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「百合のレポート」を書いて授業単位をとりたい人のための記事

あと数日。あと数時間。あと数分。高まる焦燥。額の汗。
走りゆく指先と、生成されていく駄文。
だが、終わらない。逃れられない。

レポートを書くのは、とても辛いことである。
まったく関心のないテーマであれば、なおさら辛い。
書けど、進まぬ。空回り。どうしてこんなものを書かされるのか。

どうせ書くなら、好きなテーマを自由に書いてみたい。
そう。たとえば、百合をテーマに……。

大学二年生の夏。
私の大学特有の制度である「進学振り分け」を目前にして、私は、文学部に進学することを決めた。
理由は、百合をテーマに、レポートと卒論を書きたかったから。
言い換えれば、そうすることで有益な大学生活を送りたかったからである。

理科Ⅰ類から文学部に進学したことで、就活は二年早まり、物理化学の知識はほとんどを忘却したが、満ち足りた大学生活を過ごすことができた。

学び、考え、そして書くこと。それらを前向きに捉えられるようになったのである。

レポートを書くのは面倒だ。
だが、百合のレポートなら書けるかもしれない。
この記事は、そういう、ある意味で自堕落な、しかしある意味で向上心にあふれた大学生のために書かれている。

はじめに断っておこう。この記事は、いわゆる「レポートの書き方指南書」ではない。今更、私が説明しなくとも、本屋に行けばそのような類の指南書は大量に置かれているに違いない。だいいち、そういう「技術」を指南できるほどの能力は私にはない。

私が説明できるのは、どちらかと言えば「技術」よりも「心得」の部分である。百合のレポートを書くためには、どのように履修を組めばいいのか。あるいは、百合のレポートを書くためには、普段からどのようなことを心がければいいのか。

大学生活は短い。卒業を迎えるためには、レポートを書かなければならない。どうせ書くのなら、ぜひとも有益な文章を書いておこうではないか。

さらに言えば、結論を先取りしてしまうと、百合のレポートを書くことは、あなたの百合愛好家としての生活すら豊かにするものである。

あなたが百合を考え、百合を学び、百合について書くための後押しができれば幸いである。

百合のレポートが書きやすい授業をとる

何を当たり前のことを、と思われたかもしれない。
しかし、たいていの重要なことは、普段は見逃されがちな「当たり前」の中に宿っている。

ひとくちに「レポート」と言っても、そこには無数のバリエーションがある。たとえば数学の授業では、学期末に問題が配られ、〇月×日までに解いてこい、という課題が出されることも多い。もちろん、これでも「レポート」の一種である。

常識的に考えれば、理数系の授業では百合のレポートを書くことは難しいだろう。「全微分と偏微分の違いを百合で説明してみた」などという文章を作り上げたところで、Twitterではバズるのかもしれないが、単位を取ることはできない。

だが同じ理数系の授業でも、たとえば画像情報処理や自然言語処理などの分野であれば、比較的書きやすいと言えるだろう。

要するに重要なのは、百合のレポートが書きやすい「穴場」の授業を取るべきだ、ということである。ある意味、勝負は履修登録の段階から既に始まっている。

当然のことだが、レポート評価のない授業を取るのはまず論外である。レポート評価よりテスト評価の方が単位を取りやすい、とか、そんなことは至極どうでもよい。大事なのは百合のレポートを書けるかどうかである。

さらに言えば、数学の授業のように指定された問題を解かせるものではなく、「○○○○字以内で論ぜよ」といった類の自由論述系レポートでなければならない。

また、同じ自由論述系のレポートでも、百合を論述できるものでなければ意味がない。基本的に自由論述系のレポートというのは、まず「お題」が与えられ、その「お題」を満足させられる限りにおいての「自由な論述」が要求されていることが多い。「授業内で取り上げたテーマをひとつ選んで2000字以内で自由に論ぜよ」と言われたら、「授業内で取り上げたテーマ」は絶対に論述の中に組み込まなければならない。

まず履修する授業が、レポート評価のある授業であること。自由論述系のレポートが要求される授業であること。さらに論述系のレポートの「お題」が、百合にこじつけられる範囲のそれであること。これらの要件が満たされた授業を、あなたは履修すべきである。

レポート評価の有無に関しては、履修登録前にシラバスを確認すればいいだろう。だが、自由論述系のレポートであるかどうかは、実際に課題を出される段階にならないとわからない、ということが多い。ただし経験則として、生徒側からの積極的発言が求められる授業や、グループワークや発表の時間がある授業では、自由論述系のレポートが求められやすい傾向にある。教授だけでなく生徒からも、といった双方向性を志向するタイプの授業では、生徒側からの自主的で自由な思索が期待されることが多いからである。

