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ねぇあなたどんなふうに生きてなにをみたの殺人事件(2)

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 私がことのあらましを伝える間、倉知は私の淹れたお茶を何杯かおかわりしながら「うん」だとか「ふん」だとかを繰り返すばかりであったが、「以上だ」と話が現時点に着陸したところで一度眉毛を大きく動かし、言った。
「──それで俺はなんでこんなところに?」
意外な返答に面食らってしまった私は、「だから」と置いてもう一度同じ話を始めようとしたが、倉知がそれを遮った。
「ああ、いい、いい。話がわかってないわけじゃないんだよ。俺が尋ねたいのは、黒田は俺に何をして欲しいのか、及び俺に何ができると思っているのかってことさ」
「どういうことだ」
「金がなくなったことについての推理をしてくれってわけじゃないんだろ。俺もお前の言うように犯人はその女で間違いないと思うぜ。だけどその女を探そうにも手がかりはないんだろ。じゃあ探そうにも探せないじゃないか」
「人探しが探偵の仕事じゃないのか」
「お前探偵をエスパーか何かと思ってやしないか。名前も顔も分からない女をどうやって探そうっていうんだ」
「その女がこの辺りで呑んでいたのはたしかなわけだから、張り込みをするとか」
「そんなのは俺がやるまでもないっていうか、お前が自分でやればいいじゃないか。俺は彼女の顔を知らなくて、お前は知ってるんだ」
「それじゃあ何のためにお前はここに来たんだ」
「だからさっきそう言ったじゃないか。動転して思わず電話しちまったんだろうが、冷静に考えれば俺なんか呼ぶより警察に通報したほうが金もかからないしよっぽど親身になってくれるはずだぜ。それに、ノコノコ呼び出されて来ちまったけどな、俺も暇ってわけじゃねぇんだよ」
倉知は四杯目のお茶を飲み干してそう言った。
「暇だから来てるんじゃないのか」
「探偵ドラマを見てみろよ、毎週事件が起きてるだろ」
倉知は五杯目のお茶を注ぎながら言う。その所作は穏やかそのもので、とても多忙な探偵には似つかわしくない。
「それはドラマだからだろ」
「ドラマだからってそれらが実際に起こらないということにはならないんだぜ。ドラマの脚本家であれ実際の犯人であれ、事件ってのは誰かが起こせば起きちまうんだから。そのことを今一番実感してるのはお前なんじゃねえのか」
上手いこと言われてしまってる気分になりながら、実際のところ決して上手いこと言われているわけではないことを分かりつつも、私は上手いこと反論ができない。
「じゃあ倉知は今、ドラマみたいに難事件を抱えてる身ってわけだな」と、情けなくもこのザマだ。
倉知は湯呑みを口から離しながら、呆れた顔で一瞥し、そうだそうだと笑った。
「そうだそうだ。今週もそろそろ厄介な事件がやってくる頃だ」
「厄介な事件」が私の相談を指しているのか、それとも私なんて眼中にないのか、計りかねて黙っているしかなかった。
「おっと、噂をすれば大事件だ。小便」
倉知はそう言って便所へ立ってしまった。私も心中穏やかでないものの、それでもいい加減冷静になっていた。たしかに何の手がかりもない、名前も顔もわからないでは、仮に倉知が探偵ドラマの主人公だったとしても、手も足も出ないだろう。私がドラマの脚本家だとしても、そんな物語では先が書けない。いやしかし、簡単に手がかりが用意されている方がよっぽどつまらないのではないか。一見何の手がかりもないところから、思わぬハプニングや展開によって、断片のような手がかりが「見つかる」というよりも「生まれ」、そして数珠をつなぐようにして推理というのが進んでいく──そんなドラマこそが、傑作なのではないか。
と、ここまで考えて私は思わず「あっ」と声を出した。ちょうどその時倉知が便所から戻ってきて、「じゃあ帰るぜ」と私に告げた。
「倉知、手がかりならあったぞ。その女の顔写真があるんだ」俺は使い捨てカメラを印籠のように倉知に示した。
こうしてあっけなく手がかりは発見された。この事件は傑作ドラマにはならないかもしれない。

