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嫌なことを、素直に「嫌だ」と思える自分でいたい

仕事で嫌なことがあった。
ほんとはそんなこと、いつだって、誰にだってあるはずなんだけど。その時に「嫌だ」と素直に感じている自分がどこか新鮮で。

ぼくはこれまで、自分の心の声を聞かないように、あるいは聞こえたとしても本心とは別の言葉に変換するようにしていた。

たとえば嫌いな人がいても「嫌いじゃないけど苦手なんよなあの人」という風に。
苦手というのはつまり、問題は相手にではなく「そう感じている自分自身にある」ということ。
だから頑張って我慢していた。苦手なその相手を避けない。飲みに誘われたら必ず行く。自分にある問題を解決しようとしてきた。

嫌な仕事、嫌なコミュニケーション、嫌な環境。
もちろん一つ一つは「我慢できない!」というほど大したものじゃない。

でもぼくはたしかに感じている。
「嫌だ。ここにいたくない」と。
そう感じている自分を、わがままだと思ってきた。

嫌なことも我慢して乗り越えないと、この社会では正当な評価を受けることができない。みんなそうやって社会人として生きているんだから、と。


たしかに、そうかもしれない。
嫌なことは完全に無くすことはできないし、その度に逃げていたら社会人として生きていくことは難しい。

でも、どう思うかは自由だ。本当は嫌なことを「大丈夫、問題ない」と言い聞かせて乗り越えることは、自分の声を殺すことになる。

そんなことを繰り返していると、なにが自分にとっての望みなのかが分からなくなる。
自分の感情や理想はどこにあるのか。自分はどこに向かいたいのか。分からなくなる。

「嫌だ」と実際に声に出すかどうかは、状況に合わせたら良い。
将来のために必要な我慢なのであれば、声に出さない。不必要な我慢だと感じたら、思い切って声に出して逃げ出してみる。

ただ、嫌なことに対して「嫌だ」と心のなかで叫ぶことは、いつだって許してあげたい。



中学生のころ、入部半年足らずで退部していく同級生を見て、ぼくは心のどこかで軽蔑していた。続ける自分に正義があって、みんなは我慢できずに逃げていくんだと。

あれから15年以上経って、ぼくは嫌な環境から逃げることができるようになった。

でも相変わらず、逃げる先をどこにするか決めるのは苦手なままだ。
自分自身にやせ我慢をして嘘をついているから(嫌なことでも「嫌」だと思わないようにしている)、嫌なことが自分の許容量を超えるまでそれに気づかない。
超えた時にはもう、どこに逃げるかをゆっくりと考える心の余裕がない。
あの時急いで逃げた先は、けっきょく正解だったのかな…

何度もそういう失敗を繰り返して、ようやく心のなかの本当の声を意識するようになった。
小さな小さな田舎町に来て、ライター業をしている。本当の声を意識して、少しずつ「より良い」選択を繰り返した結果だ。

そしてようやく、素直な「嫌だ」を心の中で言うことができた。
そうやって心の中で声に出すと、その大小は別にして『嫌なこと』ってたくさんあることに気づいた。「良い」と思って選んだ先にも、嫌なことはたくさんある。

あれも嫌これも嫌。だからといって不満を言いたいわけじゃない。逃げ出したいわけでもない。
ただそうやって自分の声を拾ってあげることで、自分の理想はどこにあるのか気づいたり、嫌なことを意識的に避けることができるようになる。
たとえ嫌なことを我慢するとしても「嫌だけど必要な我慢だから頑張ろう」と現状を把握できていると、ずいぶん楽になる。



嫌なことがあるのは、ダメなことじゃない。

不器用な性格で生き辛いなぁと思うことがある。
あの頃の友だちはみんなもっと我慢強くて、社会のなかで頑張って生きているのに。

はじめて逃げ出したのは、会社を退職した4年前。そこから少しずつ、不器用な自分を見つめることができるようになってきた気がする。


これからゆっくり、見つめて気づいたことを行動に移していけるように。逃げ出すんじゃなくて、自分の心が求める方向に舵を切っていけるように。


読んでくれてありがとうございます。 この文章が少しでもあなたの人生に寄り添えていたら、嬉しいです。