また、そういう経験則に頼らずとも、ガイダンスの授業で課題レポートの概要が説明されたり、レポートに関する質問に教授が答えてくれたりする場合がある。気になる授業があれば、とりあえず第一回のガイダンスに参加してみて、様子を見ておくのがいいだろう。

次に、百合にこじつけられるレポートの「お題」が出されるかどうか。まず参照すべきは、シラバスに記された講義概要だろう。もし漫画・アニメなどの話題が扱われそうなら、その授業は問答無用でとるべきだろうし、仮にストレートな文化研究系の分野でなくとも、ジェンダー論・言語学・表象文化論・分析美学・物語論など、エンタメコンテンツが話題となる学術領域は(私の大学であれば)文学部や教養学部に集中している。

おススメしたいのは、履修登録をするときに、電子版のシラバスで「漫画」「アニメ」「クィア」「レズビアン」「百合」(最後のワードはヒットしたことがない)などの検索ワードを調べてみることで、百合のレポートが書けそうな授業を探すという方法である。

とはいうものの、大学に入学したばかりで、それぞれの学術領域がどんな研究を行っているのか知らない段階では、何を検索ワードにすればいいのか迷うかもしれない。

その時は、あまり難しい単語を入れようとせず、あなたが百合と関連していそうだ、と考えるワードを入れればよい。たとえば「関係性」で検索してみると、社会心理学か何かの授業がヒットして、幸運なことに「漫画作品をひとつ取り上げて登場人物の関係性を分析せよ」という類のレポートが出されるかもしれない。シラバスというのはいわば授業の宣伝窓口だから、あまり難しい言葉は使わず、むしろ学部生の日常的興味から出発して専門性の深みへと誘おうとするような文章が掲載されることも多々ある。

……と、ここまで、長文を連ねてきたが、著者はあくまでいち大学に所属するいち学生でしかないので、ほかの大学ではまた異なる事情があるのかもしれない。電子版シラバスは導入されていないのかもしれないし、文学部は存在しないのかもしれないし、授業の初回ガイダンスというのが設けられていないのかもしれない。

とすれば、一番いいのはやはり、同じ大学の先輩に聞いてみることだろうか。かくかくしかじかのレポートを書きたいのだが、おすすめの授業はあるか、という具合に聞いて回れば、きっと誰かは教えてくれるに違いない。

いずれにせよ、重要なことは、百合のレポートが書きやすい授業をとるということである。

履修登録期間をぼーっと過ごし、単位の取りやすそうな授業を何となく受けているだけでは、百合のレポートを書くことなどできない。授業を受ける前の段階から、勝負は既に始まっているのだ。

”こじつけ力”を鍛える

百合のレポートが書けるということは、あなた自身が大学生活を「得意範囲でプレーできるようになる」ことを意味する。先ほどは「プレーする場面を選べ」という話だったが、これからするのは、「得意範囲を広げろ」という話である。

といっても、やることは決まっている。ただただ、今まで以上に多くの百合作品に対して、興味の幅を広げることである。そして、多くの百合作品を鑑賞することである。

たとえばあなたが、日本文学の授業を受けていたとする。最後の授業で求められたのは、「大正期の文学作品を選んで自由に論ぜよ」というお題である。果たして、百合にこじつけられないものか。いやいや、文豪は百合小説を書かないだろう。仕方がない。前から気になっていた太宰治の『斜陽』を読むことにしよう……。

だが、普段から研鑽を積み重ねているオタクであれば異なる反応を示すに違いない。たとえば、大正期に活躍した少女小説家に吉屋信子がいる。彼女は、女学校を舞台とした「エス」の関係性……つまり現代でいうところの今野緒雪『マリア様がみてる』のような物語を描き、当時の少女達から絶大な人気を集めた。ならば。彼女の「百合作品」を手掛かりに、レポートの規定文字数を埋めればいいではないか……。

このように、知識を付ければ付けるほど、あなたの百合に対する「こじつけ力」は向上していく。ひたすら百合を摂取しているだけで、レポート課題もこなせるようになる。これほどウマい話はない。

たしかに大学には、アニメや漫画などのエンタメコンテンツを直接的に論じる授業が存在する。だが、依然としてそれらの数は極端に少ない。卒業のためには、直接的には百合と関係の無さそうな授業を受けなければならない。

