No.200 「LIVE A LIVE」HD-2Dクリア記念雑感 7 功夫編 --「伝承」と「心」と「鳥児在天空飛翔 魚児在河里游泳」の理--

0. はじめに

 いよいよ「LIVE A LIVE」30周年大感謝祭 ~蒲田編~ が明日に迫った今日, note が No.200 に到達した. そしてその記念すべき No.200 の note を「LIVE A LIVE」HD-2Dクリア記念雑感の, 一番好きな功夫編に当てられたことを喜ばしく思う. 

 正直, 功夫編は私にとってあまりに特別過ぎて, ちょっと他と同様に扱える自信がない. 恐らく私の人生哲学の根底の一つにこの物語があり, 非常に極端に言えば自分自身の中に溶け込んでしまっているので, それを論じることはある意味で私自身を論じることに通じるのである. そういうこともあって, 功夫編を語ることは自分の事を曝け出している感じがして, いささか気恥ずかしい.

 だが, No.200 記念と「蒲田編」の前夜祭のノリで, それぞれ

1.「伝承」の理
2. 「心」の理
3. 「鳥児在天空飛翔 魚児在河里游泳」の理


の3つの理から功夫編を語ってみる. 人生にそんな日があってもよいだろう.  

1. 「伝承」の理

 「LIVE A LIVE」の専門家の間でこの辺り(「伝承」)がどれくらい研究されているのかは詳しくは知らない. ただこの四半世紀の間に色々眺めてきた感覚から言えば(それこそ中世編あたりは膨大にやりつくされていそうだが), 功夫編に関しては, 一見わかりやすい「心じゃよ!」という(吉川英治の宮本武蔵的?)メッセージの方が強調されて, 本来のテーマである「伝承」との関りを論じることは存外少ないように思う. 

 何故「伝承」(が大事)なのか. それは

『「伝承」によって, 初めて「心山拳」は完成したから』

である. 仏教における「真の悟り」とは, 単に「悟り」を会得しただけでは不十分で, 誰かに「伝承」されて初めてそれが完成されるという. つまり「伝承」とは「心山拳」が真に完成するための画竜点睛(!)であり, これこそが「伝承」の理である.  
 
 そして「伝承」は必ず「継承」とセットで論じなければならない. 以前受けた「無名人インタビュー」

の最後の方でも,

私が運命を感じるってのは、そりゃ継承の瞬間か伝承の瞬間か知らないけど、そういう瞬間なんじゃないすかね。

と言って, 「運命」を感じる典型例として, 「伝承」, 「継承」ということをあげている(ちなみに上述の「伝承」と「悟り」の行は, ここで語っている「哲也」関係の本の「聖」の行のどこかに書いてあった). これは間違いなく功夫編の影響である.

 実際, 30年前に「LIVE A LIVE」をやってから, たとえば恵果阿闍梨と弘法大師の逸話(伝説)等を学んだり(これは「悟り」に直結しているので正に!)したが, その都度やはり功夫編を思い出した. 無論事実は逆で, そうした実際の(数多の)継承伝承伝説から功夫編が生まれたのだと思うが, それゆえにそこにそのエッセンスが凝縮されているのかもしれない. もしかしたら私が継承伝承への強い憧憬を抱くきっかけになった理由も, その辺にあるのではないか.

 ちなみに「無名人インタビュー」では順番として「継承」を先に上げ, 「伝承」を後にしているのは, 私自身の人生が(というより万人が等しく)辿るであろう順番がそうだからである. そうすると

「老師は誰から継承したのか」

ということも少し気になる. つまり心山拳は誰かから継承したものだったのか, あるいは彼自身が創始した拳法だったのか. 「我が拳法」という言い回しとしてはなんとなく彼自身が創始したようにも感じるが, 実はそれはどちらでもよい. つまり仮に老師に「継承」がなくても構わない. 何故ならば, 弟子に「伝承」する際に「継承」も同時にされるからである.

 そして功夫編のタイトルは「伝承」であり, それすなわちその一連の過程を老師側から見た物語なのである. これは中々秀逸であり, ラストのオディワン・リー戦では主役がスイッチしたように見える場面をどう解釈するかに関わってくる. すなわち,

『あの時点で「伝承」はなされ, 老師の物語は完結した』

という見方と

『やはり老師の最期までをもって物語は完結した』

という見方である.

