哀愁を纏う事で今日も生きるのだ。
『そして私たちは「ただしさ」を渇望するあまり、「ただしさ」を与えてくれる「わかりやすくシンプルで、裏表のない悪」を求めるようになった。その「悪」に向かってみんなで一斉に礫(つぶて)を投げながら、隣を横目で覗き合えば、「私たちはいま、ただしい側に立って行動している」という保障と安心を得ることができる――そのような存在として「おっさん」は生贄になっているのだ。』
確実におっさんであり清濁併せ呑むを良しとして育ったモノにとっては今のギチギチとして余裕のない軽薄短小で偽善的なご都合