吉野拾遺 下 16 右馬允行継遁世ノ事

【右馬允行継遁世ノ事】
 二條関白殿にありける右馬允行継といひけるは、去ぬる八幡の戦にいかなることかありけむ、かへらせ給ひて、御勘気有りければ、をさなき子ひとりと、女房とをむつたの里に、したしきものの有りけるにあづけて、高野の山にのぼりて、かみおろしけり。三年ばかりありてわが庵に来りて、あめしづきとなきけるを、「いかに」ととへども、いらいぇもせで、心のゆくかぎりなきて、起きなほりいひけるは、「諸国修行の心ざし侍りて、高野を出で侍りしに、さすがに過しがたくて、六田のあたりを、よそながらもみなましとおもひて、そのほとりをさすらひ侍りしに、あたらしき塚の前に、十あまりなるわらはの、ふししづみてなげき居けるを、あはれなるさまの見過しがたくて、「いかに」ととひ侍りければ、「父は三とせばかりさきに世をのがれて、いづちともなく出で給ひ、御おとづれも候はぬを、母君のあけくれなげき給ひしあまりに、御心みだれて、すぎつる夕ぐれのほどに、まぎれいでさせ給ひて、河よどのほとりに、身をしづめ給ひしを、人々のなきがらを尋ねて、このつかにこめさせ給ひて候へども、したしかりつるもうとくて、御跡をとふべきたよりもなく候へば、一かたならぬかなしさに、かくて候ふなり。御経をよみて給ひてん」といひし俤の、見しここちしければ、あまりかなしくおぼえて、いかにめぐり来にけむと、くやしきまでにおもひ候ひながら、こころづよく経をもよみ、念仏手向けて、草の陰にはいかがおもふらんとおしはかるにも、涙にむせび、のこしおきけるわらはさまを見るにもたへがたく、めももたげられ候はざりし。やがて日もくれにければ、「いざわがやどへ」といざなひ候ひしほどに、行方のこころもとなく侍りて、ゆきさふらひしに、すむべくもあらぬほどにあれはてて、むかしさふらいしつかへ人もいかなになりぬるにや、「ただひとりのみすむなる。したしき人はおはせぬや」ととへば、「まづしくなり行くままにとはず侍り。むかしつかへし女の、このあたりにのこりて、朝夕のいとなみをして、あたへぬるばかりにてこそ候へ」と夜もすがらかたりけるは、皆我が身のうへのことなりけり。夜も明けなんとしければ、かの女のきたりなば、見わすれぬ事もやあらましとおもひて、「はか所にて経をよみてん、かへりこむ程に立寄りなん」といひて、たち別れ侍る。この心のうちをおしはかり給へかし」とかたるに、ともに袖をぬらし侍りて、「げにもかかるほだしは候はじ。行へしられず出で給ふとも、玉の緒の絶え給はぬほどは、わすれたまはじ。後の世をさまたぐるにぞあらん。ぐし給へ、とのへ奉りてむ、こころやすく後世ねがいおはせよかし」といひければ、いとうれしげにてかへりにけり。何とかたばかりけむ、やがてぐして来りけるを、ありつる事を申してともなひつれば、いと不便におぼして、御身ちかうめしつかはれて、この比は右馬允行朝と名のりて、むらなき剛の者にてありけり。

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