第三話 理学療法士
「よう降るのぉ」
病棟の薄暗い廊下で、背中越しに声が聞こえた。啓介は、ほんの少しだけ首を動かして声の主を確かめる。点滴棒を杖代わりした老婆が、スローモーションのような動きで歩いている。口角を持ち上げ精一杯の笑顔を作って、啓介は老婆に会釈した。
「あんた、誰な?」
濡れた布を絞ったような声が、啓介の足元に落ちる。
「え? あ、えっと、理学療法士のしま」
「しらん」
「あ、はぁ」
老婆のスリッパの湿った足音と、点滴棒を動かすキャスターのきしむ音が遠ざかると、雨音は激しさを増した。
廊下に連なる窓から見える街並みは、雨に打たれて輪郭が滲んだ墨絵のようだ。エントランスの植え込みに咲く紫陽花も、身を硬くして強い雨足に耐えている。
(さえんのぉ……)
啓介は両肩を回して、軽くストレッチをする。ついさっきまで、リハビリ室長の岡崎に延々と小言を言われていた。首から背中にかけての僧帽筋が、ガチガチに固まり息苦しい。
(患者とのコミュニケーションが下手って言われても)
理学療法士という仕事が、自分に向いているとは到底思えない。施術を行っていると、まったく喋れなくなる。
「愛想がない」「人の話を聞かない」「大柄」「顔が怖い」
とのクレームも入っているという。前二つは努力で改善される余地があると思うが、容姿となると啓介自身ではどうすることもできない。
「転職」という二文字が頭をよぎる。
(他人と触れ合わんでもええ仕事て、あるんかのぉ)
啓介は溜息を吐きながら、長く続く廊下を見渡した。
入院患者たちが、ゆらゆらと陽炎みたいに漂う間を、看護師が早足ですり抜ける。見慣れたこの風景も、病院食と消毒の入混じった匂いも、うっとうしい雨の音も、啓介の重い気持ちにまとわりついて、さらに息苦しさを助長する。廊下が泥沼のように両脚をズブズブとのみ込む。これ以上、前にも後ろにも動けないと感じた時、同じように、まったく身動きもせずにたたずんでいる影に目がとまった。
窓の端の暗がりに身を隠すようにして、雨にけぶる街を見ている。若い男だ。均整の取れた身体を松葉杖に預け、左脚には長下肢ギプスが装着されている。
(あの高校生か……)
数週間前、部活の早朝練習に向かう交差点で、居眠り運転の車に追突され重傷を負った。手術後、左下肢機能の完全回復は難しいと医師が伝えると、看護師の目を盗み車椅子のままで病院を飛び出して、車の往来が激しい道路に突っ込もうとした。数人のスタッフや患者が気づき道路の直前で止めたのだが、ちょっとした騒ぎになっていた。
「超ビビったぁ! うちら必死で追いかけたんよ!」
ナースセンターで、若い看護師たちが口々に言い合っていたのを啓介は憶えている。
(事故にさえあわんかったら、なんの屈託もなく高校生活を送れとったじゃろうに)
ここは、そんな予期せぬ不運に見舞われ苦闘している人たちで溢れ返っている。生と死も、ありきたりな日常風景のようにすぐ隣り合わせにある。
(しんどいのぉ・・・・・・)
啓介が泥沼から重い足を引き抜くように一歩を踏み出そうとしたとき、突然、辺りに派手な音が響き松葉杖が倒れた。窓辺の高校生が、身体をくの字に折り曲げて左脚を押さえている。反射的に啓介は駆け寄った。
「痛むんかね?」
屈み込みギプスに手を触れながら、何気なく高校生の顔を見上げた。まだ幼さは残るが、切れ長の目の整った顔立ちが苦痛に歪んでいる。
「こういう雨の日は、痛むけぇね。あ、えぇっと、自分、理学療法士の島田です」
倒れた松葉杖を拾い上げ手渡したが、彼は一言も発しない。
「部屋に戻れるかね」
啓介が介助をしようと手を差し出すと、無言のままいきなり手を振り払われた。
「え?」
一瞬だけ目が合った。彼の目は、底の見えない黒い空洞のように感じられた。
「あ、あぁ…… ごめん。すいません。えぇっと、お大事に、どうぞ」
啓介は、弾かれたように立ち上がると、そそくさとその場を離れた。苦い空気が胸のあたりに充満してくる。
(やばい。あれは、普通の高校生の目じゃない)
