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アラサー男性、ゴスロリを買う

最近ゴスロリを買った。

スカートとレイヤードスタイル用のエプロンドレスをMIHO MATSUDA、大きめのサイズが欲しかったのでブラウスをRonRonの通販、ヘッドドレスをALICE and the PIRATESでお迎えした。パニエだったりコルセットだったり揃えたいものはまだまだあるけれど、ひとまずはそれっぽい感じで一式着られるようになった。

ずっとゴスロリを、原宿らしい素敵な服を着たいと思っていた。

原宿カルチャーに興味を持つようになったきっかけは、中学生のときに出会ったきゃりーぱみゅぱみゅの存在だった。『PONPONPON』のMVを初めて観たときの衝撃を今でも覚えている。目の奥まで貫くような極彩色のカラーリングに、目玉に戦車……脈絡もなく飛び出してくるオブジェクトの数々。世界を作るとはこういうことなんだと、クリエイティブのことなど何も知らないような当時の私でもそんなことを思わされた。そして芽生えたのはこのアーティストだけを追いたい、というよりも「この世界をもっと知りたい」という気持ちだった。

気がつけば、その後初めて買ってもらった携帯のiPhone4Sは「原宿風」にめちゃくちゃデコったし(可能な限り派手なステッカーで全面を覆い、夥しい量のストラップとぬいぐるみをぶら下げていた)、進学した先の高校では部活の先輩から「カラオケで頑なにきゃりーぱみゅぱみゅを歌うやつ」と認識されていた。

でも、当時の自分にできたのは精々そこまでだった。彼女のような世界を自分でも作れたかといえば到底無理だったし、一部でも身に纏えたかといえばそれもできなかった。容姿にコンプレックスのあった私には何度考えても「原宿」が似合うとは思えなかった。服を着ることは日常のありふれたごく簡単な行為であるはずなのに、時に自分の好きの先にあるものがどこまでも遠い。

それでも、もし自分が好きな服を好きなように着れるなら。最初の憧れはカラフルでレインボーな服だったけれど、着るならちょっと違うかもしれない。可愛らしさと、シルエットの美しさ。そして華やかさ。とっておきの素敵を叶えながら数多の文化を背負った孤高の強さの証であるのは、きっとゴシックロリータだ。いつからかそんなことを思い、漠然とした憧れをずっと抱いていた。

以来、原宿という場所はなんだか居心地の悪い場所だった。何かしらの用があったりなかったり。原宿を自分の足で訪れる度に、私はここの住人ではないような気がしながらラフォーレ原宿の地下を歩いていた。ロリータブランドが並ぶB1.5Fを興味のないようなフリをしてぐるぐる歩いて回ったのも一度や二度のことではなかった。周りには素敵なお洋服が溢れているのに、自分はそれに近づくことができない。ラフォーレ原宿地下の男子トイレに据えられた、望まない自分が映る鏡のことが嫌いだった。

ある人の思いが「物語」として光を浴びるのは、それが諦めずに戦うことのできた場合ばかりだ。親の反対を押し切って志望校を決めた話。世間の目線に負けず、好きな衣服を纏って自分らしくあり続けた話。そんな漫画や小説の中で描かれるような物語は、確かに私たちに決断のための勇気をくれるものかもしれない。

その一方で困難を克服する物語の裏には途方もない数の、物語未満の叶わなかった思いがある。私たちはいつだって劇的でもない壁にぶつかり、しょうもない躊躇いで自分自身の道を阻む。

家庭を思って親に従い、進路を諦める。自分の理想から目を逸らしてなんてことはない服を着る。純然な勝利なんてものはそうそうあるものではない。私たちは負け続けながら生きている。でも自分のことを棚にあげて言えば、私はそんな選択が、戦えなかったあなたのことが責められないでいてくれと思う。

欲望すらも外的な何かによって突き動かされるこの社会で、私が/あなたが真に望むものがなんなのかはわからない。それでも、あなたの思いが負けることがあればそれは間違いなく憂慮すべきことだし、そしてあなたが全て背負うことでもない。環境の軋轢も、社会からの抑圧もあなたの外からやってくるものだ。輝く物語から慰めのような勇気をもらったところで、過去の敗北が惨めになるだけのことだってある。諦めても、負けても、その末にたどり着く場所がまたあることを、その場所が救いになることを私は信じているし願っている。

私が今回着てみたかった服を買えたのも決意だとか勇気だとか、そんな偉そうなきっかけがあってのことではない。ほんの偶然のようなものだ。目の前のことだけ見ていたらいつの間にか時折人前に出て活動をすることになって、暖かい言葉をかけてもらって、そのおかげでちょっとずつ、ちょっとずつ自分もどうにかなるかもしれないと思えただけだ。

ラフォーレ原宿の地下、MIHO MATSUDAの店舗でいそいそと試着と購入を終え、逃げるようにして帰った自宅であらためて洋服たちに袖を通す。愛好家の話を聞いていると、初めてロリータを着たときの体験について「雷が落ちたような」だとか「この服を着るために生まれてきたように思えた」だとか、よく運命的な言葉が伴う印象がある。ただ、私には長年の憧れとは裏腹にそこまで素直な喜びはなかった。

もちろん、ずっと欲しかったものが手元にあることの喜びは何物にも代えられないものだった。ただ、男性の肩幅に無理やり合わせたブラウスは窮屈だし、頭身のバランスはどうにもおかしいように見えるしで不恰好さは拭えなかった。私には資格がない? 纏ったゴスロリが、自分を外から守ってくれる鎧のようには到底思えなかった。

それでも、この服は戦場で拾った1本のナイフのようなものだと思った。それまでの私は1挺の拳銃すら持たずに地面を這いつくばっていたようなわけで、たとえ頼りなくともこのナイフは手放してはいけないものなのだと、これで戦わなきゃいけないのだとそう直感した。

私が目論んでいるのは、規範の破壊だ。嶽本野ばら原作の『下妻物語』で、ロリータを愛する主人公の桃子がジャスコの服ばかり着る地元の住人を腐すようなシーンがある。誰がどんな文化に重きを置いて生きるかは人それぞれだけれど、見えない規範に取り込まれ、それに気づけないことはもったいないことだと思う。できることなら、私たちを蝕むしょうもない規範なんて今すぐ破壊して葬り去ってしまいたい。

だけれど、同時にそれが難しいことも知っている。でなければたかが洋服の一着で、振る舞いの一つでこんなに悩むことはない。今の私にできるのは破壊ではなく、良いところがこの身を使って規範を徐々に拡張していくことぐらいだ。そのぐらいは、どうにかしてやってやりたいと思う。

早速だけれど、今はもう次に欲しい服を考えている。スカートは同じくロングでもう少しフリルの付いたものが店頭に並ぶのを待てばよかったと少し後悔。コルセットは良いものが中々値が張ることを知ってしまったので、こちらは購入するのはもう少し先に。とにかく、これまで眺めるだけだったものに自分が着る/買うという選択肢が生まれてしまったことで気持ち的にはずいぶん大忙しだ。次のグランバザールは年明け? 待つには長い。

原宿に出るゆうれいは水玉のシューズを探す 足もないのに!

志賀玲太
自撮り