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百万一心の碑 風景印と記念碑

 広島県安芸高田市にある吉田よしだ郵便局の風景印には百万一心の碑が描かれています。

百万一心の碑

元就は城拡張の際に、それまでの風習であった人柱に替えて「百万一心」と彫らせた巨石を埋めたと伝えられています。その拓本を模刻し建設したものです。

 中国地方を代表する戦国大名の毛利元就もうり もとなり(1497-1571)が生まれたのは、この風景印のある安芸高田市にある郡山城でした。安芸高田の国人領主に過ぎなかった毛利氏が十国を束ねる大名に一代で第12代の当主となり息子に伝えた「三本の矢」の逸話が有名です。

 そもそも人柱(ひとばしら)という言葉はあるものの、実際に城郭建築や大規模な土木工事の際に神の心を和らげる意味で生きた人を埋めるような風習が本当にあったのでしょうか。

 大規模な工事であれば安全上の問題で犠牲者が出ることはあったかもしれませんが、実際に工事に先立って生き埋めにするようなことは行われていなかったようです。

 ともかく伝承の巨石は見つかっていないものの、1931年(昭和6年)には拓本を元に石碑をを作り郡山城に建てました。

 百万一心と書いてあるのですが、一日一力一心とも読めるように書かれていることがミソで、日を一つに、力を一つに、心を一つに、という教えだそうです。


記念碑の地図

 記念碑は毛利氏の居城であった郡山城址にあります。


碑文

百万一心礎石の由来

口碑の伝うる所によれば毛利元就郡山築城の際鎮護の儀
に代えるの意を以て姫丸壇の礎石に百万一心の文字を刻
し之を埋めたりと蓋百の字特に一劃を省き一日とし万の
字故らに略字に従う故に之を分解すれば一日一カー心と
なる即ち日を一にし力を一にし心を一にし衆以で事に當
らば百事就らざるなく城守の法亦この外に出でさること
を寓せしならん其礎石今所在を逸すと雖も文化十三年夏
長州藩士武田泰信なる者郡山城趾に登りこの石を見欣喜
措く能はず其の文字を模写し帰り山口豊栄神社に奉納し
たるもの現存す本碑は即ち之に因りて作製したるものな


吉田郵便局

 風景印は郵便局で押してもらえる絵入りの特別な消印で、色は赤茶色です。郵便窓口に「風景印を押して出してください」とお願いすれば、差し出す手紙やはがきに押してもらえます。また、63円以上の切手を貼ったカードなどに押してもらえます。その場合、差し出さずに持ち帰ることができます。

 風景印は1998年(平成10年)3月24日から使用開始されたものです。郵便窓口は平日のみの営業です。



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