 倉知に使い捨てカメラを渡して彼が帰ると、私はいよいよ途方に暮れてしまった。先ほどの興奮はもはや醒め、現実とは所詮どこまで行っても地味であり、ドラマチックなどにはなり得ないのだという虚無感にも似た感慨が私を支配していた。そしてそういった思いはおそらく、私がこれからいよいよ取り組まねばならない小説の執筆作業へのモチベーション低下と作用していた。フィクションは、フィクションといえどそれを生み出す作家の人生や生活に多かれ少なかれ端を発している。全くの無から奇想天外な絵空事を想像する天性の作家ならともかく、私がそれまで細々と書いてきたのは自分の生活に根ざしたコラムである。自分で言うのも何だがそれらは決して面白くはない。下世話雑誌における余白を埋めるのがその存在理由の多くを占めるのであろうことを読者も、浮田さんも、そして何より私が十分に弁えていたからこそ、駄文であっても思い悩むことなく掲載に踏み切ることが出来ていたのだ。ならば開き直って今までのコラムに似たようなものをその正体が何なのか自分でもわからないまま「小説でござい」と名乗って掲載してしまえばいいだけなのだが、私は何だか見知らぬ誰かに頭を踏まれているような気分だった。私はおそらく「小説」が好きなのであった。
 そして生活を下敷きにしないと何も書けない私のその下敷きたる「生活」が、今回のようにどうあってもドラマチックになり損なうのだという感慨は、「なり損なった」からこそむしろ象徴的に「資格がない」ことの証明に思えるのだった。芽吹いても花の咲かない土壌が栄養を含んでいないように。
「幸いなのは──」そのままの体勢で私は思った。小説を実際に書き始める前にその資格がないことを知れたことだ。長い夢の果てに醒めなかった分、痛みも少ないだろう。
「辛いのは──」続けて私は思った。資格がないことを知ってなお、生活のためにも小説に取り組まねばならないことだ。眠る前から明晰夢を見ると知りながら布団に潜り込むことに何の希望があるだろう。
 時計を見ると夜の七時だった。落ち込んでいる猶予はないのであった。私は体を起こす。コンビニに行って、ペットボトルのお茶と惣菜パンを一つずつ買う。私はコンビニの入り口を出たところで、財布の中身を何回も数えた。何回数えてもそこにあるのは百円硬貨が三枚と、五十円硬貨が一枚と、十円硬貨が四枚と、一円硬貨が四枚だった。十二枚の小銭を見るうちに、私の中に沸々と湧くものがあるのを感じた。それが何かはわからなかったが。コンビニの前の道路を乗用車が続け様に三台走っていき、ワンテンポ後に小型トラックが一台走っていき、その後タクシーが二台走って行き、スポーツカーが一台走って行き、パトカーが一台走って行き、乗用車が五台走って行き、バスが一台走って行き、乗用車が二台走って行き、三台走っていき、トラックが一台走って行き、タクシーが一台走って行き、バスが一台走って行き、そして何も走らなかった。私はアパートに戻り、広げたまんまのノートの前に坐し、惣菜パンをいちどきに食べ、ペットボトルの水を一気に飲んでパンを口腔内でぐしゃぐしゃにし、大きく息を吸って何もかもを呑み下した。それからノートに鉛筆で「残金三九二円」と書いて、ポケットからレシートを取り出して「パン、水 三九二円」と書いて、驚いた。払った金と残った金が同額だったからである。しかし。私は冷静だった。この偶然はしかし「ドラマチック」ではない。ありふれた偶然であり、それ自体は無意味な一つの現象である。
「諦めないぞ」と私は思い、実際に口に出してそう言い、ノートにそう書きつけ、もう一度実際に言った。ドラマチックになり得ない私の生活を、私は小説にしてやる。偶然一致した「三九二」に何らかの意味を付与し、そこから全てを始めてやる。そして、あの、あのクソ女!私を翻弄し、舐めくさり、百万円を奪い、私を追い詰めたあの女、もう二度とは出逢えぬであろうあの女、何としても、何とかして、お前に復讐してやるぞ。
 ふと背後に、気配を感じた。振り返ると誰もいなかったが、私は一瞬、そこにあの女が立っていたような気がした。そしてこう囁いたのだ。
「やってみなさいよ」
 いいだろう。百万円分、お前を利用してやる。そして百万円取り返してやる。せめて、小説の中で。
 こうして私は一晩かかって、小説の第一話を書き上げた。主人公はあの女だ。名前を「三國(ミクニ)」とした。

(おそらく続くだろう)


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