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ねぇあなたどんなふうに生きてなにをみたの殺人事件(1)

 結局、彼女に向けて三國さんと呼ぶことはなかった。
それでも私が彼女のことを頭に浮かべるときにはいつも、「三國さん」と想っている。
 私は彼女のことを何も知らない。
 井の頭公園の大きな池に一艘のボートが浮かんでいる。私はそこで三國さんの横顔を眺めていて、三国さんは池の水面を眺めている。現在とはただそういう今である。彼女の背景には赤や黄色がまだらに色づいていて、波の揺らぎに合わせてそれらはのたりのたり不規則に運動している。
 綺麗だなと三國さんは私に聞こえない声で言ったが、だから私に聞こえるはずもないので実際には聞こえなかった。代わりに船体に水面がゆったり打ちつける音だけが響く時間が長いことあって、そういう音を観察するうち私は人生において初めての泥酔による嘔吐をやらかした日のことを想起した。それがことの起こりだったから。


 その日私は学生時代の同級生たちと何年かぶりで再会した。彼らに会うということに私は懐かしさを覚えなかったし実際に顔を突き合わせても当時の学生服が背広姿に変わっただけであって新鮮な思いもなかった。端的に気が進まぬ飲み会だったのである。ではなぜそれでも私が酒席に坐したのかといえば、彼らはそれぞれなんやかや立派に働いていて、そして私は学生時代と変わらない、むしろ年齢から鑑みておそらく彼らから「惨めな」と憐憫の目を向けられるような経済状況でいるという状況から推測されるにおそらく無賃で飲酒できるだろうと考えたからだ。そして実際そのようになった。私は幾許かの情けなさを代金として普段の飲酒の五倍呑んだ。そして普段の飲酒量では到底至れぬ、嘔吐という贅沢を味わったのである。不快な残滓を口に朦朧とする意識は眼前の光景を贅沢と結論した。
 同級生たちは呆れ顔のまま無邪気に私の姿を笑ったが、しかして私を介抱してくれるというわけではなかった。この冷徹さこそが現代社会を乗り越えるコツだろう。
「この冷徹さが現代社会を乗り越えるコツだろう」と考えた時、私はゴミ捨て場に横たわっていて、「この冷徹さが現代社会を乗り越えるコツだろう、そして」と続けんとした私の胡乱への抵抗は「あのー」という言葉で遮られた。
 見上げるとOLと思しき女性が心配そうな顔で私を見下げていた。その手にはコンビニのおにぎりがあった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないです」と私が思わず正直に告白するとOLは虚をつかれた顔をして、それから食べかけのおにぎりを吹き出した。
「あははは。いや、ごめんなさい」
「いえ、うそですうそです、大丈夫です。すみませんみっともない姿で」
「そんなことないですよ。でも、本当に大丈夫ですか?」
ここから短く交わされた、私が大丈夫か否かを検証する問答に意味はなく、また私の記憶も定かではないので、その無意味な問答とその後の一時間の出来事は割愛する。

 一時間後。私の安アパートの畳の上に彼女は座っていた。
私が狭い台所にて水を続けざまに二杯飲んで煙草を一本吸い吸い自分の部屋を振り返るとそのような光景があって、私はそこで一寸遅れて事態の把握を始めた。
「え!?」
「え!?」彼女は私の吃驚に驚き返して、その後「ああ吃驚した」と胸に手を合てて、笑った。
「あの、ここって僕の部屋ですよね?」私は間抜けな質問をした。
彼女は自分が気の進まない飲み会の末に終電を逃してふらついていたところ酔い潰れた私を発見して一か八か声をかけたら案の定私が近所に居を構えていると知って、これだけ酔っ払っていれば襲われることもない襲われたとしても撃退可能であろうと踏んで私の部屋で一宿せんとこの部屋にやってきたのだというようなことを言った。
「危ないですよ。危険すぎる」
「ええ、もうしません」
「一度の過ちが取り返しのつかないことになることもありますよ」
「肝に命じておきます」
「本当にわかっているんですか」
「なにせ酔っ払っていますから」
その言葉に私が思わず笑ってしまったところで彼女は「寝衣を貸してもらえませんか」と言った。私は私の降参の気持ちを表しているかのような白いTシャツと緑色のジャージを箪笥から出して渡し、「タバコ吸ってていいからそっち向いててください」の命に従順に従い着替えを盗み見るでもなく煙草をふかして「変なの」とだけ思った。
 不意に眩い閃光及び「カチャッ」という音がして、思わず振り向くと彼女が使い捨てカメラを私に向けていた。
「はい、もういいですよ」彼女はカメラを下ろして私に言った。「勝手に撮っちゃいました。すいません」
 彼女が手にしていた使い捨てカメラは私が今日、同級生の一人から本日の飲み会の様子を撮影したまえと渡されたものだ。しかし私は前述のように会合においては泥酔へと一直線に走ったため結局一枚も撮影しなかった。
 私は彼女の方へ歩み寄り、カメラを受け取って、今度は彼女を撮影した。彼女は待ち構えていたようにピースサインをした。

