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紀貫之顕彰碑 風景印と記念碑

 高知県南国市にある南国(なんこく)郵便局の風景印には、紀貫之顕彰碑が描かれています。平安時代にこの地で土佐守を勤めた紀貫之に関連する貴重な石碑です。

紀貫之(きのつらゆき 871?-946)

 紀貫之は平安時代を代表する歌人で三十六歌仙の一人です。生年ははっきりしていません。

 紀氏一族は平安遷都を行った桓武天皇の頃に活躍した名家でしたが、この時期は藤原氏の天下で、宮廷では傍流となっていました。

 しかしながら、醍醐天皇が命じて905年に作られた『古今和歌集』の撰者として和歌の第一人者と見られるようになりました。本業の官職としての出世には恵まれず、930年に土佐守に任じられ帰任の935年に著したのが以下の書き出しで有名な仮名書きの日記スタイルの文学『土佐日記』です。

 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。

 土佐日記は、帰任の旅程に合わせて話が進行していくもので、土佐守の日常を描いたものではありません。当時の太政大臣藤原忠平に対する官職申請の意味合いもあったそうです。その効果はあったようで、従五位上に遅い昇進を果たしました。

 土佐日記はその後の女性による仮名書きの文学にも影響を与えた重要な作品です。

紀子旧跡碑

 この紀貫之を高く評価し江戸時代に石碑を建てたのが、土佐の藩士であった尾池春水(おいけ はるみ 1750−1814)です。主君である山内豊雍(やまうち とよちか 1750−1789)がスポンサーとなって1785年(天明5年)年に建てられたのが「紀子旧跡碑」です。現在この地が現在「紀貫之邸跡」となっています。碑文は公家で歌人の日野資枝によるものです。

あふく世にやとりしところ末遠く つたへんためとのこすいしふみ

権大納言資枝

千載不朽碑

 しかし、風景印になっているのはこの碑ではないようです。この石碑の近くには「千載不朽」と書かれた碑があり、碑の形状からするとこちらが風景印の図案に取り上げられたものと考えられます。

 「千載不朽」碑は、1920年(大正9年)に建立されたものです。山内豊景(最後の土佐藩主山内豊範の長男で侯爵)の題額、松平定信の碑文(1809年)と御歌所寄人の大江正臣による筆となっています。

 この碑文には現地案内板によると以下のように記載されています。

はかなき道にのみ名をとどむるこそいとくちをしき わさならめ。 此君土佐の守たりし時、萬わたくしなかりしかは、そのいこい給ひし所をさへ後の世にもしたいものし侍るとこそ聞えける。 かくてこそ 花さへ実さへ、とことはに、そのかくはしさをのこすとこそいふへけれ。 近き世の守なる君、ここに石ふみたてて千とせ萬代にも伝へてんとはかり給ひし こころはせも、またくちしとこそおほゆれ、くはしきことはかきつくしてふみにゆつりてなん。

文化六年弥生 右近衛少将 源 定信 しるし侍りぬ
大正七年歳暮 御歌所寄人 大江正臣 筆とりぬ 

 松平定信(1759-1829)とは江戸幕府で寛政の改革にも当たった陸奥国白河藩の藩主です。昔の文なので正確に読めませんが、「石ふみ」とは石碑のことですので、先の藩主が建てた「紀子旧跡碑」のことについて手紙の中で讃えたものを後年に石碑としたものと思われます。

紀貫之邸跡(動画)


紀貫之邸跡(地図)

南国郵便局

 風景印は郵便窓口で郵便物を差し出す時に押してもらえる赤茶色の絵入りの消印です。63円以上の切手を貼ったカードなどに押してもらって差し出さずに持ち帰る(記念押印)こともできます。

 南国郵便局はゆうゆう窓口設置局で、土曜・日曜日も風景印を押して郵便を出すこと(引受押印)ができますが、ゆうゆう窓口での記念押印は断られる可能性があります。

風景印南国


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