 恐らく前者の方が優勢であり, 私もその意見に賛同する. より厳密にはあの場面で「旋牙連山拳」の回想がなされたあそここそがピンポイントで伝承シーンなのである(正に「心に焼き付けておけば」). あそこは「MEGALOMANIA」直前にも関わらず「魔王オディオ」がかからず(これは西部編と功夫編だけである), 「鳥児在天空飛翔 魚児在河里游泳」がかかることからも, 「LIVE A LIVE」全編を通じても極めて特異で特別な瞬間であることは明らかである. 正に「運命の瞬間」と私が言うのも頷けよう.

2. 「心」の理

 これは功夫編を語る上では今更強調するまでもないことだが, しかし敢えて再度問うてみたい.

『「心」とはなんぞや?』

それが難しいなら以下のように問うてもよい.

『何故「心」なのか?』

 功夫編では「心」と「強さ」が語られる. 心山拳は「強さ」を追求するが, そのアプローチは肉体よりも精神に重きを置いたものである(無論, 体を鍛えないわけではない). 義破門団(義和団?)はともかくストイックに(手段を択ばず)「強さ」のみを追い求める. 一見すると, 特に合理主義全盛期の現代においては, どう考えても義破門団の方が強そうだが(実際強いが), 物語においては予定調和的に義破門団は敗れる. それは何故か? 如何なる理をもって, 心山拳は義破門団に勝ったのか. 

 その秘密は功夫編の冒頭の老師の語りにある. 始まりはこうだ. 


『楽』に流される世の風潮
それによって途絶える命運を余儀なくされつつある拳法の流派があった

 つくづく「よくこれを当時の子供向けのゲームで出した」と感心するが, 正にこれこそが功夫編における「心」の理を読み解く鍵である. 

 つまり「わかりやすい力」, 「わかりやすい強さ」, あるいはもっと現代的に「わかりやすい評価」, 「わかりやすい結果」のように言い換えてもいいが, それのみを追い求めるというのは一見ストイックで強いように見えるのだが, 実は『楽』に流されている, ある意味で easy going な道なのである.

 他方, 「心山拳」は「途絶える命運を余儀なくされつつあ」りながらも, その『楽』な道を選ばなかった, かつ「伝承」できた. だから「心山拳」は義破門団よりも強いのである. そして『楽』に流されない道を選ぶということ自体が最終的には「心」の強さに帰結する. それゆえの「心」なのだ.

 より極論すれば, 

「高々勝負に勝った負けた, あるいは強い弱いにどれほどの意味や価値があるのか(実はそれほど意味はない)」

ということになる. それこそ柳生石舟斎の

兵法の かぢ(勝ち)を取りても 世の海を わたりかねたる 石の舟かな

の心理(真理)にも通じるだろう. 実際, 柳生新陰流は活人剣とされ, おそらくその目指した思想, 方向(「兵法のかぢ」ではなく「世の海」をわたる強さとは何か?)は「心山拳」に近い(無論, 当然これは逆)と思われる.
 
 これこそが功夫編の「心」の理である. 「昭和の男」であり, いつの時代にもおいていかれ, 数多の辛酸を舐めるしぶやんだからこそ, このことを日々痛感する. 尤も私の場合は「心」の強さというよりは「諦観」が勝っている気もするが, それでもそこに功夫編の影響を感じる.

 なんなら

「『楽』な道を選ばない」

ということに自身の存在意義を感じてさえいるように思う. そして老師のように運命の, 伝承の時のために生きていく. 一体, いつから私はそんな生き方に憧れ, そのように生きるようになった? もうそれさえも思い出せない. あるいは30年近く前に功夫編をやった時からそうだったような気さえする. 

 そういう意味では, 当時1プレイヤーであった私もまた「心山拳」の「継承者」であったのだ. それから四半世紀以上が経った今, あの頃とどれほど変わったのかと問われれば正直心許ない. 実際, 「伝承」はおろか未だに「継承」も満足に出来てはいない(いつになったら「旋牙連山拳」ができるようになるのかなぁ…)浅学菲才の身の上のままだ.

 しかし同時に, いくら未熟とはいえ, 人は誰しもが何某かの「伝承」(命か, 技か, 心か, etc.)をする運命から逃れえることはできない. なぜならば, それこそが人間の存在理由(『天から役目なしに降ろされた物はひとつもない』)だからである. そしてだからこそ, そんな『楽』に流され続けている今を生きる我々だからこそ, 「心山拳」が, すなわち「心」の理が必要なのだ.

3. 「鳥児在天空飛翔 魚児在河里游泳」の理

 この詩(曲)はとても不思議だ. 未だに Chinese としての正しい読み方を知らない(Google 先生も DeepeL 先生も教えてくれない?). しかしいい曲だ. 下村陽子の自信作らしいが, HD-2Dリメイクで更に素晴らしくなった. この2年で最も聞いた「LIVE A LIVE」の曲がコレである. 1年半前に神社巡りに目覚めて(?), 山に行った時にはいつもこれを聴きながら歩いている. 

