No.198 「LIVE A LIVE」HD-2Dクリア記念雑感 5 原始編 --「ポリティクス」の起源の考察--

0. はじめに

 今回の HD-2D リメイクで声がついたことにより, 逆に(「言葉が無い」ということで)ある意味で最も特色が出たと思われる原始編. しかし原始編のそうした(文字通りの意味での)「舞台装置」としての側面の詳述は, 中世編との対比(セリフの無いオルステッドと言葉の無いポゴとの対比)の方に回すとして, ここでは主に「ポリティクス」の起源の考察について述べる.

1. 「舞台装置」としての原始編

 「LIVE A LIVE」の「舞台装置」としての位置付け, 意味合いに関しては西部編, あるいは中世編との対比で論じたいのでここではその簡単な概略のみ付す.

 「LIVE A LIVE」はしばしば「映画的」と評される. それはたとえば原始編(とSF編)は「2001年宇宙の旅」といった有名な映画が元ネタになっていることもさりながら, その見せ方, 演出に依る所も大きい. その topics に関しては既に多くの研究があると思うのでここでは言及しない.

 私がここで注意したいのは(以前からしばしば指摘してきたが)

『「LIVE A LIVE」は「映画的」というより, 「舞台的」である』

ということである. むしろ今回の HD-2D リメイクと時代の変遷により, その傾向は以前よりもより顕著になったといえる. 

 たとえば「画面の見せ方」, より正確にはカメラワーク. あれは30年前のスーパーファミコンの時代では「普通」であったし, そうであるがゆえに「舞台的演出」はそうした制約の下で「映画的演出」に漸近するための技法とみなされていたと思う. しかし, 21世紀以後, ゲームの動画的, 映画的(というよりは映像的)演出が「普通」になった現代において, 30年前のあの演出を見ると, あれらはむしろ「映画的」というよりは「舞台的」に見える. それが最も顕著なのは西部編だと思うが, 各編のマップを見ても, 「舞台」における各舞台(場面)のように思える. そう, 当時のJRPGというのは「映画的」ではなく, 「舞台的」なのである.

 原始編に関して言えば, 「言葉が無い」ので映画的(写実的, 現実的)に作ってしまうと話が良くわからない. 元ネタとしては「デルス・ウザーラ」あたりも入っている気がするが, 原始編は言葉をしゃべれる(第四の壁を越えてこちらに翻訳してくれる)キャラが誰もいないので映画にするには非常に難しいのである. そこで舞台的(もしくはミュージカル的)に動かすことで, 物語として理解ができるように作られている. 

 こうした手法はもっと評価され, 見直された方がよい. ゴミなろうのゴミ異世界転生では絶対に実現できない(というより恐らくそもそも小説的, 文学的描写では捉えられない)事象なので, ゲームやアニメのもつアドバンテージになるからである. 

2. 原始編の時代とストーリー

 「ポリティクス」に関しての考察をする前に, 実は意外と語られない原始編のストーリーを, 私の理解に基づいて述べておこうと思う. 

 舞台は言葉が無い時代の人類. 恐らくは中期石器時代だが, ポゴ, ゴリ, べる, , ざきの格好を見るにかなり温暖であることがわかる(普通は表面積と熱の放出の関係で, 寒くなると生物の体は大きくなる傾向があるので, 温暖なのにキングマンモーのような巨大なマンモスがいるのは不思議だが). 言葉をしゃべっていない描写を見るに最後の氷期である3-2万年前よりは前の時代(1万年以後の温暖な時期だと恐らく言葉はもう喋っている)だと思われるので, それ以前の温暖な時期だとすると13万年前あたり(の $${ \pm }$$ 1万年くらいのどこか). それ以前だとすると(氷期は大体10万年サイクルでやってくるので)20万年, 30万年の中の1万年間のどこかということになる.

 余談ではあるが, ご承知のように少なくともここ100万年くらいは地球は寒い時代が圧倒的に多く, 温暖な時期は大体1万年も続かない. その意味でも巷間伝わる地球温暖化というものには私は懐疑的である(考えるスパンが短すぎて参考にならない. せめて100年 order で見ないとなんとも言えない. 大体単純に温暖化するだけなら湿潤寒冷化するよりずっと良いのでそもそも問題でも何でもない). 「2001年宇宙の旅」とモノリスになぞらえるならば, 400万年前になるが, 後述の「ポリティクス」を論じるには流石にこれは古すぎると思う. 

