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社会にある対立構造

右とか左、保守とかリベラル

誰しも聞いたことのある対立構造ですが、現代では単純な二項対立では語れないことがたくさんある。

先日まで上田映劇で上映していた「れいわ一揆」の中で安富歩さんはリベラルのさらに外側という表現をしていた。自分はその外側の存在であり、そういう存在に対して社会は閉ざされていないんだということを示したいと言っていた。

新型コロナウィルスは僕らの社会を壊そうという意思を感じてしまうほど、本当に巧妙に設計されているなと思う。

新型コロナが猛威をふるったイタリアでの第1波のさなかで、宗教活動に対しても制限がかかったことについて、ある哲学者は聖職者とは病人を抱きしめてきた存在であり、ロックダウンということに教会は何故怒らないのかと言って大批判を食らったそうです。これは保守の外側からの意見と言えると思う。

改めて新型コロナは”死”の問題だと思う。この普遍的な問題を前にすれば右とか左なんて無力に等しいのだと思います。

”死”に向き合ってきた宗教がコロナ死によって封殺されることは皮肉としか言いようがないと思う。ニーテェの言う所の神は死んだというのはまさにこういうことなんでしょうね。

僕たちの社会がこうまでも脆いのは普遍的な問題に向き合ってこなかったからなのかもしれません。ある時代までは宗教が”死”ついての答えを持っていたけれど、それを否定された僕たちの時代は、人間普遍の恐怖に対して丸裸の状態なのかもしれないですね。

新型コロナ関連の法律は過料という罰則をあまりにもあっさり受け入れる形で通過してしまった訳ですが、歴史の中で獲得してきた自由も”死”の恐怖の前にはリベラルも何もないんだということを証明したようにも思います。自由を愛するリベラル支持層にゼロリスク思想が多いことが理由でしょう。

結局最後は死を迎えるわけですが、死を恐怖したまま死を迎えるのは僕は怖いことだと思っています。どんなに制度を良くして死を遠ざけても、来るそのときに恐怖して死ぬことは避けたいと思う。

ある意味において宗教の死んだ世界で、死の恐怖を乗り越えることに必要なことはなんでしょうか。

やっぱりステイホームで孤独死みたいなことは最悪のシナリオだと思うのです。”死”というものが絶対的な悪として確立してしまっているがために、恐怖を産んでいる。そして恐怖の訪れを助長しているとも感じられる。

僕だって死に直面したときにどういう行動が取れるのか自信はないですが、その時の自分がもっとも倫理的な自分であれるように願っています。

僕は生まれた時のことを覚えていません。気がついたら生まれていたし、生まれたことを知ったのは生まれてからどれほど後のことかも覚えていない。生まれた時に、喜びも感じなかったし、泣いていたと思うけど悲しかったわけでもないと思う。

”死”もそういう感じなんじゃないかと漠然と考えています。輪廻みたいな感じ、生まれることと死ぬことは同じことなんじゃないだろうか。生まれたときにみたいに死んでいくんじゃないだろうか。泣いていても悲しい訳じゃないと

良くわからないけど、赤ん坊として生まれて、成長し、また赤ん坊みたいなって、死を迎える

そんな感覚なのかなと思っています。

頭でわかっていることと体感として理解していることでは天地の差があるので、僕もどっちなのかはわからないけれど、こういう問題を向き合っていくことで、現在のなんとなくある二項対立図式から抜け出して、まともな社会に近づいていくのではないかと思っています。


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