だからこそ、百合のレポートを書くためには「こじつけ力」が必要である。写真論の授業であれば、写真がテーマの『永久少女信仰』を。
映画論の授業であれば、ミッションスクールが舞台の『制服の処女』を。
「お題」を満足させられる百合作品を見つけられるかどうかは、ひとえにあなたの百合的知識力にかかっているのである。

どうしても思い浮かばない場合は、人の力を借りるのも手だろう。たとえば百合オタクの知り合いに「写真をテーマにした百合作品はあるか」と尋ねてみる。百合オタクというのは推しの作品を勧めるためなら何だってやる人たちだから、おそらく何かしらの答えが返ってくるにちがいない。

ネットの検索を利用するの有効手段かもしれない。たとえば今、「百合漫画 カメラ」でGoogle検索を掛けてみると、月子先生の『彼女とカメラと彼女の季節』がヒットする。勝ち確である。あとは当該作品を読み、感じたことを素直にレポートに記せばよい。

このように、人に聞いたり、検索してみるのも一つの手段ではある。だが、やはり重要なのは、あなた自身が「こじつけ力」を磨き上げることだろう。たくさんの百合作品に食指を伸ばし、自らの見識を深めていくこと。それがあなたの単位取得にもつながるのだ。

実践例


理屈ばかり並べていても説得力が無いので、実際に百合のレポートを書いたときの話をしようと思う。

今、大学4年次夏までの成績評価を出力してみたところ、どうやら私は、これまでに10本の授業を「百合のレポート」で単位取得しているらしい。つまり平均すれば、セメスターごとに3本以上のレポートを書いていることになる。私が文学部の授業を受け始めたのは学部3年次からだから、もし1年次から百合のレポートを書き続けていれば、20本以上は書けたのかもしれない。

ここではその10本全てを紹介することはしないが、いくつかの授業を抜粋して、百合のレポートを書くに至るまでの顛末をまとめてみようと思う。

言語学

言語学は言語を対象とするのだから、なにか具体的な物語作品が話題になることも多いのではないか、と考えたので受講した。

ひとくちに言語学といってもさまざまな分野があるのだが、この授業では日本語の方言がトピックとされていた。前半の理論的な話には興味が持てなかったが、後半以降に話題となる「方言キャラ」の話から本腰を入れて聞き始める。

関西弁といえば負けん気が強い、東北弁といえば天然、というように、私たちは特定の方言と、方言話者の性格を結び付けてイメージしがちである。そのイメージは、たとえば関西弁キャラがツッコミ役を引き受ける、というような形で、漫画・アニメなどのフィクションの方言話者表象を通じて強化されているのではないか、というのが授業の趣旨だった。

レポートのテーマは「講義の内容と関連して自由に論ぜよ」というもの。これは方言キャラを取り上げるしかない、と思い立ち、「きらら系漫画における関西弁話者表象」をテーマに、本棚にある『Aチャンネル』『GA 芸術科アートデザインクラス』などを取り出してきて分析を行った。

『Aチャンネル』を読んでいてよかった。

歴史学

履修登録時、「性的マイノリティー」で検索をかけたらヒットしたので受講した。異性愛主義・男性中心主義・人間中心主義に抑圧されてきた既存の歴史学に対抗するものとして、どうすれば「マイノリティー」の歴史というものを紡ぎ出すことができるのか、そのときに気を付けるべきことは何か、というのが議論された授業だったように思う。

レポートのお題は「マイノリティーの歴史を構築するうえで何に注意すべきか」というもの。いっそ百合の歴史を……とも考えたが、2000年代以降の百合史には明るくないため、さらに時代を遡って吉屋信子の時代に射程を定めた。

吉屋信子は、当時の少女小説家としては異例なほど盛んに研究が行われているので、いくつかの専門書を読んで知識を深めていく。すると彼女が、レズビアン文学の文脈で議論されていることを知った。その研究では、吉屋信子の少女小説は、彼女のレズビアン当事者としての自己表現であるとされていた。

だが私は疑問を抱いた。たしかに、吉屋信子と門馬千代の関係はよく知られている。しかし、そもそも彼女は、自分のセクシュアリティが「レズビアン」であると自称したことがあるのだろうか。彼女が描いた「エス」の世界は、女学校という限られた空間の中の物語であり、これを無批判に「レズビアン表象」と受け取るのは拙速ではないか。

