No.183 「神恩感謝」のこころ

 ようやく忌中が明け, 諸々の神社参りを再開した. 1年半くらい前から色々と偶然が重なって神社参りをするようになったが, 歳を取った事と, このほど祖母が亡くなったこともあり, 最近はまた神社参りする感覚が変わってきたような気がする. 

 まず昔は行っても, 基本的には特に願い事もないので, 通過儀礼的に参拝するだけだったのだが, 最近は「神恩感謝」という便利なフレーズを知ったので, 一層諸々に精が出ている. というのも, お参りしたり, 絵馬等を奉納する際に何か願い事を書かなきゃいけないというのが, 煩わしくてイヤだったのだが, その心配をする必要が無くなった(とりあえず「神恩感謝」と書いておくか, 思っておけばいい)という心理的要因が意外と大きい. 言ってみれば, 寺に行くのにテキトーな真言を知っておけば行くハードルが下がる的な感じなのだろう.

 で, まぁ割とお気楽に「神恩感謝」(寺院の場合は「報恩感謝」)を使っているわけだが, ふと

「そのこころは何だろう?」

ということが気になった. というのも, 「神恩感謝」を口にするのは私だけではなく, それなりに一般的な現象らしいので, 何かしらの普遍的理があることが推察されるからである. 

 最初に思ったのは, ガチャでよく言われる

「物欲センサー(を抑える?)」

的なことである. つまり

「本命の願いをガッついて頼むと叶わないから, 「神恩感謝」で儀礼的に頼む形式にしている」

という解釈. 

 ただ個人的にはこれは当てはまらないし, 別の理があると感じる. それをまとめると次のようなことではないか. たとえば, 以前の「無名人インタビューー」

https://note.com/unknowninterview/n/n93b995b17a25

でも言っているように, 私は「運の良さ」にはそれなりに自信がある. あるが, あるがゆえにというか, 自身の「運の容量」のようなものもおおよそ把握できている(つもりである). だから, わかるのだが, 時として私個人の「運の容量」を超えた事象に遭遇することがある. これは「たまたまその時物凄く運が良かった」という感じではなく,

「私自身が全く感知できない, いくつもの事象, 偶然が, 信じがたい形で重なったり, 連なったりする」

といった類のモノである. 一つ二つならいざ知らず, そんな偶然や幸運が時間や間隔をあけて, 五つも, 六つ, 更にはそれ以上に(麻雀で役が上がっていくかの如く)連なっていること, そんな奇跡のような運の連なりが一度や二度ではなく何度も起こることは流石に私個人の運の良さの範疇を超えている. 事象(自称)としては, それこそ「運命」とでもいうべきモノかもしれない. 

 恐らく歳を取ると, そういう経験をする機会が増えてくるのだと思う. そうすると, 自身を超えた天とか, 神とかといった類の事象を感じざるを得なくなってくる. 感じた後で驚いたり, 恐れたりはするが, 最終的には「感謝」に落ち着く. これが「神恩感謝」のこころではないか. 

 つまり寺社仏閣に参拝するのは, 何も神頼みをしようと思っていくわけではなく, そうした自身, 個を超えた事象との関りを経験したこと, より積極的にそのことにより何らかの益を得たことに対しての一種の「代償行為」のようなものではないか, ということである. 要するに, 願う以前に(願ってもいないのに!)「前借り」している状態なので, それに対して「感謝」という形で「借り」を返しているという感じである. 「神恩感謝」, 更に言えば日本における「信仰」の理はこの辺りにあるのではないか. 

 まぁ, 仮に天だの, 神だのがあったとして, 更にそれに対しての何らかの「借り」があったとして, それを寺社仏閣(神仏)に返すことが正しい保証は何もないわけだが, むしろそのための「窓口」として寺社仏閣があると考える方がよいのかもしれない.

 考えてみれば

「特に願いもなく, 「神恩感謝」を願っているだけ」

というのは, それだけでかなり「幸せ」なことである. たとえば先日, 山奥にある某有名神社に行った時も, 私の前に並んでいた熟年夫婦(?もしかしたら夫婦でない可能性もある?)が1円の賽銭を投げて, 「銀行のカードが貰えますように」と一生懸命(口に出して)お祈りしていた. が, 一心不乱に祈っているにも関わらずなんとその1円の賽銭は賽銭箱に(口にハサまって)入っておらず(それに気付いておらず!), 更に私が賽銭を入れる際に入れてあげようと指で何度も動かしてなお賽銭箱に入らなかった. 私が投げた(1円玉よりずっと大きな!)500円玉はストンと入ったのにも関わらずである. これ自体も一種の``神霊(!)体験''の類かもしれない. あの日は年に何度も無い御目出度い日で高龗神様はご機嫌が凄く良かった日のハズなのだが, こんなに明確に拒絶されることがあるのか. 

  昔, ある人に

「神は『自らを助ける者を助ける』のではなく, 『助かりそうなヤツだけ助ける』」

と言われたことがあるが, この``神霊体験''もそういうことなのかもしれない. で, なんか「幸せって何だろう」って改めて思いながら, 

「「神恩感謝」を願えるってそれだけで幸せなのだなぁ」

としみじみ感じた.

 そんなわけでしばらく休日の寺社巡りは続きそうです. 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?