足下の泥沼が激しい雨の中で渦を巻き、啓介を丸ごとのみ込みそうな勢いで拡がり始めていた。
翌日の午後、啓介は岡崎室長と共に多職種カンファレンスに出席した。カンファレンスのメンバーは、外科と精神科の医師、看護師、臨床心理士、ソーシャルワーカー、薬剤師、そして理学療法士の岡崎と啓介だ。ひとりの患者に対して、それぞれの専門家がチームを組んで意見を出し合い、今後の治療方針を決定する。
カンファレンス室の片隅で、岡崎が小声で言った。
「島田、お前はPTを全うせえ」
「は?」
「は? じゃないわ。お前は、理学療法士。フィジカルセラピスト。頭文字はPとT」
「いや、それは知っとりますけど」
「当たり前じゃ。あんなぁ、昨日いろいろ小言も言うたけど、お前はこの病院のPTじゃ」
「はい」
「今回の患者はお前の担当じゃけん、リハビリの専門家として、覚悟して、しゃんと仕事せえ」
「はい」
前方のスクリーンに、患者の情報が映し出された。
『氏名、相沢修哉。十七歳。
私立徳星高校サッカー部の寮にて生活』
(相沢修哉? 廊下で会った、あいつか・・・・・・)
「あ、室長。やっぱり今回は、自分は外してもろうて、次から」
「やかましい」
啓介は、胃の中に鉛を詰め込まれたような心持ちになった。
『本年五月二十一日、午前六時。
部活の早朝練習に参加するため学校前の交差点を横断中に、居眠り運転の車に追突された。
骨盤及び左肋骨・左大腿骨骨幹部骨折。打撲複数個所。
時間をかければ歩く機能は概ね回復すると思われるが、今後サッカー等、激しいスポーツをするのは困難との所見』
レントゲン画像や検査データの数値を見ながら意見が交わされ、七月初旬の退院を目標にリハビリを主体とした治療方針がまとまった。
会議の終盤、臨床心理士の尾島沙都子が手をあげた。長い髪を後頭部できっちりと束ね、眉の上で切りそろえられた前髪が、眼鏡の銀のフレームの上に真っ直ぐに並んでいる。
「先日の自殺企図、車椅子での暴走の件ですが、その後、本人に何を尋ねても一言も話しません。母親に電話しても返答はうやむやで要領を得ませんし。生育歴なども含めて本人から聴き取りが出来ませんので、カウンセリングがまったく進展していない状況です」
「リストカットやODの傾向は?」
外科の田端医師が質問した。
「室長、ODって何ですか?」
小声で岡崎に尋ねたが、岡崎は何も答えない。聞き取った尾島が、啓介の顔を見据えるようにして答えた。
「リストカットはご存知ですよね。手首を傷つける、いわゆる自傷行為のことです。ODは、オーバードーズ。薬物の過剰摂取。鎮痛剤とか咳止めなどの薬を、過剰に服用することです。今のところ、相沢修哉にそれらの依存傾向は見られません」
「私も、気になっていることがありまして」
ベテラン看護師の小野田美和が発言した。
「入院してから今日まで、家族、学校関係者、友だちが、ほとんど病院に顔を見せんのです。事務的な手続きや、保険金、賠償金の話し合いがあるときは、もちろん来ましたけどね。私も母親に電話をしたんですが、家が遠方だという理由で来院を断られました」
「なんじゃ、そりゃ。親じゃろが」
岡崎が、吐き捨てるようにつぶやいた。
精神科の後藤医師が、ファイルを見ながら発言した。
「家族構成なんじゃけど、両親と5歳になる弟がおるねぇ。入院当初、母親だけが二日間来院しとる。学校関係者も最初だけか。父親、弟、友だち、誰ひとり顔を見せとらんねぇ。人間関係が非常に希薄いうんか、他者との関りを拒絶しとるんか…… まぁ、家庭環境に何らかの問題はありそうじゃし、しばらくは不安定な症状が続くはずじゃけん、注意深く関わるよう周知しとかんとね」
「そうですよね。入院中に自殺されると病院評価にも関わりますから」
田端医師の発言には、誰も反応しなかった。
(相沢修哉…… 屈託だらけじゃないか)
啓介は、彼の目を思い出していた。
(つづく)
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