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俺のX 2024年11月①

10/21

のっけから健康の話で恐縮ですが、先日鼻血が止まらなくなって救急搬送・手術・入院ということがありました。前回更新分にも書いたんですけども。
そちらの件、本日病院で検査しまして無事に完治ということになりました。よかった。よかったなあ。

おっさんになると健康の話が盛り上がるっていうけど、実際そうだなーって思う。チラ見えしてくる「死」への対抗策なんでしょうね。世間話に混ぜていって日常に落とし込む。横並びの共感でつながっておく。死への恐怖に囚われないように。

今年、二回入院してみてわかったけど、こんなに死って身近だったんだーっていうね。よく聞く表現でもあるし諸先輩方からのお仕着せ感もありつつ、やっぱ実感が伴うと、そうだねーってなる。なった。人はいずれ死ぬ。遅いか早いかだけだ。

急なジコ坊ですけれども、これ、その後の台詞がまたいいんだよな。

「肝心なことは死に食われんことだ」

そうだね。本当にそう。そのための健康トークだと思う。ジコ坊も石火矢衆とかと「人間ドック行った?」「絶対行っといた方がいいよ」みたいにやってたはず。俺たちもどんどんやっていこう。いや、これは師匠の受け売りだがな。

10/22

もっと本を読んでおけばよかったなとつくづく思う。勉強という方向の読書ね。

「みんな難しい話をしているなー」と客席からステージを見上げているだけだもんな。その状況を変えるための情報量が圧倒的に足りないと感じる。「何言ってんだてめー」とかステージに乗り込んでいく理不尽パワーもない。そこまで怒ることができるほどの読解力もない。ため息が出るほどに凡人、かつ愚かな有権者である。

選挙も近いし政治とかの話です。愚かながらも有権者ですからね。「会場」「ステージ」は、政治の話やってるニュースとか街頭演説とかのメタファー的な読み方をしてください。

なんかもう、もはや客席に居続けるのもしんどいときすらありますからね。「わかんない」→「つまんない」→「俺には関係ない」みたいに考えて会場を出てっちゃいたくなる。

もういいじゃん、近くの居酒屋で一杯やろうぜ、みたいにしてカウンター横並びの近しい人たちだけで瓶ビール片手にクダまいて、そもそもなんであの会場にいたんだっけっていうことすら忘れて。

でも、そうやって飲んでてふと気付いたら、さっきまでステージにいた人が隅っこでコップ酒をちびちびやってて。アッさっきの、って話しかけたらちゃんといろいろ答えてくれて――みたいなことがあればさ。酒場特有の初対面ぶっちゃけトーク的な。こっちとしてはラクだしありがたいけど、そんなことはそうないですからね。こと政治ってそう。そうだと思っている。

なんていうかな。ステージ上の話者の話す内容が理解できるようになりたいとかじゃなく、ちゃんと本を読んだり勉強したりしてたら、そもそもの「会場」「客席」「ステージ」っていう認識を根こそぎ取っ払ってしまえるんじゃないかって思うんすよ。目の前の景色をガラッと変えられる、勉強とか読書ってそういう力がある。

ほんとうは会場もステージもなくて、同じフロアで同じ高さの目線で話してる人がいるだけ。そういう認識で話が聞けるようになれるんじゃないか。何なら話してる人、くっそ汚えな目ヤニくっついてんぞ、みたいな部分にも気付けるかもしれない。朝に顔を洗わない人はちょっと……みたいな着眼点で考えられるのはいい。私はいいと思う。

というとね。そりゃそうなんですけど。いやーなんせ勉強してないっすからね。ぼーっとしてる場合じゃないのにな、とか危機感はありつつなんもしてない。なんもしてこなかったなーって、あーなんか難しい話してんなーって思いながら今日も結局、客席のソファに埋まってステージをボケー見上げている。

あとなんか会場二階の関係者席みたいなところからステージ見下ろして野次ってる人もいるじゃないすか。すげえよな。よくやれんなーって思う。ぼくにはとてもできない。

極端な話ですけど、単にサボっているというだけじゃなくて、勉強のやり方次第では会場とかステージが、ジャングルとか宇宙とか魔境とか異次元とかになっちゃう可能性もあると思うし、それはちょっと怖いなというのもある。どんな本を読めばいいか、どう勉強すればいいかっていうのが第一関門になっているな。

そうやって、勉強もせずに、社会参加してますよーのアリバイづくり程度に「選挙は行きました」つってるのが、どうなんかなーみたいに思ったという話でもある。四十にもなって情けないね。とはいえ自分なりになんとか考えて、居酒屋の前にちゃんと投票場に行きます。

正論ロボ「こんな駄文を書いてる暇があったら政党公約くらい調べればいいのに……」

あっ正論ロボだ! ボコボコにしてやる!