と、ここまで考えてレポートが書けそうだと思ったので、吉屋信子を手掛かりに、性的マイノリティーの文学史を紡いでいくうえでは、マジョリティー中心史観的な二の舞を避けるためにも、「レズビアン文学」でありうるテクストの間にある細かな「差異」に注意を払うべきではないか、という類のレポートを書いた。

歴史学、日本文学、クィア論など、吉屋信子のテクストはさまざまな分野のレポートに使えるので必読だろう。個人的に読みやすいテクストは『わすれなぐさ』ではないかと思う。『花物語』『屋根裏の二處女』が有名だが、美文調の文体が読みづらいと感じる。

宗教学

宗教学という学問に対する単純な興味から受講。西洋哲学の中から、宗教が話題にされた箇所を抽出して、宗教学史を概説しようとするもの。

正直、百合のレポートを書く意識はまったく無かったのだが、お題が「宗教がテーマとなる映画作品をひとつ取り上げて論ぜよ」だったので一気に火が点いた。

サークルのチャット欄に「百合と宗教がテーマの映画を教えてください」と投げてみたところ、いくつかリプライが返ってくる。その中のひとつが、戦前期のドイツで作られた『制服の処女』という映画に言及していた。なんでも、ミッションスクールが舞台の作品だという。amazonで中古のDVDを買い、ひとまず鑑賞してみることに。

シスターに対する憧れ、そして劇中劇の描写と、現代の百合作品に通じるテーマがこの頃から描かれていて興味深く視聴。レポート課題のために見ていることを忘却していたが、ふと我にかえりメモを取り始め、授業で紹介されていた宗教理論が適用できそうな箇所をまとめていった。

百合生活を豊かにするために

そろそろ終わりが近づいてきた。最後に、百合のレポートを書くことを通じて、私の百合生活がどのように変化したかを書き残しておこう。

まず、鑑賞体験に関して。百合のレポートを書くため、百合文化に関する研究書をいくつか読み進めた結果、個別の百合作品に対してさまざまな解釈を創出できるようになった。

解釈を創出する、というと抽象的だが、言い換えると、ひとつの百合作品から受け取ることのできる情報量が増えた、ということである。たとえば『マリア様がみてる』という作品に対して、純粋に百合作品として読む視点もあれば、その後の百合文化に対する影響を考慮しつつ読む視点もあれば、吉屋信子の作品と比較しながら読む視点もあれば、ライトノベルとして読む視点もあれば……という具合に、百合に対する知識を深めれば多様な読み方ができるようになる。

学問をすること、批評・評論を読むことの良さのひとつは、まさにその点にある。レポートを書き、書くために学び、考える過程を通じて、以前より百合作品を深読みできるようになったように思う。

さらに言うと、個人的にはこちらの方が大きな変化なのだが、見知らぬ百合作品を読もうとするときのハードルが極端に低下したように思う。

百合のレポートを書きはじめる前は、自分の趣向に合わなそうな作品や、古典的作品などの「読みにくそう」な作品を敬遠してしまうことが多かった。人生で読むことのできる作品数は限られている。できれば、面白いとわかっているものを読んで、予想通りに面白がっていたい。

だが、百合のレポートを書きはじめてからは、作品を読むにあたり「レポートを書くために読む」という動機付けをするようになった。レポートを書くために、吉屋信子の小説を読む。全2クールの百合アニメを見る。ゲームや音楽にも手を出してみる……。

さまざまな作品に触れていくと、次第に、それまで自分の定義していた「好み」「趣向」というものが、いかに狭く見積もられていたのかを理解した。人は、人が思っている以上にさまざまな作品を楽しむことができるし、名作と呼ばれている作品の多くは、たしかに多くの人たちに届く説得力を有しているのだ。文化万歳。

百合のレポートを書くことを通じて、百合作品を深読みできるようになったし、今まで以上に多くの、自分の興味の外側にあるような百合作品と出会うことができた。

そして私は、文化というものの「力」を改めて信じなおすことができた。
文化には、いくら深読みしてもしきれないぐらいの豊穣さがある。文化には、あらゆる人を受けとめる大らかさがある。そして文化というものは、いつだって楽しいものである。

レポートを書くことは辛い。しかしそれ以上に、書くために準備をすること、学ぶこと、考えることは、あなたを自由にしてくれる。

そしてその自由さは、必ずやあなたの百合生活を豊かにしてくれるだろう。

まずは手近なところから。百合のレポートを書きはじめるところから、始めてみてはいかがだろうか。

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