約十年間、忠利と興秋とは互いに相知るところ無く、相通じるところなく終わったのであろうか。

これをひとつの戯曲として描くならば、波乱あり曲折あり,極めて興味に富む史劇として取り扱い得るであろうが、これを史実として断案を下すには私の研究は今だ、余りに祖策である。(完) 

*後藤是山著 九州日日新聞 大正15年(1926)9月15日(水曜日)
細川忠利の兄 1~4、原版をお読みになりたい方、入手したい方は、熊本日日新聞社・データベース部へ連絡して申し込み下さい。
☎ 096・361・3201 Fax 096・361・3204 

*熊本県立図書館の閲覧室において、過去の九州日日新聞の記事がマイクロフィルムにより保管されています。閲覧も可能ですし、上記の記事をコピーしてもらえます。
熊本県立図書館・情報支援課・支援2班 
☎ 096・384・5000 Fax 096・385・2983 

今年は2023年(令和5)であるから、97年前の1926年(大正15年)に、天草の伝承「細川興秋・天草生存説」をこれだけ明細に調査され記事にされていた後藤是山氏の研究にただ驚いている。あの当時、天草へ調査に行くだけでも大変な苦労をされたであろう。天草の本渡へ船で渡り、舗装もされていない道を河内浦一町田益田の長岡養四郎様を訪ねて聞き取り調査をされている。また五和町御領の芳證寺を訪ねて第18世・村上泰重住職(昭和18年歿)から、興秋公に関しての芳證寺との関わりについての詳しい話を伺って記事にしている。芳證寺の過去帳も調査して、興秋の戒名等も調べている。

天草五和町御領 芳證寺本堂  撮影・原田譲治

97年前の聞き取り調査で判っている興秋公の遺品に中には、すでに行方不明な物も多々あり、現在行方不明品を探す大事な手掛かりとなっている。後藤是山氏の残された新聞記事の情報は現在まで役に立っている。先達者である後藤是山氏の努力に心からの敬意を表している。 

後藤是山氏の九州日日新聞 大正15年(1926)9月15日(水曜日)細川忠利の兄 1~4、以後、表面的には細川興秋に関する研究は発表されていない。有っても明細な情報までは網羅されてなく、興秋公に関する天草の伝承の域を出ない研究調査だけである。 

解説
後藤是山コレクション、熊本県立美術館所蔵     
長岡与五郎宛 元和7年(1621)5月21日 細川忠利書状 

後藤是山著 九州日日新聞 大正15年(1926)9月15日(水曜日)から9月18日(土曜日)までの記事、細川忠利の兄 1~4、についての考察 

後藤是山
後藤是山(ごとうせざん、本名:祐太郎、1886年6月8日~1986年6月4日)1886年(明治19) 大分県直入郡久住町(現・竹田市)生まれ。早稲田大学中退。
1909年(明治42) 九州日日新聞社(現熊本日日新聞)入社
1911年(明治44) 国民新聞に派遣
1912年(明治45) 九州日日新聞社復帰
1917年(大正6)  九州日日新聞社の文藝覧刷新を断行
1918年(大正7)  九州日日新聞社編集兼主筆
1921年(大正Ⅰ0) 第2期「明星」の同人
1927年(昭和2)  俳誌「かはがらし」を創刊主宰
1934年(昭和9)  九州日日新聞社退社
1986年(昭和61) 6月4日 死去

 生涯一ジャーナリストの精神で、新聞記者としてだけでなく俳人としても活躍した人物。雅号「是山」「山は是れ依然として山、水は是れ依然として水」という意味である。

また熊本の郷土史家としても多くの業績を残し『肥後国誌』の編纂や『肥後の勤皇』の刊行等もおこなった。熊本の文化発展に尽力して、東京で国民新聞時代に知り合った、徳富蘇峰、歌人の与謝野鉄幹、与謝野晶子を郷土の新聞の文藝欄に登場させて人々を驚かせた。 
1927年(昭和2) 俳誌「かはがらし」を創刊主宰。是山は昭和3年に現在「後藤是山記念館」がある水前寺に移り住み、後藤是山の家が熊本の文藝活動の場となった。 

是山はまた多くの貴重な郷土・熊本に関する資料も収集している。その中に「長岡与五郎宛 元和7年(1621)5月21日 細川忠利書状」が含まれていた。

「長岡与五郎宛 元和七年(1621年)五月二一日 細川忠利書状」

細川忠利書状 元和七年(1621)五月廿一日 長岡与五郎(興秋)宛て


後藤是山の死去1986年(昭和61)の年、後藤是山コレクションとして「長岡与五郎宛 元和7年(1621)5月21日 細川忠利書状」は熊本県立美術館に寄贈されている。 

熊本県立美術館の1986年(昭和61)年度の収集品台帳にも、後藤是山氏より寄贈と明記されている。是山氏がこの「細川忠利書状」をいつ、どこから入手したのかは不明。後藤是山記念館に問い合わせたが、入手した時期、経路とも不明とのこと。 