本業のほう、めちゃくちゃ悩ましい状況になって、取引先と対応について長電話してたら自然と「んなぁ~」と声が出た。人はナナチになれる。

10/23

なんか今朝の夢が久々のゾンビ系だったんですけど(ゾンビが出てくる夢ってあるあるですよね)。夢の中で何人かの仲間たちと銃を片手にハラハラドキドキのバトルサバイバルを繰り広げていましてね。

持ってる銃が、自分が実際に所持している電動ガンで。サバゲーで使うBB弾を発射するやつ。それを夢の中でも、なじむなーって思いながら使ってたんです。撃ってゾンビに当たれば倒せてた。

展開が進んで、ゾンビじゃなく民間人が物陰から不意に現れて、反射的にヤバっと銃の安全装置をオンにしたんです。誤射しちゃいけないからね。

そのとき「あぶねー…これ実弾だもんな……」って思ったんすよ。

いつの間にか実弾設定になってたみたいなんですけど。起きてからその思考がなんかじわじわきましてね。日常生活ではまずないじゃないすか。実弾て。思考に「実弾」がリアルに浮かぶて。

その、夢の中の非日常を現実として思考するっていうの、その現象が久々にはっきり出たなーって思って面白かった。そういう話でした。おわりでーす。よしみんな仕事に戻れ。

10/28

唐突に映画の感想を書きますね。ネタバレもしますので、以下ご注意ください。

鼻血療養期間に観た映画、最後の一本は『ミッシング』でした。今年公開されたやつですね。王様のブランチとかで「ノーメイク石原さとみの体当たり演技!」みたいな宣伝のされ方をしてたのが記憶に新しい。配信早いなー。

観賞前は、邦画ドラマ映画ねーはいはい、くらいの感じでしたが、療養中に続けて映画を観てたとき、これを観て「もう映画しんどいな」となった。その後は「吉田類の酒場放浪記」や「町中華で飲ろうぜ」ばかり観ることになる。

しんどかった。めちゃくちゃ誉めている。「しんどくなあれ☆彡」という映画の魔法がしっかり満ち満ちており、魔法にかけられた俺は術者の思惑通りちゃんとしんどくなった。やられた。やってくれたな。

基本的に「観なくていい映画」「読まなくていい本」「聴かなくていい音楽」みたいなのを賢しらに語るのが嫌いというか(全力でふざけてるのはよい)いらん世話だな、と思うタチですけど、少なくとも本作をおススメするかというと断じてしない。観なくていいとまではもちろん言わないけど。そのくらいのしんどさ。

娘が失踪して、実弟が疑われて、マスコミの姿勢やらネットの情報やらに翻弄されて、ゴリゴリに疲弊していく父母のお話。

最終盤でわずかながら差し込む光の、なんと儚いことか。

でもこの儚さを、か細い希望を手繰って生きていくしかない。人間だけでなく生きものすべて、本来的にはそうなんだと気付かされる。巨大すぎる絶望が立ちはだかってもなお「それでも」と前を向くしかない。生きていくために……うわー。しんど!

このお話に石原さとみをキャスティングしたのがね。俺だけの印象じゃなかったんだなっていうか。こういう演技・役柄が合うって、やっぱみんな思ってたんだ! ってなった。

なんか彼女って常に目が笑ってないようなイメージがあって、薄幸さというか危うさみたいなのをずっと感じてたんですよ。それが本作にガチっとハマってて本当に怖かった。ちょっと前に観てたTVドラマ『Destiny』のほうはなんか薄ら寒かったのに。

娘が見つかったって情報を受けて警察に駆け込んだらそれがニセ情報だったとわかって、絶望に崩れ落ちて失禁するところとかね。怖すぎ。しんどい。

先述したようにわずかな希望が描かれてはいるんですが、果たしてそれが本当に希望かどうか危ういところがあるような描き方なので、腹の奥に溜まるものがでかかった。少なくとも療養中に観るもんじゃなかったかもしれない。覚悟の上でご覧ください。しんどいぞ!

