「う」 運動会

日本では語尾に「会」という一つの漢字をつけることで、どんな内容でもグループ化することができる。通常は「懇親会」や「演奏会」のように「名詞」の後ろに付けるにつけることで、人々を集めて開催される一般的な行事や集団を表現すること基本だった。だが、誰かがこの「会」の持つ大いなる可能性に気がついたらしく、名詞意外にも利用可能であることに気がついたのだ。一度解き放たれた用法は勢いを増し、今では前半部分が文章でも「会」を付けることで成立してしまう。「大阪城の周りを走ろう会」は勿論のこと、「皆でお好み焼きを食べる会」や「〇〇の新居でたこ焼きを食べて壁紙を油で汚してやろう会」も通じてしまう。それどころか、目的だけでなく具体的な行為まで含まれており、会の名前を目にするだけで誰にでも理解ができる優しい仕様である。今まで基本的な用法として浸透していた「演奏会」や「懇親会」が、具体性に欠けるため不親切だと感じてしまうほどだ。汎用性と専門性のせめぎ合いである。しかし、これはスマートフォンとコミュニケーションアプリの普及により生まれた流れだ。少なくとも、ポケベルの文字コードを記憶することが学生としての基本スキルと考えられていた時代には、まだ「会」の持つ可能性が広く共有されていなかった。

私が学生だった時代、最も知名度の高い「会」といえば「運動会」だった。記憶では秋におこなっていた気もするが、姪っ子の話によると最近は季節が異なるようだ。理由は知らないが、世の中常に変化しているということなのであろう。そういえば最近はランドセルもカラフルになっている。私の記憶では男の子は黒、女の子は赤という一択だった思う。今では選択肢も増え、色とりどりのランドセルが小学生達の背中を彩っている。ピンクにグリーン、ブルーにパープルまで、戦隊モノが作れそうだ。

話が少し逸れたが、運動会の名称も変わっていった。私が通っていた小学校では「運動会」、中学校と高校では「体育祭」となっていた。名称は変われどおこなうことは変わらず、体操服に着替えて、徒競走や綱引き、組体操といった競技で順位を競うものだったと思う。ちなみに、小学校の頃から競争心に欠けると成績簿に記載される人間だった私は、運動が得意でなかったことも合わさって、運動会でテンションが上がった記憶はない。では、季節を変えて催される「文化祭」ではどうだったのかというと、こちらもあまり記憶にない。文化祭には順位を競うという趣旨はなかったと思うので、どうやら競争心云々の前に、好奇心が欠如しており「楽しむ」ということが出来なかったようだ。まさに可愛くない奴である。

今考えると、幼少期に欠落していた好奇心を三十路を超えてから取り戻したのかもしれない。昔は興味を持つことができなかった旅行、スポーツ、音楽、絵に勉強まで、今の私には興味を引く事ばかりだ。子供の頃に現在の好奇心を持っていれば、私の人生は大きく違っただろう。だが、私は子供に戻りたいか、と聞かれれば、戻りたくないと答える。多くの人が同じだと思う。みんな知っているのだ、戻ったとしても同じことを繰り返すだけだということを。結局、今が一番と思えるよう毎日を過ごすことが大事なのだ。

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