ウィアード・バービーのストライキを夢想する――『バービー』覚書

グレタ・ガーウィグ監督の(と、ここは意図してしっかり枕詞を添えさせていただこう)『バービー』を見てきた。とてもいい映画だった。エンターテインメントとして文句なしに愉しく、かつテクストとしての読み解き応えも十分な、手ごわい作品だったという二重の意味において。

単に「フェミニズム映画です」といって(褒めるにせよ貶すにせよ)済ませられない豊かさにかんしては、さしあたり以下のすぐれたレビュー:
・杉田俊介さんの連投ツイート(https://twitter.com/sssugita/status/1690539124430864385
・三木那由他さんのブログ(https://mikinayuta.hatenablog.com/entry/2023/08/13/214000
あたりをぜひご覧いただきたい(全部に同意というわけではないです)。

ここではほんの一点だけ、ケイト・マッキノン演じるあの「ウィアード・バービー」について、思うところを書いておきたい。

ケンによる白色革命を経る以前の第一次バービーランドが決してフェミニズムの理想郷として全肯定されているわけでないことは、バービーのもたらした変革を『2001年宇宙の旅』のパロディというかたちで描き出した割とショッキングな冒頭(*1)からすでに予感させられるわけだけれども、マルチレイシャルで車椅子に乗ったバービーなんかも周到に描き込まれているあの共同体が、必ずしも誰でもを包摂しているのではない、という点からも明らかなのだった。すなわち「ウィアード(weird)」で相対的に年老いた(ように見える)バービーのあからさまな排除である。

でそのウィアード・バービーは、例えば『人魚姫』の魔女がそうであるように、きわめて伝統的な役回りであるが、共同体から排除されながらも(だからこそ)共同体の内部では解決不可能な問題が生じた際には唯一頼ることのできる存在として、畏怖と軽蔑を同時に一身に背負っている。こういう魔女的な存在を肯定するような身振りが、地味にこの映画のもっとも今っぽいところなのでは、という気もしたが、しかし問題は(作品によって、というよりは物語において)本当に彼女は「肯定」されたのか、という点にある。

太っていても、白人じゃなくても、体が不自由でも、女の子ならばキラキラできる――ただし望ましい「キラキラ」のかたちをあなたがおとなしく求める限りね、という(ネオ)リベラル・フェミニズム的ボディ・ポジティブの欺瞞を、まさしくウィアード・バービーの存在は告発している。と、ここまでは異論の余地のないところだと思う。真魚八重子さんがかつて指摘していたソフィア・コッポラのゴス差別傾向なんかも考え合わせるべきだろうけれども、包摂の技術でもある特定の支配的なコード(バービーランドにおいてはピンク至上主義)に対して常にすでに「キモい」仕方で抵抗してしまっている存在が共同体にとって最後の他者であることは、いかにリベラルな共同体においてもなお真理なのだ――これがウィアード・バービーが示すところの明白な教訓である。

もっともマーゴット・ロビーが「欠点もある(imperfect)」(A・マクロビー)ことを吐露したところで何の説得力もないのと同様(*2)、あのウィアードがふつうにクールでもある限り、その点にかんする批評としての説得性には留保がつかざるをえないわけだが、それは今は措いておこう。ここで論じておきたいのは、ケンから国家を奪い返したバービーたちとウィアード・バービーのあいだで最後に交わされる短い対話のことである。

バービーたちはウィアード・バービーをウィアード扱いしてきたことについて謝罪し「あなたに大臣になってほしい」という。それに対しウィアード・バービーは「ゴミ処理担当大臣なら」と答え「決まりね!」とかなんとかいって、丸く収まる。たしかそんな感じのシーンだったと記憶している。このときウィアード・バービーは一見「謙遜」の素振りで「キラキラ」とは程遠い役職名を申し出ているのだが、バービーたちはそれに対し「いやいや何をおっしゃる」と言っていっそ大統領にでも持ち上げるのかと思いきや、申し出のとおり任命してしまうのだ。これは「あなたがそうなりたいなら、あなたはそうなれる」という理念に字義通り従った結果――なのかもしれないけれども、それよりはどこかおざなりな、お飾りでもとりあえず役職を与えたことにすれば申し訳が立つから、くらいのテンションに見えてしまう。

そして実際、バービーたちは「自分からクソつまんねえ役職を申し出てくれてよかった、調子に乗って「大統領にしろ」とか言われたらどうしようかと思った」くらいに内心受け止めていたのではないだろうか。なぜならゴミ処理といったって、そもそもバービーランドに「ゴミ」というものはあるのだろうか。本物の液体を口にしたこともない、死が排除された世界に、処理すべき「ゴミ」などあるのだろうか?

