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「忘れてしまった」ように見えるものも、ぜんぶ残っている

日曜日の朝7時。
いつもの時間にむっくりと起きて、クローゼットから毛布を取り出す。

ニトリで買った涼しいベッドマットの冷たさが、ようやく分かる。真夏の日には「買ったけど何も冷たくないやんけ!」って思ってたのに。ちゃんと冷やしてくれてたんやね君、ありがとう。

「今日はこのマットを洗濯して、クローゼットに片付けよう」
頭のなかでぼんやり考えながら、好きな芸人さんのラジオをかけて二度寝する。二度寝が心地良い季節になった。嬉しい。

季節が変わると、こうやって文章を書きたくなる。
その時思った気持ちや、季節の変化を感じた事象を残しておきたいのかもしれない。


そう言えば、二年ぐらい前は毎日noteを更新していた。
その時よく読んでいた人たちは、もうあまり更新しなくなった。(僕もめっきり更新頻度が減ったけれど)

どうやってその人たちのことを知ったのかは覚えていない。たぶん偶然note内で文章を読んで、好きになって、フォローしたんだと思う。
読んでいたものがどんな内容や表現だったのか、ぱっと答えられない。問われて、時間をかけたら大まかに答えることはできるんだろうけど、その瞬間は日常生活で訪れたことはないし、きっとこれからも訪れることはないと思う。

読んだ文章はそうやってどんどん頭の表層から消えていくし、消化されていく。

その消失を「もう忘れてしまった」と言えば簡単だけど、それでもあの当時、僕はその人たちの文章に本当に支えられていたと思う。
悩みやモヤモヤを書いている自分を、同じように文章を紡ぐ彼らが全身で肯定してくれているような気がした。


「もう忘れてしまった」というものがたくさんある。

当時の感情も、出来事も、きっと忘れるべきではなかったことがたくさんある。
それらは自分の中から消えてなくなってしまったみたいに感じられるし、それらをつくってくれた大切な人たちのほとんどが僕の周りから離れて行ってしまった。
そんな自分にはもう何も残されていないように感じることもある。

でも、あの時読んだ文章はぜったいに僕の中に残っている。
同じように、いろんなものが今も僕の中に残っている。
「忘れてしまった」ように見えるものは、ぜんぶ僕の中に残っている。「離れて行ってしまった」ように見える人たちは、みんな僕の中に残っている。


情報が溢れて、web上で感銘を受けた文章はもう見つけることすらできない。
ライターとして書いていても「一瞬で消費されてしまう文章を書くことに意味なんてあるのかな」と考えてしまうこともある。

それでも、季節が変わるとこうやって文章を書きたくなる。
いつか書いたことすら忘れてしまうと分かっていながら、書きたくなる。


洗濯機の中で、ベッドマットがぐるぐると回っている。縦型だから中は見えないけど、きっと想像通りぐるぐると回っているんだと思う。


読んでくれてありがとうございます。 この文章が少しでもあなたの人生に寄り添えていたら、嬉しいです。