 目を覚ますと私は台所の椅子にうずくまるような体勢で座っており、窓から差す陽光の色が時間の経過を告げていた。
二日酔いの頭痛を感じながら私は蛇口を捻って水を一杯飲み、なんとはなしに部屋を見た。そこに昨夜の彼女の姿はなく、ただ畳まれた布団が鎮座しているばかりだった。夢だったのかもしれないと私は思ったが、布団の上にカメラが落ちているのを見て、それじゃあ夢じゃないのかと思い直した。彼女の顔が酒臭い靄のかかった状態で思い出された。かわいかったと私はそこで初めて思った。惜しいことをしたのかもなと後悔しなくもなかったが、しかしなんとなく、これでよかったというか、あとあと思い出すにはをちょうどいい噺を一つ手に入れたのだと考え直すことにした。
 携帯電話を手に取って見ると昼の十二時で、不在着信が複数入っていて、そのどれもが浮田さんからだった。
「もしもし!?黒田くん今どこ!?」電話の向こうで浮田さんは開口一番怒鳴った。
「すみません、今起きたところです」
「なんだ!寝てたの?ならまあ、よくはないけどよかった……いや、よくないわ、あんた今日十一時から打ち合わせって忘れてたの?」
「忘れてなかったんですけど、ちょっと色々あって。すみません」
「さっき私よくはないけどよかったわって言ったけどマジでよくはないからね。“よくはない”のところが重要だからね、“けど”とか“よかったわ”の部分にあんまり注目しないでよ」
「してませんよ。本当、申し訳なく思ってます。えっと、新宿でしたっけ」
「もういいわよ」という声が電話口と部屋の玄関の方向からステレオで聞こえて、見ると浮田さんが部屋の扉を開けて佇んでいた。

