これからは個人に特化したオーダーメード医療も可能に成るかもしれない。

『医療者は「エビデンス」という一般的な情報に焦点をあてている。A氏は「エピソード」という個人の体験に焦点をあてている。だからこの議論では、互いの意見が衝突しているからというよりも、互いが違う話題に焦点をあてているためにかみ合わないのである。A氏が自身の発言において、「私はエビデンスのことについては十分承知の上で、自分の経験について語っているのです」と明言しているのはとても重要である。A氏が述べていることは、「EBMを知らない非専門家の見解」ではなくて、むしろ専門家以上にEBMの本質を衝いているからである。エビデンスという言葉は、実は多様な意味で用いられている。もともとエビデンスとは通常の辞書にも載っている一般用語であり、「証拠」とか「根拠」とか訳されていることが多い。またエビデントという形容詞は、「明白な」「自明の」というような意味であり、そこからの連想で「エビデンス」という言葉は、「誰が見てもそれにしたがえば必ずうまくいく明白なもの」としてイメージされやすい。しかし、医学において用いられる用語としての「エビデンス」は、それとはかなり違った意味をもっている。医学におけるエビデンスとは、「個別の患者への臨床における意思決定に役に立つ確率論的な情報」を意味する。もちろん医学におけるエビデンスそれ自体は、確立された科学的方法論(臨床疫学)を用いた研究の成果であり、論文として公表されたものである。しかし、ここで重要なことは、医学におけるエビデンスは、EBMという方法論の中で利用される「確率論的な情報」だということである。どういうことだろうか。EBMを学んでいる医師の多くが理解していることであるが、医療は不確実性と複雑性と個別性をその特徴としている。つまり、個々の患者さんに何が起こるかは一人ひとり異なるし、それは前もって確実には分からないし、何が起こったのかの説明さえも多くの場合ひとつには決まらない。EBMはそこに「確実なもの」をもちこむのではなく、あくまでも医療の不確実さにできる限り挑戦しようとするものである。EBMを理解しているものは、エビデンスによって医療の不確実性が一掃されるとは決して考えていない。したがってA氏がSNSで述べた、「エビデンスがあるからといってその効果は人それぞれによって違う」という見解は、EBMを知っている医師であれば否定することのできない適切な見解なのである。くりかえしになるが、EBMについて訓練を受けている医療者であればこのことを当然知っている。だから、エビデンスは「それを持っていれば必ず戦いに勝てる魔法の武器」にはならない。SNS上で「エビデンスで殴る」という行動は、なによりもEBMを適切に理解している医療者にとっては採用しにくい行動なのである。エビデンスで個人の意思を完全に決定することはできない。私たちにできることは「エビデンスを利用すること」だけである。「Evidence cannot make decisions, people do(エビデンスが決めるのではない。人々が決める)」は、医療における全く正しい言明である。それでは「できるだけ有用なエビデンス」について論じることには意味がないのだろうか? そんなことはない。個人の意思決定と集団の意思決定の両方を視野に入れた場合、最も重要なことは、「個人の経験を過剰に一般化してはならない」という原則である。個人の経験はその人にとってはある意味絶対的なものであり、誰もそれを否定することはできない。しかし、それを一般的なものであるかのように集団にそのまま拡張しようとすることは明らかな誤りである。これについても、A氏が「私は他の人に対して、これが正しいと言っているわけではない」と述べているのは適切である。~しかしPCAのこの見解の公表は、集団についての最善を目指す意思決定への努力と、個別のケアへの真摯なコミットメントは両立するということを示しているのではないかと思う。』

EBMの本質を理解せずエビデンスを盾に争うのは不毛な議論だ。ひとりとして同じ人間が居ないように医療はある確率によって行われているのだ。だが、これからは個人に特化したオーダーメード医療も可能に成るかもしれない。

「エビデンスで殴る」というやり方は、なぜうまくいかないのか
「エビデンスに基づく医療」から考える
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66820

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