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【エッセイ】静寂・ホスピスにて

2023年8月14日、父を見送った。
88年の生涯だった。
葬儀場に飾られた遺影は、勤め上げた海上自衛隊の退官記念で撮影した制服姿の写真。
当時父は55歳。
今の私よりも、はるかに若い。
艶やかで晴々とした表情の遺影の父に向かって、ちょっとだけ文句を言う。
「私より、ずっと年下なんだが」
「俺よりも年下よ」
すっかり白髪頭になった、5歳年下の弟も言う。
「だけど、ま、一番、親父らしい写真なんじゃないの」
父のオムツ替えまで淡々と行っていた弟は、ホッと息を吐いてつぶやいた。
「親父、格好良いよね」

身体中に癌が転移した父は、最後の5日間をホスピスで過ごした。
全室個室で、付き添いは親族なら24時間滞在可能。
延命治療はできるだけ行わず、苦痛を緩和する薬物が投与される。
コロナ禍で大切な人の見舞いすら叶わない人が多かったのに、ホスピスはずっと一緒にいられる。
「お側にいてあげてください。時間はそれほど残されていないので」
担当医師が、柔らかい声でそう言った。
ここは、家族が最後の時間を過ごす場所なのだと、あらためて思い知らされた。

父のベッドの隣に簡易ベッドを設えて、泊まり込んだ。
あまりにも静かな夜が刻まれて行く。
昨年の秋、私は脳動脈瘤の手術で1週間ほど入院をしたのだけれど、深夜でも明け方でも病棟にはたくさんの人の気配があって、看護師さんの足音や話し声、ナースコールの音、患者さんたちの声や、誰かが鼻をかむ凄まじい音まで聞こえていた。

けれど、ホスピスの夜には音がない。
私は、耳を澄まして父の寝息を聴く。
それすらも、途切れ途切れになる。
祈りのような静かな時間が、病室に流れているだけ。
隣の病室も、その隣も、誰かとその誰かの家族が、静寂の中で最後の時間を過ごしている。

入院4日目の夜。
父の口が動いた。
「何? どうしたの? 言いたいことある?」
息だけになった弱い風のような声で、父は言った。

「おれは しあわせものだ」

元気な時は不機嫌なことが多く、人を避けて少しも幸せそうに見えなかった父が、何を思ってそう言ったのかはわからない。
「わかった。幸せなのね。よかったね」
私は、そう答える事しか出来ず、父のやせ衰えた胸をなでた。
父は、安心したように眠りにおちた。

「落ち着いているみたいだから、俺、代わるわ」
翌朝、弟がやってきて付添いを交代した。
自宅に戻ってスマホを見たら「病院に戻れ」とメッセージが入っていた。
すぐさま地下鉄に飛び乗る。
スマホが震えた。

「親父、今、逝った」
「……わかった」

なぜあの時、もう少し病室に残らなかったのだろう。
私は、ことごとく間が悪い。
祖父母も、母も、父も、妹も、私が病室を離れたほんの短い時間に逝ってしまった。

「お父さん、間に合わなくて、ごめんね」
穏やかな表情で眠る父の耳元に話しかけると、看護師さんが言った。
「そんなことはありません。充分です。わかっておられますよ」
看護師さんの声は、私の背中をそっとなでてふわりと消えた。

私と父は、けっして仲良しの親子ではなかったけれど、泣きじゃくる孫や曾孫たちに囲まれて、父は正真正銘「しあわせもの」だったのだと思う。

身支度を整えた父がホスピスを去る時、お世話になった看護師さんたちが廊下にずらりと並び丁寧に見送って下さった。

あの日のことを振り返ってみても、私の記憶には音がない。
父や弟の声は再生されるのに、他の音が何も記憶されていない。
ホスピスは、あの日もこれからもずっと静寂の中にある。

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