内藤ソランジュ先生の思い出
早稲田大学でゼミの藤井俊夫先生の次にお世話になったのは、間違いなく内藤ソランジュ先生です。
フランス人の先生です。
私は社会科学部ですから、語学研究所(語研)の授業は卒業単位には認定されないので、あくまでも任意です。社会科学部の学生で語研の授業を取っている人はほぼいなかったと思います。
授業はほとんど第一文学部、第二文学部の学生でした。政経、法などの学生は研究者志望の学生が1人いるかどうかです。
ドイツ語は第二外国語として取る学生はいますが、フランス語はさらに少なくなります。
授業は、ほとんどフランス語のディスカッションのような授業でした。
あるとき、「もし金銭的欠乏で生活していかなけれなならなくなったらどうするか」という議論がありましたが、当時はバブル期の真っ最中です。
たいていの学生は、「どんな仕事でも働いて稼ぐ」という話をしましたが、ある文学部の女性は「売春でもして」と言いました。
先生は非常に怒っていました。
学校からの帰り道でも、その話をして、「ひどいことだ」と言ってました。
わたしも、その時は「マズいことを言っている」とすぐに思いました。
小さい頃、「レ・ミゼラブル」を読んでいたから、直感的にそう思ったのです。
内藤ソランジュ先生は、たしか記憶ではパリのLycée Victor Hugoのご出身で、パリ第三大学で博士号を取得されていたと思います。
「メーム・リーニュ」というのは京王線で先生は京王多摩線沿線に住んでおられました。わたしは調布で分岐する前の駅の住んでいました。
私が自宅最寄り駅で降りる前に、いろいろと会話をするのですが、これは山手線だったでしょうか。
新潟県の観光のキャンペーンのポスターが車内広告で貼ってありました。
(以下はフランス語での会話ですが日本語で書きます)
「ああ、この写真は私の故郷の写真だ」
「この海を背景にスポーツをしているこども達のところ?」
それは出雲崎の良寛堂の前で馬跳びをしている小学生くらいの子供の写真だったと覚えています。
「そうです。私の家から1時間くらいでしょうか」
「海がキレイですね」
「この建物は良寛という偉いお坊さんの記念の建物です。禅宗のお坊さんです」
「そうなんですか、素晴らしいですね」
そういうやりとりでした。
しかし、良寛和尚のことは名前を知っていても、どういうことで「偉い」のかよくわかりません。故郷のことを知らな過ぎると思いました。
だいたいこのような会話をして帰る感じでした。
退職記念の送別文をある先生が書いておられますが、内藤先生は「日本人学生は積極的でない」と、最初は授業に困っていたという話です。
田舎者とは恐ろしいもの。
わたしは法学での必要性に迫られて、卒業単位に認定されない授業を取っているわけですから、珍しく積極的な学生だったようです。
授業が終わると研究室に顔を出して、一緒に帰りましょう、言ってくる大胆な学生だったわけです。
卒業したら手紙を書こう書こう、と思っているうちに、「さてフランスのパリジェンヌにどんな手紙を書いたら?」と思っているうちに30年たってしまいました。
すでに退職されて、故郷のフランスに戻っているという話らしいです。
私も「シェフ=リュー」に就職すると言っていたので、故郷(実家からはとても通勤できない距離ですが)に戻ってしまいました。
せめてこのエッセイが届いて、もしくはご家族に届いて、学生時代の感謝を伝えられたらと思っています。
そういえば、当時はまだ若い娘さんがいて雑誌の「マリ・クレールを買ってきてほしいと頼まれているんだけど」と私に尋ねてきました。
「早稲田通りの本屋ならどこかにあるでしょう、あ、あった。これです」
「あ、ホントだわ」
という会話を覚えています。
何人かのご令嬢様もフランス文学者になられたようで、先生と共著の辞書をだされているようです。
あのマリ・クレールを買っていった娘さんでしょうか。