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遅刻決定焦燥漏精譚

五月、俺はダイエットのため走り詰めだった。約二〇〇キロの距離を走った。月末、酷使された膝を動かすとギシギシと軋んだ。

五月三十一日、夕飯を終えた俺は友人と近所の銭湯に行った。普段はサウナと水風呂も利用するのだがどうにも面倒で、湯を借りるだけ借りてそそくさと出た。帰りがけ、友人から蛍でも見に行かないかと誘われたが、膝が痛むし、何より眠気が襲い来ていた。断りを入れて家に戻り、ベッドに潜り込む。おおよそ22時くらいのことである。


俺はこの4月から働き始めた新入社員だった。研修期間は短く、すぐに職場に放り込まれた。不安だったが同僚はみな親切で「企画営業担当」という曖昧な肩書そのまま、曖昧に仕事をしている俺を助けてくれた。

なかなか慣れないのは通勤だった。職場は自宅から私鉄と環状線を乗り継いでいかなければいけない場所にあった。乗り換えを求められるのはいわゆるハブ駅で、様々な色の電車が次々発着するホームが薪のように乱雑に重なっており、迷うこともしばしばだった。

入社から一か月が経ち、俺はまだ新しいビジネスリュックを膝の上に抱えて座席についていた。この路線はなぜか通勤利用者が少なく、朝も早い時間なのに老若男女がとりどりの格好で乗車している。ラッシュというものを体験せずにいられることは俺に確実な安心感をもたらした。俺は少し眠ったようだった。

気が付くと電車はいつものハブ駅に滑り込むところだった。慌てて降りるとなにか様子がおかしい。見渡すといつもと異なるホームに停車している。時計を見ると遅刻寸前である。どうやら眠り込んだ間に電車は終点にたどり着き、折り返し運航してきたらしい。俺は焦り始めた。

いつもと違うホームにいるものだから乗り換え口にたどり着くことができない。生来の方向音痴が焦りと相まって俺に構内図を読ませない。闇雲に走り出してみるが出口ばかりに突き当たり、一向にいつもの改札に行き着くことができない。

夢中で構内を走り回るうちに、さっきまで自分が乗っていた電車に戻ってきてしまっていた。なぜか未だ停車中のその車両には自分の両親が一席開けて座っていた。二人は眠っていた。状況が呑み込めず、ドアの外から二人を眺める俺を押しのけて太った女が乗り込んだ。女はほかに乗客はいないにもかかわらずなぜか二人の間に座った。目を覚ました母が一人で車両を下りてゆく。俺は見てはいけないものを見た気がした。

もう遅刻は確定的だ。一か八か別の路線に乗るしかない。遅刻を回避する方法はそれしかないと思われた。手近な改札まで息せき切って駆けた俺は切符を買い求めようとした。その瞬間はたと気づいた。俺はすべてを忘れていた。

自分が勤めていた会社の名前も、最寄りの駅の名前も、何もわからないのであった。俺はただ曖昧に職場周りの風景を記憶し、それと合致する風景を見つけたら電車を降りるようプログラムされていただけだった。俺は半狂乱になってビジネスリュックの中身を漁ったが、自社を証明する資料などは何も出て来ず、茫然自失となった。会社に行くことをあきらめようとした。

そんな俺の肩を誰かが叩いた。それはしばらく会わなかった友人だった。彼はなぜかジャージ姿で、すこし若返って見えた。

絶望の淵にいた俺は救われたような気持になって彼と言葉を交わした。他愛もない話だったが、昔に戻ったように俺たちは笑いあった。ややあって彼は自分が就職浪人中だと打ち明けてくれた。どんな企業を目指しているのかと聞いたが彼は照れたように笑って、じゃあお前が改札を潜ったら叫ぶよ、と言った。そこで俺はやはり会社に行かなければ、と思い直した。

それじゃ、といって俺は踵を返し、改札に切符を通す。振り向くと彼はもっと進めとジェスチャーを飛ばしてくる。俺は子供遊びのグリコのように三歩ごとに振り返って、彼が進路を教えてくれるようねだった。

五回ほど繰り返しただろうか、俺がホームに昇る階段の前に達すると彼は大きく息を吸ってこう叫んだ。


「コロプラだ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!」


俺はその瞬間に自分がコロプラに勤めていること、そしてその本社が荻窪にあることを思い出した。ホームには電車が迫っている。あれに乗って荻窪に向かえばギリギリ始業時間に間に合うと直覚した。俺は振り返る間もなく階段を駆け上がり、電車に身を滑り込ませた。彼への感謝の思いで胸がいっぱいだった。彼とまた会社で顔を合わせる日が来ることを願った……。

結論から言うと俺は逆方向の電車に乗っていて、荻窪にはたどり着かなかった。それに気づいたのは始業時間と同時刻だった。その瞬間、俺はスーツの下で少しだけ小便を漏らした。膝にビジネスリュックを抱えたままだったのでまだ周囲には気づかれていないようだった。電車は知らない風景を俺に見せつけるように、快調に進んでいった。

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目を覚ますと俺はコロプラの社員ではなかった。膝は未だギシギシと軋んでいた。


下腹部に強烈な違和感があった。人生で初めて夢精していた。


なんで????????


あと調べたらコロプラの本社も荻窪じゃなくてぜんぜん恵比寿にありました。


どゆこと???????



おしまい

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