 浮田さんは小さな出版社において下世話な月刊雑誌の編集者をしている。齢は私の一つ下であるが、その聡明さと辣腕を買われ多くのページの担当をしている。二年ほど前に私が暇にあかして書いていたブログを偶然目にした彼女がコラムを書かないかと連絡をくれたことが私との付き合いの始まりであり、そこから現在に至るまで、文章の仕事や、イラストの仕事なんかも回してくれている。
 「打ち合わせ」というのは私がくだんの下世話雑誌で連載せんとしている初めての小説についてであり、締め切りが近いのに私が原稿をあげないことに業を煮やした浮田さんが多忙の合間を縫って設てくれたのであった。私はそれをすっぽかしていたのであった。
 そんな不躾な男の心配をしてわざわざ出向いてくれた浮田さんだったが、それではそのまま私の部屋で打ち合わせをしてくれるかというとそれはしないとのことで、その判断には彼女の貞操観念というか、彼女の中の異性の仕事相手に対するコンプライアンスのようなものが作用しているらしく、ではということで私たちは部屋を出て、近所の公園へと向かった。
「それで現状、どこまで書いてるの?」と浮田さんは缶コーヒーを一口、私に尋ねた。
「何も……」と私は彼女の顔を見ることができないまま答え、そこから流れたわずかな沈黙の時間に耐えかね「すいません」と続けた。
「明日までに書いてもらわないと困るっていうか、あなたが困ることになるよ」と浮田さんは説くように言った。
「書かない人の文章が載る雑誌なんてないことくらいわかるでしょう」
「わかっています。わかってはいますが、俺も辛いんです」
「作家さんの苦労は、私たち編集には分からないわ。だけど編集者は作家さんの力になるよう努めるし、私もそのようにあなたに接してきたつもりだし、だからこそこうして仕事を放ってまで時間を作ってここにいるのよ。今この時間は、会社をサボったOLのコーヒーブレイクじゃないの」
「はい」
「何も思いつかないなら取材でもなんでも行けばいいじゃないの。こんなチンケな公園じゃなくて、例えば動物園なんかに行くだけでも発見はあるはずよ。そこでふと出逢った女性と恋に落ちることだってあるかもしれない。アイデアは生み出すものじゃなくて見つけるものなんじゃないのかな」
「わかってますよ。僕、だからこそ昨日は行きたくもない同級生との飲み会なんてのにも行ったんですよ。僕には分からない現代社会と、そこで生きるサラリーマンのなんぞなんぞを取材してやろうと、自ら出向いてやったんですよ」
「あら、サラリーマン小説なんて書こうと思ってるの?」
「そういうわけでもないですけど……」
「あのね、サラリーマン小説なんてのを私はあなたに期待してないの」
「読者にはウケるかもしれないじゃないですか、流行ってるじゃないですか。ドラマ化するかもしれませんよ」
「初めて小説を書くのに読者も何もないでしょう」
「やる気を削ぐようなことを言わないでくださいよ」
「それより、あなたこないだ渡したお金、まさかその飲み会に使ったとか言わないでしょうね。そういうことなら借金してでも返してもらうわよ」
「そんなわけないでしょう。奴等は稼いでるんだから。しっかり奢らせてやりましたよ」
「いばれることじゃないわ。まあ、ならいいけどさ。ともかくあれは貸しなんだからね。三ヶ月以内に結果で返してくれないとあんただけじゃなく私もやばいんだから」
「僕が全然お金の使い方わからんこと、浮田さんも知ってるじゃないですか。あんな大金、怖くて封筒から出してもいないですよ」
「使わないんなら返してよ」
「いいですよ!」
と息巻いてから遅れて私は気づいた。私は元来浪費家ではないし豪気でもない。自慢できることではないのかもしれないが、だからこそ私は貧乏ではあっても多額の借金を抱える身でもないのだ。そんな私に浮田さんがなぜ百万円もの大金を預けたのか。「取材費」と言っても、それは後から経費で落とすことができる類のものではないのか。
もしかして、と私は呟いた。
「あの百万円って、僕へのプレッシャーですか?」
浮田さんはフッと笑うと缶コーヒーをグッと飲み干し、私に手渡しながら言った。
「失礼ね、信頼の証と言ってもらえる」
 コーヒーの缶は木漏れ日を反射して金色に光っていた。

 「愕然」という言葉を私は思い浮かべていた。
 浮田さんと別れた後、私は兎にも角にもあの策士による重圧であるところの百万円を突き返してやろうと部屋に戻った。小説については何も書くことの思いつかないままであったが、それでもあの大金を返すことが、少なくとも締め切りを延ばしてもらうための第一条件であると結論したのだ。
 そんな私が「愕然」という言葉を思い浮かべるに至ったのは、つまり、なんというか、「なんというか」ではないのだが、テレビ台の上に置かれた茶封筒からその中身であるところの札束が忽然とその姿を消していたからである。私は茶封筒の口を指で押し上げた格好のまましばらく硬直し、それから一度ふらふら部屋を出て、A4ノートとHBの鉛筆と鉛筆削りを手に部屋に戻り、鉛筆を削って、本棚から引っ張り出した字引を片手に、開いたノートに大きく「愕然」と書いた。それを眺めているうちに「愕然」の「愕」という漢字が「顎」や「鰐」などの漢字にも似ていると思って「顎」「鰐」とも書き込んで、それから、まだまだ余りあるノートに「お金がなくなってるよ〜」と書いて、ノートを一度閉じた。浮田さんに連絡せねばと思い携帯電話を開いたが怖くなってすぐ閉じ、警察に通報せねばと思い再び携帯電話を開いたがその時、私の頭に二人の人物が同時に浮かんだ。
 一人はもちろん、昨晩この部屋にやってきたあの女である。十中八九、どう考えても金を盗んだのは彼女だ。私はそこでようやく、彼女の名前も知らないことを思った。
 一人は昨日の飲み会にて再会した同級生の一人であり、名を倉知という。名刺をもらっていたことを思い出し、私はポケットから取り出してそこに書かれている番号に電話をかけた。二、三度のコール音ののち、全く懐かしくない声が聞こえてきた。
「はい、こちら倉知探偵事務所」

第二話へ続く


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