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そしてバブル崩壊と就職氷河期

上京して3年、バブルは完全に崩壊した。
幼馴染みの剣道仲間で慶應理工学部のヤツが慶應の院に進むという。
彼の実家は裕福だろうから、それは許されただろうし、その判断は正しかった。今は元国営の通信会社で偉くなっている。
その会社名と彼の名前を入れて検索ボタンを押すと、MaaSかSARSだか、その会社の記事に写真入りで出てくる。秋葉原で一緒に怪しげな店を回ったのに。

彼の誘いで、三田祭は四年間すべて行った。三田キャンパスは田町駅から北側にある。
彼が言うには、田町駅南側には夜な夜な派手な女性たちが南に向かって行くという。バブル崩壊後にジュリアナ東京がオープンし、そこに向かうという。
世の中不景気に向かっているのを知らないように感じた。

件の銀行の面接が進んでいた。学校の友人に誘われて霞が関の官庁のOB訪問をした。
運輸省や通産省、いくつ回ったのだろうか。
1994年採用の新潟県職員一般行政職の採用予定は30人くらいだった。
例年1000人は受験する。前年は50人くらいだったので、倍率20倍から30倍に跳ね上がって、これは無理ゲームだと思っていた。
国家2種試験を受けようか、しかし広域転勤の少ない官庁なら人事院。国家2種ではないが、裁判所事務官や衆議院、参議院法制局なども回った覚えがある。

 結果、運よかったのか地方上級試験に通って今日がある。
 
 今から考えると、就職氷河期のどん底だったので、大学入試の勉強より、就職試験の勉強時間の方が多かったと思う。
 4年生には、必修や必要なコマはほとんど取り終えて、とらなければならない単位が少なかったので、ほとんど夏まで試験勉強に費やしたのだった。
 秋にはほっとして、学園祭は楽しむことが出来たが、まだまた同級生で就職活動をしている者もいた。

最後にはゼミのみんなは就職が決まったのだが、試験勉強は二度としたくない。
大学入試より大変だったから。

そういえば、1994年の2月頃に海上保安庁から「就職先、決まってますか?」という電話があった。二次募集していたようだ。
早く電話が欲しかったなぁ

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