ひょっとするとバービーたちはウィアード・バービーのこの申し出を、もう少し好意的に(それにしたってなお手前勝手にではあるが)「存在しないものの「担当大臣」を申し出ることで、相手のオファーを無碍にすることなく実質辞退するスマートな返答」と受け取ったかもしれない。それに対し「実は彼女の言う「ゴミ」とは「劣化」したバービーのことなのだ!」という読みも可能な気はするが、そこまで悪意ある解釈をここではとらない。いや悪意のほどは比較できないけれど、もう少し込み入った読み方をしてみる。

というのはつまり、あの日以後バービーランドは「死」に汚染されてしまった(*3)、この夢の国からは「永遠」が失われ、その結果「ゴミ」もまた生じるようになった――そのことをウィアード・バービーだけは知っていたのではないだろうか?ということだ。

もし本当にゴミが存在するならば、ゴミ処理担当大臣はジョークの効いた名誉職どころか、エッセンシャル・ワーカーである。そしてしばらくは少なくとも、その仕事を彼女は黙々とこなすことだろう。変化を受け入れ人間になることを選んだステロティピカル・バービー以外のバービーたちは、死の侵入=永遠の終わり=「ゴミ」の生じる世界への変化に薄々気づきつつも、その事実を無自覚に否認しようとするだろうし、ウィアード・バービーの完璧な仕事ぶりは、その否認をほとんど完璧にサポートするだろう。

だがあるとき――そのきっかけは本当にただの気まぐれに過ぎないかもしれないが、ウィアード・バービーは突如ゴミ処理の仕事を放棄する。バービーランドは当然ゴミにまみれ、恐慌に陥る。バービーたちは遂に自らの死の可能性に、あるいはその助走としての老いに直面せざるをえなくなる。そのときウィアード・バービーが何を語るのか、その言葉が慈悲かそれとも冷酷なのかはわからない。だがバービーランドが本当に(元のままに戻るのではなく)「変わる」とすれば、その瞬間を措いてほかにないと思うのだ。

こんなふうに、私はウィアード・バービーのストライキを夢想する(*4)。


(*1)観客にショックを与えることは悪いことではない。ただし私としてはこれを演じることが当の子供たちにとってショッキングな体験でなかったことを――例えば彼女たちが実際にもっていたのはバナナ型のクッションか何かで、それをCGに人形に置き換えたとか、撮影の際に適切な配慮がなされていることを――祈るばかりである。

(*2)この点については映画内でナレーションがつっこんでいた。このメタ演出は『ちびまる子ちゃん』のキートン山田を参考にしたのではないかとひそかに疑っている。

’(*3)フィクションゆえに永遠であったはずの世界に「死」が侵入するという筋書きは高橋源一郎『ゴーストバスターズ――冒険小説』中の「ペンギン村に陽は落ちて」を想起させる。そして私はこの作品についてかつて論じたことがある(しだゆい「キャラクターとその影――高橋源一郎の「ペンギン村」から」『一連』vol.3)。

(*4)ところで全然関係ないのだが、ケンが「カーサ・ハウス」とか「ケンダム・ランド」とか「首相大統領」とか、やたら重言的な造語法を多用するのは、あれはなんなのだろう。単なるバカっぽさの描写なのか、それとも日本でいう「マイルドヤンキー」的な、ある種の男性性に共通するセンスの象徴だったりするのだろうか。それはともかく、この映画における男性性の嗤い方は全体に、一歩間違えると「サチモスのファンが瑛人を嗤う」ような単なる文化的卓越化に終始してしまいかねない危うさがある、ということは言っておきたいと思う。ヘビィでマッチョなサウンドをバックに「ちょっとダメな俺」をうたうロックバラードは確実にダサいのだが、そのダサさをむちゃくちゃオシャレな文化的強者である(と思われる)ガーウィグとバームバックが嗤うとき、専らディスタンクシオンを旨としてその視線に同一化する――できてしまう――「男」がいて、そういうやつの男性性が最も厄介である、といったことは容易に生じうるからだ。自戒を込めて。


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