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感情のリハビリを始めます

行動する前に、効率性を考えてしまう。

行ってみたいお店を見つけたとしても、
「同じようなお店でもっと近い場所があるし…」
「行ってもお金を使うだけだし、家でやりたいことをしてよう」
とか。自分でこんなことを書いていてしょうもない男だなと思う。

ぼくには、絶対にやりたいことというのが無くて。
何かを思いついても、それを実行に移すための感情のエネルギーがなかなか溜まっていかない。
もたもたしている間に”効率性を重視する理由”がたくさん思い浮かんで、けっきょく何もせずに日々が過ぎていく。

これは中学生ぐらいからで、当時も部活が休みの日は何をしていいのか分からなかった。
家にいても暇。でも外に出て何かをしたいわけじゃないし、友だちに誘われるのもめんどくさい。かといっていつも家で一人なのは寂しい。
このループを繰り返す。

だから、
とりあえず部活を頑張っているからOK
ということで自分自身を納得させてきた。寂しさは抱えていたけれど、その寂しさを解消するための勇気も無かった。


そうやって色んなものを抑えている間に、「行動しないこと」がデフォルトになってしまった。
「何もしない時間」がたっぷりあるのが通常運転。休みの日に予定が入るとすぐに疲れてしまう。
だから「休みの日は何してるんですか?」というのは、ぼくにとっては恐怖の質問だったりする。



たぶん、傷つくことが怖かったんだろうなと思う。
小学生高学年から中学生にかけては、自分が傷つく経験をいくつかしていて。そのショックの大きさは今でも覚えている。
当時は、その”感情の揺さぶり”を少しでも小さくすることに必死だった。
めちゃくちゃ気にして、めちゃくちゃ落ち込んでいるけど、「まったく気にしていないよ( `ー´)ノ」という顔をして過ごす。そうしないと恥ずかしくて生きていけなかった。
元から人の目が気になる少年だったから。

時間が経つと、
どんどん自分が表現できる感情の幅と、認知できる感情の揺れは小さくなっていった。
それはそれですごい生き辛かった。ナニカが自分の中に溜まり、ずっとうめき声をあげている感じ。
でもそのナニカを認知するわけにはいかない。苦しいことから抜け出すためにようやく手に入れた生き方だから。


だから今振り返ると、
中高生のときの自分はあんまり好きじゃない。
でも当時はそれしかできなかったし、今戻っても同じように生きていると思う。うん、よう頑張ってた。



これからは長い、感情のリハビリ期間になるんじゃないかなぁと思う。
中学生から今までで、17年。その長い年月、感情を大きく動かさないようにしてきた。
リハビリ期間は、それと同じ17年ぐらいかかるかもしれない。
17年後のぼくは、46歳。カッコいいおっさんになっていて欲しい。


少しの「やりたい」をしっかり行動に移す。効率性をできる限り考えないようにする。(お金等はしっかりと考える必要はあるけれど)

もちろん今だって「やりたいこと」はたくさんある。
でも、その「やりたいことを抱えている自分」をまだ信頼し切れていない。

本当にそれでいいの?
このままそれを続けるの?

いつか誰かに言われたような小言を、今は自分自身に吐いている。


そんな小言は、分からない。
何かに確証を得られるように感情を今のぼくは持っていないし、それを得るにはしばらく時間をかけないといけない。

焦りたくない。
小さな感情の揺れを、少しずつ拾い集めたい。
仮にその先に何か見つかるとしても、何も見つからないとしても。行動を起こした今日という一日がぼくは好きだから。


読んでくれてありがとうございます。 この文章が少しでもあなたの人生に寄り添えていたら、嬉しいです。