昨日は久々にノッツバンドの練習(弱)をした。ほとんど人生相談の時間だった。もう腐れ縁もここまで来たら立派な縁(えにし)ですな。間延びした青春にも終わりはいずれ訪れることを知っている。健康トークもいっぱいした。

10/29

しんどいぞ。次は腰痛ですよ。腰が痛い。歩いてるとちょっとラクになるの、また坐骨神経痛か。湿布おじさん(臭)爆誕である。

原因は日頃の運動不足でしょうね。普段からジムとかランニングとかやってる人みんな偉すぎる。運動とか死ぬほどダルいのでこの痛みとともに生きていくしかない。しかないのかー。アホな距離を散歩するのは好きです。

また唐突に映画の感想を書いてもいいですか(いいよ)。

『エターナル・サンシャイン』って映画が好きで、その監督のミシェル・ゴンドリー作品も好き、みたいに思ってたんですよ。好きな監督はって聞かれたら彼の名前を挙げてたときもあった。なんかちょっとカッコいいなとか思ってた。

それで彼の監督作をいくつか観ていってたんですけど、なんだかそこまででもないなーというのが大体の感想で。あれー? みたいに思いつつ無理しつつ、というところもあったんですけど、しばらく経って、アッとなった。おれ脚本のチャーリー・カウフマンのほうが好きなのかも。こっちのテイストのほうが合ってるんじゃないか。

なんかこう、突飛なアイデアで突っ走ってふわっとさせるだけじゃなく、突飛さを束ねて作品にして着地まで描ける、というほうが好みなのだなと。そういう流れがありましてね。

そして今年『エターナル・サンシャイン』が製作20周年記念でリバイバル上映されるということで、

10/30

急に仕事が忙しくなったので途中で書くのをやめている。

10/31

昨日も忙しくて書けなかった。まあいいか。ここが俺のXだ。

いろいろ忘れている。

何で頼んだかわからない本が届きましてね(なんかのサイトで紹介されてて興味をもったのは覚えてるけど購入に至った詳細が思い出せない)。

届いたのを開けてみたら、文庫を注文したはずだったのに単行本。しかも初版で刊行当時(1987年)の広告ペーパーやらしおりやら感想かいて送るハガキまで付いた完品で、さらにはご丁寧に薄い半透明の紙(古本屋でよく見るやつ。グラシン紙というらしい)にくるまれておりました。

半村良の『能登怪異譚』という本なんですけど。手に取るまでで既ににわりと怪異めいていて、さすがだなーと思うなどしまして。それで、昨日お風呂上りにお茶割りをすすりながら読んでみたんですけどね。

もうね、びびるくらい怖い。

能登地方のご老人が方言バリバリで語ってるというテイのお話なんですけど。一作目でおなかいっぱいになった。『箪笥』っていう話。その筋の人にはめちゃくちゃ有名な一遍らしいですね。

あらすじを紹介したいけど、どこかで読めないかな(書こうと思ったけどまとめるの難しい&めんどくさい…)。探すか。

探した。

https://www.seiryo-u.ac.jp/c/news/message/0925.html

金沢星稜大学女子短期大学学長のコラムがヒットした。↑の下部にあらすじがありますのでそちらを参照いただくのがよさそう。ご興味のある方はどうぞ。

いやーあらすじだけでも思い出して怖い。

こないだ「ゲ謎」の感想を書いたときに、因習村みんな好きよね~なんでだろうね~みたいな話をしてましたけど、まさにそのへん。因習村っていうか土着信仰っていうか、やっぱりこう地方・ド田舎の、しっかりとっぷり暗い夜の闇っていうのが、そもそも恐怖が生まれ出る源泉ということなんだろうね。暗いところは根源的に怖いという。

当たり前じゃん、なんですけど。でもしばらく東京に住んで、地元(長崎県島原市)に帰って夜道を歩いてると、やべーなって思いますよ。思いました。

ちょっと待って、地元の写真さがしてくるから。

あったあった。


こんなんすよ? 闇すぎる。こええよ。そりゃ怪異のひとつふたつ起こるわ。

そうやって恐怖をかたちにする=怖い話としてつなげていくことで、折り合いをつけてたのかもしれないですね。恐怖もまた「生きたい」という思いによって生み出された正常な反応なのだから……ん? あなたの後ろにいるの、だれ?

11/1

今年ももう残り二か月か~

待って! あきらめるのはまだ早いよ!


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