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夏帽子 萩原朔太郎


はじめに


夏らしいテーマの作品として、朗読用に、萩原朔太郎作「夏帽子」を現代仮名にした上で、若干の解説を付けたものです。元のテキストは以下の青空文庫のものです。

萩原朔太郎(1893-1942)は、群馬県の現前橋市千代田町一丁目(中心市街地の一角)の生まれ。父は開業医。1903年に旧政権立前橋中学校(現県立前橋高等学校)に入学し、そのころ、石川啄木らとともの「新詩社」の同人となっていますが、学校の授業にはあまり出ずに落第。1907年に熊本の第五高等学校第一部乙類(英語文科)に浪人して入学し、翌年落第。1908年に岡山の第六高等学校第一部丙類(ドイツ語文科)に転校。しかし、ここでも試験を受けず翌年落第。1910年、第六高等学校に席を残しつつ慶応義塾大学予科に入学するもすぐ退学。帰郷して六高を退学し、翌年慶大予科に入りなおすという遍歴があります。どうやら、学業にはあまり馴染めない人だったようです。それでいて、この作品で主人公がなりすまそうとした旧制第一高等学校は、尊敬する鴎外や漱石が学んだところであり憧れをいだいていたのかもしれません。

性格的には、とても正直で嘘や、その場の取り繕いということができない性格だったそうです。また非常に気が弱くお金を借りにきた人に断ることができなかったとのこと。また、非常に臆病で、自分の書いたものの悪口を言われるとかなり気にして、幾日も家にこもったきりということもあったそうです(Wikipediaより)。

萩原朔太郎作「夏帽子」(青空文庫)


夏帽子 萩原朔太郎(フリガナ・脚注付)


 青年の時は、だれでもつまらないことに熱情をもつものだ。

 その頃、地方の或る高等学校に居た私は、毎年初夏の季節になると、きまって一つの熱情にとりつかれた。それは何でもないつまらぬことで、或る私の好きな夏帽子を、被(かぶ)ってみたいという願いである。その好きな帽子というのはパナマ帽でもなくタスカン(注1)でもなく、あの海老茶色(えびちゃいろ)のリボンを巻いた、一高の夏帽子だったのだ。 どうしてそんなにまで、あの学生帽子が好きだったのか、自分ながらよく解らない。多分私は、その頃愛読した森鴎外氏の『青年』や、夏目漱石氏の学生小説などから一高の学生たちを聯想(れんそう)し、それが初夏の青葉の中で、上野の森などを散歩している、彼等の夏帽子を表象(ひょうしょう)させ、聯想(れんそう)心理に結合(けつごう)した為(ため)であろう。

 とにかく私は、あの海老(えび)茶色(ちゃいろ)のリボンを考え、その書生(しょせい)帽子(ぼうし)を思うだけでも、ふしぎになつかしい独逸(どいつ)の戯曲(ぎきょく)、アルト・ハイデルベルヒ(注2)を聯想(れんそう)して、夏の青葉にそよいでくる海の郷愁(きょうしゅう)を感じたりした。

 その頃私の居た地方の高等学校では、真(しん)紅色(くいろ)のリボンに二本の白線を入れた帽子を、一高(注3)に準じて制定して居た。私はそれが厭(いや)だったので、白線の上に赤インキを塗りつけたり、真紅色の上に紫絵具をこすったりして、無理に一高の帽子に紛(まぎ)らして居た。だがとうとう、熱情が押えがたくなって来たので、或(ある)夏(なつ)の休暇に上京して、本郷の帽子屋から、一高の制定(せいてい)帽子(ぼうし)を買ってしまった。

 しかしそれを買った後では、つまらない悔恨(かいこん)にくやまされた。そんなものを買ったところで、実際の一高生徒でもない自分が、まさか気恥しく、被(かぶ)って歩くわけにも行かなかったから。

 私は人の居ないところで、どこか内証(ないしょ)に帽子を被(かぶ)り、鴎外(おうがい)博士(はかせ)の『青年』やハイデルベルヒを聯想(れんそう)しつつ、自分がその主人公である如く、空想裡(くうそううり)の悦楽(えつらく)に耽(ふけ)りたいと考えた。その強い欲情は、どうしても押(おさ)えることができなかった。そこで、或夏、七月の休暇になると同時に、ひそかに帽子を行李(こうり)に入れて、日光の山奥(やまおく)にある中禅寺の避暑地へ行った。もちろん宿屋(やどや)は、湖畔のレーキホテル(注4)を選定した。それは私の空想裡(くうそううり)に住む人物としても、当然選定さるべき旅館であつた。