 「鳥児在天空飛翔 魚児在河里游泳」という字面からは明らかに老荘思想的な感じを受けるが, 曲調は朗らかであり, そういうイメージではない. 言うなれば喜太郎のシルクロードの楽曲のように

「日本人が「桃源郷」としてイメージする China (そんなものは実在しないが)の曲」

である.

 功夫編においてこの曲は,

1) 冒頭
2) 弟子との修業
3) 義破門団襲撃直後(「旋牙連山拳」の伝承シーン)から突入までの間
4) MEGALOMANIA直前
5) ラスト

の計5回かかる. 無論, 4) と 5) の印象が強いが, 「鳥児在天空飛翔 魚児在河里游泳」的感じ(?)が最もするのは 3) だと思う. 

 私にはこれはシーンも相まって杜甫の「春望」


國破れて 山河在り
城春にして 草木深し
時に感じては 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 萬金に抵る
白頭掻けば 更に短かし
渾べて簪に 勝えざらんと欲す

を連想させた(あるいは「春望」を詠んだ時の杜甫と老師は同い年くらいなのかもしれない). すなわち

「かなしみの中にあってなお, 変わらぬものとしての自然」

である.

 ただ同時に上述の「伝承」の理と「心」の理を併せると, 更にまた別の意味合いを感じる. それすなわち

「変わるモノと変わらぬモノとの対比と在り方」

である.

 ここで言う「変わるモノ」はたとえば人や時代である. それに対して「変わらぬモノ」(あるいは「変わらずにあるモノ」)もある. それが上述したような「伝承」や「心」あるいはそれらの理である. 実際, 「運命」の在り方とその役割は人間が人間である限り(!?魔王?), いつの時代も不変(普遍)だと思うし, 『楽』に流されないということは正に「変わらない」ことでもあるからである. 

 このことを「鳥児在天空飛翔 魚児在河里游泳」の理として読み解いてみよう. まず「鳥児在天空飛翔 魚児在河里游泳」を「変わるモノ」と「変わらないモノ」との対比で読み解く. これはたとえば

鳥児は「変わるモノ」だが, 天空は「変わらないモノ」, 飛翔は「変わらないコト」
魚児は「変わるモノ」だが, 河里は「変わらないモノ」, 游泳は「変わらないコト」

といったことである.

 だが, 広いスパンで見ると, この詩は恐らく来年も, 再来年も変わらず

「鳥は空を飛び, 魚は河を泳ぐ」

とイメージしているように感じる. 無論, 個々の鳥や魚は恐らく変わって(世代交代して)いるはずだが, 総体としては不変であるように思える.

 すなわち

「変わるモノ」が「変わらないモノ」において「変わらないコト」

により, ある種の不変(普遍)性, 永続性が実現するということでもある. 「老荘思想や神仙思想の根源は要するにこういう信仰ではないか」と感じるが, それこそが「鳥児在天空飛翔 魚児在河里游泳」の理だと私は考える. そして, これを支えるモノ, 密接に関わるモノが「伝承」と「心」である.

 より正確に言えば, 

『「変わるモノ」としての人が, 「変わらぬモノ」としての自然ないしは世界において, 「変わらぬコト」が「伝承」と「心」の理である』

ということだろうか.

 かくして功夫編の「伝承」と「心」と「鳥児在天空飛翔 魚児在河里游泳」を巡る理は, ここに完成をみる. 

 これがHD-2Dリメイクを含めた30年の時を経て, 私が辿り着いた功夫編の理である.

4. さいごに

 現代は難しい時代だ. 何ならあらゆるものが『楽』に流され続け, 「春望」で「國破れて 山河在り」と謳われ「変わらぬモノ」の象徴であった自然でさえ, 今では「変わるモノ」としてのイメージを抱くこともあるかもしれない.

 であればこそ, すなわち自然や世界というモノに対しての不変性(それこそが変わりゆく世界における基準点であり拠り所)のイメージを回復するためにも, なおのこと我々には功夫編とその理が必要なのだと思う. 「LIVE A LIVE」が28年の時を経て, HD-2Dリメイクで蘇った意義の一つもまたそこにあると信じる.

 そして「伝承」と「心」と「鳥児在天空飛翔 魚児在河里游泳」の理に導かれた先, 我々は一体どんな運命に巡り合えるのか. 何より果たして私は, 老師のように老いさらばえることができるのか. 

 小学生の時から30年経った今でも, ある意味, それだけを希望と楽しみに私は生きている.

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