熊本県立美術館では、この「細川忠利書状」を、2014年(平成26)4月の第1期、4月~6月に展示した記録があるが、それ以前の展示については記録が破棄されて無いので不明とのこと。 
寄贈した1986年(昭和61)から2014年(平成26)までは28年間の時間があるが、「おそらく数度は展示したのではないだろうか」との美術館側の話だった。「展示を目的として年に2回ほど収集品(寄贈を含む)に関する査定会議が開かれるので、この査定会議を通過した収集品を展示しなかったということは考えられない」と話されていた。 

九州日日新聞 大正15年(1926)9月15日(水曜日)から9月18日(土曜日)までの記事『細川忠利の兄 1~4』を読んでみて、大正15年(1926)の時点では、後藤是山氏はまだこの「長岡与五郎宛 元和7年(1621)5月21日 細川忠利書状」を入手していないと思われる。 

もし、この時点(大正15年)で後藤氏がこの「長岡与五郎宛 元和7(1621)5月21日 細川忠利書状」を入手していたら、書状の内容について何かしら記事を書いていただろうと思われる。後藤氏がこの忠利の書状をいつどこから入手されたのか新聞記事にはそれらしいことは一言も触れられていないので記事が書かれた後の時代、昭和になってから入手されたと考えられる。 
第14代興秋直系子孫、長岡養四郎氏が、御領から奥様のサダ様の郷里・天草河内浦町一町田村に引っ越してこられ、昭和15年(1940)11月15日に死去されているので、その後、この「忠利書状」が流失したのではないかと考えている。 

また後藤氏はこの「長岡与五郎宛 元和7年(1621)5月21日 細川忠利書状」の内容まで把握されていたのだろうかとの疑問もある。もし、後藤氏がこの忠利書状の内容を把握されていたら、必ず記事にされていただろうと考えるが、おそらく後藤氏は忠利書状の内容までは把握されていなかったと考えられる。後藤氏は自分のコレクションとして、この忠利書状を収集されていただけなのだろう。それ故、この書状に書かれている内容の重大性については気が付いていない。新聞記事の中で、大坂の陣の後の興秋公の切腹に関して書いているし、その後天草御領に来て隠棲のことにも言及されている。

 また後藤氏は記事を書く前に、天草の河内浦町一町田益田にお住いの長岡養四郎興敏氏を訪ね面会して色々と興秋公の残した遺品について尋ねている。それゆえ、後藤氏がもし忠利書状を読まれていたのならの、書状に記されている興秋公の病気の事(おそらく脳梗塞)と、徳川家康の御典医・与安法印(片山宗哲)を江戸城より豊前に招き、治療にあたらせた事実の事柄との矛盾に気が付かれたはずである。 

今回、この「長岡与五郎宛 元和7年(1621)5月21日 細川忠利書状」を明細に検討した結果、以下の事が判明した。

 矛盾点
•       興秋はこの元和七年(1621)の忠利の書状により興秋は切腹させられていなかったことが明白であるので、相反する事柄である『綿考輯禄』の記事、興秋は元和元年(1615)の大坂の陣の責任を取らされて切腹させられていることは虚構であることが書状により実証されている。 

•       忠利の書状は元和七年(1621)五月二十一日付けであるから、興秋が切腹させられた六年後に、忠利が実兄・興秋(長岡与五郎)宛てに書いている書状であること。この六年の時差に気が付かなければいけない。 

•       興秋は豊前において人質扱いを受けてかくまわれていること。つまり元和七年(1621)の時点では、肥後天草の御領には来ていないことなる。 

「大坂より御浪人被成候而(しかして)、尾州春日郡小田居井村に暫く忍び被成、夫より直ちに肥後圀天草郡御領村に御居住被成候て,宗専様と奉申し候由。」

この「池田家文書」に書かれている『これより直ちに肥後天草御領村に住んで』という記録もまったくの虚構であること。 

書状の内容
1、元和七年(1621)5月以前に、興秋が脳梗塞で手足がしびれて自由を失って床に伏していること。

 2、その病を治すために、江戸より徳川家康の御典医・与安法印(片山宗哲)を豊前に招き、治療にあたらせている事実。

 3、与安法印の治療により興秋は健康を回復していること。与安法印が興秋にできるなら湯治を勧めていること。

 4、そのすべての事を、父忠興も弟忠利も与安法印より報告を受けて知っていること。また湯治については、興秋の監視役であり警護役である伊丹喜助殿に一任されていること。

 5、興秋の周りの世話を半左衛門尉がしていること。田中半左衛門・旧姓長束助信 

6、伊喜助殿が興秋の護衛と監視役として付いていること。伊丹喜助康勝 

7、忠利が興秋に変わり、与安法印宛てにお礼状を書くと述べていること 

8、忠利が父忠興と藩主を交代して、一ヶ月先の六月二十日に小倉城へ移ること (細川正史・綿考輯禄では、実際には六月二十三日に小倉城へ入っている) 

