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多動力とギフト経済

知る わかる 動く

この思考は多動力的な面でビジネスする上でとても重要だと思います。動くということ、行動力は若い時には人生を左右する重要な能力だと思います。

僕は時に行動力があると言われることがあるのですが、実は全く逆の性格だと思っています。多動力の無さがとにかく欠点、やりたいなと思うことがたくさん浮かぶけれど、0.1%も行動に移せてないのではないかと思います。

最近はそれでも良いのかもしれないと思う良い言い訳を見つけました。

知るというのは情報を捕まえることで、情報化社会の中では民主化されていると言えます。例えば、来年はタピオカが来て、その次にはバナナジュースが来そうだよ、と言うことはインターネットで誰でもアクセスできること。ビジネスとしてはその情報を早く手に入れて、早く行動したものが勝つわけです。

でも僕は行動にいく前に考えてしまいます。バナナジュースが儲かるのはわかるけど、タピオカブームのせいで原料のキャッサバ農家は買い叩きや一時的な需要増で大変なことになってたみたいだし、バナナ農家にはどんな影響があるのだろうか。そもそもバナナジュースを作りたいわけじゃないし、誰がやってもいい仕事をしてその後にお金以外に何が残るのだろうか。

知る わかる 考える わからなくなる 動けない

やっぱり、世の中には考えれば考えるほどわからなくなる事がたくさんあって、動けなくなる。

これが僕の言い訳。

人間の理性と本能が矛盾するようにこの社会も根底のところで矛盾を抱えている。資本主義は悪者扱いされる現代ですが、資本主義の見直しを考える時、それ自体を全否定してしまうと”功”の部分も見落としてしまいバランスを欠いてしまうと思う。資本主義という概念自体には悪意は実装されていないただのシステムであって、それによって人間が悪くなるわけじゃなく、人間の悪いところが出てきているというだけ。

環境問題を考えれば考えるほど、人間そのものが害悪であることにたどり着いてしまうような。

サステナブルを考えれば考えるほど、世の中にそんな都合良いものは存在しないと気が付いてしまうような。

そんな性格なので、世の中で良いとされていることや、僕自身が良いなと思うことにも懐疑的な箇所を見つけてしまう、否定的なものの見方になってしまう、嫌な性格だなと思う。

さて、そんな文脈でギフト経済、ギブエコノミーについて考えてみたいと思う。(否定的なことを書くけれど、ギフト、ギブの考え方には非常に共感していることを前置きしておきたいです。)

ギフト GIFT、ギブ GIVE というのはその名の通り、利得を動機とした交換ではなく、ギブ(贈与)することを経済活動の出発点とすること。

この考え方は非常に豊かな経済さらに感情の循環を生み出すと思いました。ただ僕はここでも考えすぎてしまいます。

純粋なギブという感情は存在しうるのでしょうか。

僕は誰かにギブしたいと思うことがあるし、ギブを物事の出発点に置くように意識している。ただ、何も見返りを期待していないかというと自信がなくなってしまうのです。

だれかに何かをしてあげるとき、なんの見返りも期待しない

これが純粋なギブなんだと思う。見返りというのは、物質的なものから感情的なもの、印象みたいなものまで。

震災ボランティアなんかで、ボランティア側が感情的な面で多くを受け取るみたいなことを考えると良いかもしれません。

ギブによって相手に何かを渡した時、その後に相手がお返しをしたとする、するとそれは交換と同じになる。そこで初めのギブにお返しの期待があったとするならば、既存の交換経済と何が異なるのだろうか。

コミュニケーションが伴う場合にはお返しは作用反作用のごとく発生しています。だから極端に言うとギブが成立するのは、死を差し出した時だけだと言う人もいます。死んでしまえば、当然お返しを受け取ることはできなくなりますから。

つまり、ギフト経済が実装された場合に、ギブの出発点が損得計算になる可能性があると思うわけです。人々はお返しの最大化の為に知恵を絞るだろうと予想される。

これは、僕が最近、政治に対して冷ややかになっていることも関係しているのですが、システムがよりよいとされるものに代替されたところで、人間の感情が劣化した状態では結果はなにも変わらないということ。システムによって人は良くなるのかという命題。

逆に言えば、人間の感情が豊かに循環する状態が実現するのならば、既存のプラットフォームでもなんの問題もないであろうと考えられます。

包丁と日本刀は使用目的が異なる道具であるが、使う人間の感情によって、関わり方や視点によって、もたらす結果は同じになりえる。

では人間の感情が豊かに循環する状態をどのように作り出すのか。僕は小さな範囲であれば純粋なギブの感情の循環も可能であると思っています。小さな範囲には希望があると信じています。

きっとギフト経済というのは、それ自体をマススケーリングするものではなく、逆にギブが循環できる範囲に経済圏を小さくしていくということだと思う。やっぱりどこかの知らない人のためにギフトしようなんて思えるものでもないし、それがシステムによって強制されたとするればギフトでもなんでもない。ギフトは主体的にすることに意味があるのだと思うから。

ここまで考えてひとつ思考が前進したなと思います。だからといってする行動できるわけじゃなく、この範囲の設定はどのくらいまで拡大可能であるのかは難しいところかなと思うのです。

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