 或日私は、附近の小さな滝(注5)を見ようとして、一人で夏の山道を登って行った。七月初旬の日光は、青葉の葉(は)影(かげ)で明るくきらきらと輝(かが)やいて居た。

 私は宿を出る時から、思い切って行李(こうり)の中の帽子を被(かぶ)って居た。こんな寂しい山道では、もちろんだれも見る人がなく、気恥しい思いなしに、勝手な空想に耽(ふけ)れると思ったからだ。夏の山道には、いろいろな白い花が咲いて居た。私は書生(しょせい)袴(ばかま)に帽子を被(かぶ)り、汗ばんだ皮膚を感じながら、それでも右の肩を高く怒(いか)らし、独逸(どいつ)学生の青春(せいしゅん)気質(かたぎ)を表象(ひょうしょう)する、あの浪漫(ろうまん)的の豪壮(ごうそう)を感じつつ歩いて居た。懐中(ふところ)には丸善で買ったばかりの、なつかしいハイネの詩集(注6)が這入(はい)って居た。その詩集は索引の鉛筆で汚されて居り、所々に凋(しぼ)れた草花(くさばな)などが押(お)されて居た。

 山道の行きつめた崖を曲った時に、ふと私の前に歩いて行く、二個の明るいパラソルを見た。たしかに姉妹であるところの、美しく若い娘であった。私は何の理由もなく、急に足がすくむような羞(はずか)しさと、一人で居るきまりの悪さを感じたので、歩調を早めながら、わざと彼等(かれら)の方を見ないようにし、特別にまた肩を怒(いか)らして追いぬけた。どんな私の様子からも、彼等(かれら)に対して無関心で居ることを装おうとして、無理な努力から固くなって居た。そのくせ内心では、こうした人気(ひとけ)のない山道で、美しい娘等と道づれになり、一口でも言葉を交せられることの悦(よろこ)びを心に感じ、空想の有り得べき幸福の中でもぢもぢしながら。

 私は女(おんな)等(ども)を追い越しながら、こんな絶好の場合に際して機会(チャンス)を捕えなかったことの愚(ぐ)を心に悔(く)いた。

 だが丁度(ちょうど)その時、偶然のうまい機会が来た。私が汗をぬぐおうとして、ハンケチで額の上をふいた時に、帽子が頭からすべり落ちた。それは輪のように転(ころ)がって行って、すぐ五六歩後から歩いて来る、女たちの足許(あしもと)に止まった。若い方の娘が、すぐそれを拾ってくれた。彼女は恥ぢる様子もなく、快活(かいかつ)に私の方へ走って来た。

「どうも……どうも、ありがとう。」

 私はどぎまぎしながら、やつと口の中で礼を言った。そして急いで帽子を被(かぶ)り、逃げ出すようにすたすたと歩き出した。宇宙が真赤に廻転(かいてん)して、どうすれば好(よ)いか解(わか)らなかった。ただ足だけが機械的に運動して、むやみに速足(はやあし)で前へ進んだ。

 だがすぐ後の方から、女の呼びかけてくる声を聞いた。

「あの、おたずね致しますが……」

 それは姉の方の娘であった。彼女はたしかに、私よりも一つ二つ年上に見え、怜悧(れいり)な美しい瞳(め)をした女であつた。

「滝(注7)の方へ行くのは、この道で好(よ)いのでしょうか?」

そう言って慣れ慣れしく微笑(びしょう)した。

「はあ!」

 私は窮屈に四角ばって、兵隊のような返事をした。女は暫(しば)らく、じつと私の顔を眺(なが)めていたが、やがて世慣れた調子で話しかけた。

「失礼ですが、あなた一高のお方ですね?」

 私は一寸(ちょっと)返事に困った。

「いいえ」という否定の言葉が、直ちに瞬間に口に浮んだ。けれども次の瞬間には、帽子のことが頭に浮んで、どきりと冷汗を流してしまった。私は考える余裕もなく、混乱して曖昧(あいまい)の返事をした。

「はあ!」

「すると貴方(あなた)は……」

 女は浴(あび)せかけるように質問した。

「秋元子爵の御子息ですね。私はよく知って居ますわ。」

 私は今度こそ大きな声で、はっきりと返事をした。

「いいえ。ちがいます。」

 けれども女は、尚(なお)疑(うたが)い深(ぶか)そうに私を見つめた。或る理由の知れないはにかみと、不安な懸念とにせき立てられて、私は女づれを後に残し、速足でずんずんと先に行ってしまった。

 私がホテルに帰った時、偶然にもその娘(むすめ)等(ら)が、隣室の客であることを発見した。彼等はその年老いた母と一緒に、三人で此所(ここ)に来て居た。いろいろな反覆(はんぷく)する機会からして、避けがたく私はその女づれと懇意になった。遂には姉娘と私だけで、森の中を散歩するような仲にもなった。その年上の女は、明らかに私に恋をして居た。彼女はいつも、私のことを『若様』と呼んだ。