これだけの非常に重要な情報が書かれている忠利の書状の内容を手にしていながら、後藤是山氏はこの書状の重要性に気付いていなかった。もし後藤氏がこの書状に書かれている内容に気付かれていたなら、後藤氏がこの書状を入手した時点で重大な歴史的発見として新聞に公表されていただろうと考える。 

情報提供 熊本史談会会長・真藤圀雄氏 小倉藩葡萄酒研究会・小川研次氏 

「半左衛門尉」
田中半左衛門
と思われ、旧姓長束助信(なつかすけのぶ)

室は忠興の妹伊也の娘である。忠利は信頼できる「身内」を香春町採銅所「不可思議寺」に匿われている与五郎(興秋)の側に置いていたと考えられる。
半左衛門は忠利の与五郎宛ての書状が書かれた1621年(元和7)5月21日付けの2年後、『江戸江相詰御奉公相勤居候處元和九年(1623年)四月病死仕候』(先祖附)とあり、江戸で在勤中であったが病死している。 

「伊喜助殿」
幕府勘定奉行の伊丹喜助康勝と思われ、通称「喜助」(きのすけ) 

「我等は、喜助殿次第と申す筈にて罷り下り候故、留め申す儀も御座無候、多分十四日に罷り上がるべきかと存じ奉り候」
(私は、奥の参府については伊丹殿の考え次第というつもりですので、止めるわけにもいきません。多分、十四日にでることになると存じます。)(元和九年九月四日忠利披露状)
(山本博文著『江戸城の宮廷政治』) 

この「喜助殿次第」は上述の与五郎宛の書状にも見られることから、伊丹喜助康勝で間違いないと考えられる。

伊丹氏の第一世代の雅興、親永、永勝がいて、伊丹喜助康勝は雅興の孫にあたり、徳川幕府に於いて勘定奉行を務め、熊本の加藤家改易後、熊本城受け取りの際、No 2として財務面を担当して来熊している。細川家とは大変懇意であったことが判るし、熊本の情勢にも明るかったと思われる。与五郎興秋を匿うことについての相談相手としては格好の人物だと思われる。 

細川幽斎に唯一側室が確認されるが、これは有岡城から黒田官兵衛孝髙を救出した加藤(伊丹)重徳だが、室は(親永の子・親保女)であり、細川忠興の側室・お藤(松の丸殿)は重徳の兄・郡(伊丹)宗保の娘である。何故、細川幽斎・忠興親子の側室がそれぞれ伊丹氏なのか不思議に思うが、伊丹喜助殿を含め深いかかわりがあってのことと思われる。
加賀山隼人も伊丹氏ですが、これも親永の子の親保の弟か、四男とかいう「意遁忠親」のその嫡男が隼人の父親・朝明だと考えられる。 

「興秋生存説」400年目の真実
この「長岡与五郎宛 元和7年(1621)5月21日 細川忠利書状」は、元和7年、1621年5月21日に書かれている。今年は2021年であるから、実に400年目にして、この忠利書状の書かれている内容が明細に渡り解読されたことになる。この書状の存在が、今まで語られてきた「興秋が天草に来て隠棲した伝承」が実は真実であったと証明された。ただし興秋が天草へ来た時期については現在の所推測に頼らざるを得ない。 

1621年(元和7)の時点では、興秋は豊前国田川郡香春町採銅所の不可思議寺にて脳梗塞を罹患して静養しているので天草の伝承とは明確に違うが、ともかく、1615年(元和元)の大坂の陣では切腹させられてはいないことがこの忠利の書状で証明されたことは非常に重要な事である。 

この「忠利書状」の出所についてだが、おそらく興秋が所持していた金庫(河内浦町一町田益田・池田幸恵氏所蔵)に保管されていた書状だと推測される。

細川興秋所有の金庫(書状入れ) 河内浦町一町田益田・池田幸恵氏所蔵

今この時期に一度、天草の人々に呼び掛けてこのような興秋に関する書状が手元にあるのならば、情報を教えていただきその幻の書状類を確かめなければならない。おそらく、忠利から興秋宛の書状も他にある可能性が非常に高いし、もしかして父忠興からの書状も存在しているかもしれない。言うまでもなくこれらの書状は興秋生存を確証附ける非常に大事な書状であるし、小笠原玄也の処刑された1635年(寛永12)12月以前に山鹿の「泉福寺」より天草御領に避難してきた興秋の足取りが明確に把握できるかもしれない。 

これらのまだ見ぬ、埋もれている書状により、興秋が天草の乱の時にどこに避難していたのか。天草の乱後にどのように熊本の細川藩と、また実弟忠利と連絡を取り合っていたか等が明確に判る書状もあるかもしれない。期待と共に不明である書状の捜索にも携わりたいと願っている。

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