分かち合いとしての映画――三宅唱『夜明けのすべて』

かつて、友達を亡くしたことがある。この、自分を主語にした言い方にどこか居心地の悪さをぬぐえないまま、それでもたしかに在る傷の座を自分の内側に守り通すためのギリギリのエゴとして、それを選ぶ。彼とは高校で出会い、大学を出て働きはじめてからも定期的に連絡を取りつづけてきた、私にとってはほとんど唯一の相手だった。私だから話せたことも、私だから話せなかったことも彼にはあっただろう。亡くなる一週間前、新宿のロックバーに行こうと連絡があったが私は仕事を理由に断っていた。それきりだった。

通夜と葬儀には出ることができた。東京に戻る新幹線のなかで、ふと、このことを誰かに話したいと思った。同じような経験をして、できれば私のことも彼のことも知らないひとがよかった。そのときに、例えば三宅唱の『夜明けのすべて』に出てくる「分かち合いの会」のような場があることを自分が漠然とでも知っていたかどうか、今はもう覚えていない。ただいずれにせよ私はそういう場に、現在に至るまで一度も足を運ばずにいる。

死別経験者のための「分かち合いの会」に限らず、何か、とりわけ傷にふれるような経験について語り合い聴き合うための場が、いろいろなところにいろいろな目的で存在していることを、いつの間にか知るようになった。そういう場では事前の約束事によって、何を言っても批判されたり意見されたりすることがないという意味での「安全」が参加者に保障されているということも、なんとなく聞き知っている。それは、時間と場所を厳密に区切るからこそ可能なある種の「非現実」だろう。ところがその非現実のなかではじめて、外の「現実」によってそれまで塗りつぶされ揉み消されてきた「本当のこと」の「分かち合い」が生じる。

そういう「非現実」として作り上げられていたのが『夜明けのすべて』という映画だった、と思う。誰もがそれぞれに傷を抱え、そのことを互いに理解していて、傷どうしが束の間ふれ合うことはあっても、わざとらしく交差することはない。画面を見つめてお願いだから何も起きないでほしいと思うそのたびに願いは聞き届けられ、不要なことは何も起きない。

率直に言って、あんなにも隅々まで優しさに満ちた安全な世界を私たちがこの「現実」に見出せる可能性はほとんどないだろう。これはどうしたって認めざるをえない。でも私たちはそのことをもってこの映画を「嘘」だとは思わないし、思えない。作品にあらかじめ満たされた優しさは、ちょうど物理の問題で「ただし摩擦はないものとする」と言われるときと同じ単なる必要上の、しかしとても重要な、いわば約束事にすぎないからだ。そしてその約束された優しさのなかでこそ生じた「分かち合い」を、たしかに私たちは目に、耳にしたからだ。

そういえば同じような「非現実」が、作品のなかにもう一つ埋め込まれていた。プラネタリウムである。現実の宇宙は、とても怖いところだ。息をするための空気もなく、放射線が絶えずあらゆる場所から降り注ぎ、はるか遠くの天体現象がこの星一つを消し去ることもあるかもしれない。そういう宇宙の奥行きをすべて「ないもの」として、目に見える光の地図に移し替えたそれは宇宙そのものとはほど遠い。にもかかわらずそのなかでしか語られ/聞かれることのない「本当のこと」がある(そのことを、少なくとも映画を見た私たちは知っている)。

分かち合いの会と、プラネタリウム――この二つがいずれも原作にないオリジナルの設定であるという事実には『夜明けのすべて』という映画のあり方が象徴的にあらわされているように思う。

分かち合いの会の場面で、参加者たちの語りを聞きながら亡くなった彼のことを思い出していた。それは半ば自動的な反応で、私にはもう慣れっこだったので、そこには実質的な情動もほとんど伴っていなかったし、逆に何かを感じなくてはいけないというプレッシャーもなかった。ところがその後、レクリエーションで卓球をする会の面々が映されてから、少し離れたところで交わされるそれ自体は喪失と直接関係のない会話のシーンで、私は全く不意を打たれたように泣いてしまった。涙が止まらなくなった。なぜかはすぐにわからなかった。プラネタリウムのときもそうだった。私が泣いたのは遺された「夜についてのメモ」が朗読されている間、ではなくその後――「すごくよかったよ」と言いながら会場を出ていく人たちの流れを見ながらのことだった。このときも不意打ちの感覚があった。しかし同時にどちらもあくまで必然的なタイミングだとも感じていた。

おそらくその二つの瞬間、いくつもの約束事に守られたあの非現実が、この私の現実に文字通り「ふれた」のだと思う。スクリーンによって境界を確保されていたはずのあちらとこちらが、ほんのわずかな時間だけ、ちょうど二つの天体が重なる蝕のように、接続したのだと。そう考えなければ私は私の涙を説明できないし、映画という非現実がこの現実の「分かち合い」のための非現実でもありえたことの可能性は、間違いなくそうした瞬間にこそ懸かっていた。そしてあなたがあなたの涙を説明できるための蝕もまた、きっと私には気づくことのできなかった別の瞬間に用意されていたのだろう。


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