 私は最初、女の無邪気な意地悪から、悪戯(いたずら)に言うのだと思ったので、故意(わざ)と勿体(もったい)ぶった様子などして、さも貴族らしく返事をした。だが或る時、彼女は真面目になって話をした。ずっと前から、自分は一高の運動会やその他の機会で、秋元子爵の令息をよく知ってること。そして私こそ、たしかにその当人にちがいなく、どんなにしらばくれて隠していても、自分には解ってるということを、女の強い確信で主張した。

 その強い確信は、私のどんな弁駁(べんばく)でも、撤回(てっかい)させることができなかった。しまいには仕方がなく、私の方でも好加減(いいかげん)に、華族の息子としてふるまって居た。

 最後の日が迫(せま)って来た。

 かなかな蝉の鳴いてる森の小路で、夏の夕景を背に浴びながら、女はそっと私に近づき、胸の秘密を打ち明けようとする様子が見えた。私はその長い前から、自分を偽(いつわ)っている苦悩に耐えなくなっていた。自分は一高の生徒でもなく、況(いわ)んや貴族の息子でもない。それに図々しく制帽を被(かぶ)り、好(い)い気になって『若様』と呼ばれて居る。どんなに弁護して考えても、私は不良少年の典型であり、彼等と同じ行為をしているのである。

 私は悔恨(かいこん)に耐えなくなった。そして一夜の中に行李(こうり)を調へ、出発しようと考えた。

 翌朝早く、私は裏山へ一人で登った。そこには夏草(なつくさ)が繁(しげ)って居り、油蝉(あぶらぜみ)が木立に鳴いて居た。私は包から帽子を出し、双手に握ってむしり切った。

 麦藁(むぎわら)のべりべりと裂ける音が、不思議に悲しく胸に迫った。その海老茶色のリボンでさえも、地面の泥にまみれ、私の下駄に踏みつけられていた。

底本:「日本の名随筆38 装」作品社 1985(昭和60)年12月25日第1刷発行

脚注


(注1)タスカン帽
イタリアのトスカナ地方に産する麦稈真田 (ばっかんさなだ) で作った上質の夏帽子。

(注2)アルト・ハイデルベルヒ
はドイツの作家・ヴィルヘルム・マイヤー=フェルスターによる5幕の戯曲ある。「古きハイデルベルク」の意。ザクセンのカールブルク公国の公子、カール・ハインリッヒが公子がハイデルベルク大学へ遊学して、このネッカー川に面した美しい町の下宿でケーティ (Käthie) と仲良くなり楽しい時を過ごすが、養父の死により大公に就くことになり、彼女と別れて故郷へ呼び戻され、その後再びハイデルベルクを訪問してケーティに再会するまでを描いている[1][2] 。同様のテーマを扱った森鴎外の『舞姫』の暗いイメージとは正反対の、涙を誘いながらも比較的に明るい純愛ものである。(Wikipediaより)

(注3)一高
旧制第一高校。現在の東京大学教養学部。当時は、文京区本郷(現在の東大農学部があるところ)にあった。帽子には、下の校章がついていたと思われる。

一高校章の柏葉(鬼三つ柏)

(注4)レーキホテル
中禅寺湖畔にたたずむ、現、リッツカールトン日光。

(注5)小さな滝
山を少し登ったところとのことなので、竜頭の滝かもしれない。竜頭の滝はけっして小さな滝ではないが、華厳の滝との比較なら小さくなる。

(注6)ハイネ詩集
ハインリヒ・ハイネによる詩集。代表作は「ローレライ」

ローレライ

どういう訳か分からない
こんなに心が重いのは
遠いむかしのもの語り
それが胸をはなれない

風は涼しく日は暮れて
静かに流れるライン河
かなたの山の頂きが
夕陽にきらり光ってる

この上もなく美しい
娘がそこに腰おろし
金の飾りをきらめかし
その金髪をすいている

黄金(コガネ)の櫛ですきながら
歌のひとつを口ずさむ
それはふしぎな旋律で
強い魔力を秘めている

小舟をあやつる舟人を
歌は切なく惹きつける
迫る暗礁に目もやらず
彼はひたすら仰ぎ見る

あげくは小舟もろともに
波にのまれることだろう
不思議な歌の力を使い
それをしたのはローレライ

   (訳:船津 建)

(注7)滝
華厳の滝のことだとすれば、レーキホテルからは近い。ホテルに泊まっていた女は、滝の場所を知ってたのに、学生と話をしたくてわざと聞いたのかもしれない。

(注8)
女は子爵の息子は良く知っていると言いながら、ずっと、彼を子爵の御曹司と思い続けていたとのことだが、果たして、本当にそう間違って思い込み続けていたのか?それとも、間違っていることはわかっていたのか。あるいは、子爵の息子の話もフェイクだったのか?女にとって「ひと夏の思い出」としての付き合いだったのか。いずれにせよ、男はそれなりの男前であったことを伺わせますし、女がどのような思いで男に接しようとしていたのかは、いろいろと考えてみると面白そうです。

朗読用原稿


現代文に直し、縦書きにしてルビを多めに振ったテキストです。


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