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”特別な人間”と思い込んじゃってイタイ!というマジョリティからの強烈パンチを喰らって

ノンバイナリーについてXでさまざまな議論が起こっていたのを見ました。

そしてノンバイナリーについて、さまざまな批判を目にしてしまいました。

うだうだと暇な時間があるから、自己の内面と余計に向き合いこんな“変なこと”を言い出す、とか、社会から認められたいなら社会に順応しろ、とか、精神疾患者、とか、この世には男か女かしかない、とか、ファッション性自認、とか、自分は特別だと思いたいだけのイタイ人たち、とか。


実はわたし、この前Xでアセクシャルや、性欲と性交欲の違いについて呟いていたら初めて叩かれたのですが、似たようなことを言われました。

確か
「性欲はあるけど他者に性欲を感じない」って言う人は、まだ周りに性的魅力を感じる人に出会ってないだけなのに、それを「自分は少数の特別な人間」と思い込んでいるアセクシャルの人たちがイタイと。

そう!

最近アセクシャルだけじゃなく、ノンバイナリーの方たちも含めて、マジョリティの方達から言われているのは
「セクシャルマイノリティを名乗る人間はただ自分を“特別な人間”と思いたいだけのイタイ奴ら」

という批判。

もう言われた時は、「ああ!マジョリティの方達はこんな角度から私たちの心を抉ってくるのかあ!!」という驚きと、感心と、悲しみでした。

そう。だって全く的はずれなのだ。

私がアロマンティックアセクシャルという言葉を知った時、本当に嬉しかった。
ああ、私が変なんじゃないんだ、他にも私みたいな人がいるんだ。
これはノンバイナリーを自認する宇多田ヒカルさんもインタビューの中で語っています。(2:30〜 本当に良いことを言ってくれているのでぜひ見てほしい!)

「初めてノンバイナリーという言葉に出会った時、ものすごくしっくりきたし、自分がどれだけその言葉を必要としていたか分からなかったんだ。『ただの言葉じゃん』っていう人もいるかもしれないけれど、ずっと違和感を抱えて生きてきた人間からすると”ただの言葉”なんかじゃないんだよね。」

そう、ただの言葉なんかじゃないの、ノンバイナリーも、アセクシャルも、アロマンティックも。

だからセクシャルマイノリティの人たちが、安心して身を寄せることができる止まり木のような言葉を、どうか”ただの言葉”とか、”特別だと思いたいだけ”のものだと言わないでほしい。

理解できなくていいから、否定しないでほしい

マジョリティの方のこの的外れで傲慢な批判を目にするたびに、朝井リョウさんの『正欲』に出てくる一節を思い出します。

マジョリティというのは何かしら信念がある集団ではないのだと感じる。
マジョリティ側に生まれ落ちたゆえ自分自身と向き合う機会は少なく、ただ自分がマジョリティであるということが唯一のアイデンティティとなる。
そう考えると、特に信念がない人ほど”自分が正しいと思う形に他人を正そうとする行為”に行き着くというのは、むしろ自然の摂理なのかもしれない。

『正欲』 朝井リョウ

怖いけれど、全くその通りな気がする。
マジョリティの方達ほど、幸運にも?セクシャリティを含め自分と向き合っていないのに、マジョリティであるが故に”自分は社会の王道にいる”感覚だけ強くなり、マイノリティを”間違っている”と見なし、ご丁寧にも”正そうと”する。

私はノンバイナリーを自認していませんが、彼らを”正そう”なんて全く思っていません。

というか私自身アメリカに今いることもあって、日本はまだsexgenderをごっちゃにして考えている人が多い気がします。

今必要な議論は、ノンバイナリーなんて存在しない!とかトランスジェンダーはおかしい!という0か100みたいなものではなく、どれだけ社会や公共の場で、sexではなくgenderを尊重できるか、という議論だと思います。

だからある場面では(例えば書類で性別を選ぶときとか)sex よりgenderがより尊重できるし、逆に温泉などではgenderよりsexを重視しないとみんなが安心できないのかな?みたいな議論が私は欲しい。


マジョリティの斜め上からの強烈パンチを喰らって色々落ち込んだりしましたが、やっぱり言葉にして抗議したり、怒ったりすることが大事なのかなと思ってこのnoteを書きました。

Xでちゃんと声をあげてくれた同じアセクやアロマの方の怒りにフリーライドするのも嫌だなと思ったので!

皆様、いつも勇気と安心を与えてくれてありがとうございます!🌸🔥

しがつ

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