 で, 話の大筋としては, A と B という二つの種族というか, 集団が出てくる(ここではA族, B族と呼称する). で, B族はお~でぃ~お~という恐竜(? の生き残り? 白亜紀から種として何千万年も存続するにはある程度の数が必要のハズだが, 西部編のディオのように何かが恐竜に化身していたと解釈すべき?)に生贄(私は「生贄」という仕組みも儀式的いうよりは, もう少し整合性のある政策の一種と考えているので, ここにも「ポリティクス」が垣間見える)を捧げていた. ところがその生贄の少女であるべるがひょんなことから脱走し, A族のところに逃げ込み, A族の少年(当時は平均年齢が短いので恐らく成人扱いされており, 少年と呼ぶには抵抗がある)であるポゴが彼女をかくまってしまう.

 その隠蔽がバレてしまい, ポゴは相棒のゴリ, かくまったべると共に追放されてしまう(ここが今回焦点を当てたい「ポリティクス」要素). 追放されたポゴ達は荒野を彷徨うが, B族の追っ手にべるをさらわれてしまう. それを追跡したポゴとゴリはB族の儀式の現場を押さえ, 闘争の末にべるを取り戻すが, そのままお~でぃ~お~との戦闘(討伐戦)に突入. B族のざきとの共闘もあり, お~でぃ~お~の討伐に成功. ポゴとべるは結ばれ, A族とB族の融和, 調停(あるいは逆にポゴとべるの婚姻は, A族とB族の融和策の一環としての政略結婚とみなすべき?)もなされ, 物語は終結する.

3. 「ポリティクス」の起源の考察

 ここで「ポリティクス」をなんと訳すべきかは少し悩む. 単純に「政治」とするにはそれは余りに原始(!)的である. 祭事(催事, まつりごと)と呼ぶには儀式的, 宗教的色合いが薄く, より現実的なムーブメントである. 強いていえば

「(集団内, 更にはいくつかの集団同士の)関係」(もしくはそれを意識したムーブメント)

といったあたりか. 逆に「(集団内の)掟」というとまだ「ポリティクス」には遠い. それはたとえば猿やチンパンジーでも持っているものであり, 「ポリティクス」はよりその先にあり, たとえばその掟がより広く敷衍しているとか, より合理性があるとか, 儀式色を帯びる(ホモ・ルーデンスとしての「遊び」)とか, そういうものを想定することにする.

 ともかくそのような「ポリティクス」を意識して, 上述のストーリーを見直してみると, 私が解釈した形でストーリーを述べている(+ 合間に注釈を入れている)とはいえ, 「ポリティクス」的要素がそこかしこに垣間見える. たとえば

1) 「生贄」という仕組み
2) ポゴ達の追放
3) ポゴとべるの婚姻とA族とB族の融和

である. 興味深いのは(史実がどうであったかは別にして)

『「原始編はこれらのポリティクス 1) , 2), 3) の起源が言葉以前である」と主張している』

点である. 

 以下の話はあくまで「LIVE A LIVE」の原始編と, この辺の専門家では全くない(何なら殆ど何も知らない)私が知っているいい加減な知識にのみ基づいて適当に補間して作り上げた妄想に過ぎない. それこそ「ヤスケェ」よりも雑な妄想なので真に受けないように.

 まず 1) の「生贄」についてだが, この仕組み, あるいはカルチャーは一体いつからあるのだろうか. 人間以外の動物でこういう行動をする生き物はいるのだろうか. 素朴に考えれば「生贄」とは「間引き」の延長である. そもそも「生贄」以前に, 「間引き」という

「種全体の個数の調整を自ら行う」

という発想自体も知性がある程度発達しないと出てこないだろう. 恐らくは最初に「家畜」から「間引き」という発想が生まれ, 種族の危機に瀕してその発想を自身に適用して生き延びた事象を長い年月を経て生まれたのだと思う.

 「生贄」は単純な「間引き」から更に発展して

・貴重な労働力である若い男ではなく
・放っておけば消える年寄りでもなく(集落内での労働は可能で, 知恵や技術も身に付いており, それなりに役立つので, 消す優先度としては下がる)
・人口を増やしてしまう可能性のある若く, かつ性的魅力のある年頃の女を優先的に消す

というより洗練されたシステムになっている. しかも面白いのはそこに儀式的な色をつけて, 一種の合理化を行い, いわば「制度」(とまでは行かずとも「慣習」)にまで昇華させている. よく

「生贄は愚かだ, 野蛮だ」

としたり顔で言うバカがいるが, とんでもない(少なくとも何も考えずに現代的な価値観だけでこう叫び回る連中の方が遥かに愚かで野蛮である). 「生贄」とは非常に良く考えられ, 確立した仕組みであり, 十分「ポリティクス」と呼んでよいものなのだ. 当然「生贄」があるこの B族はかなり知的水準が高いことがこれでわかる.

 で, 今回最も注視したい 2). これもよくよく考えれば不思議なことで, 何なら追放するのは生贄のべるだけで良いはずなのである. ところが実際はそれを匿った身内, しかも貴重な労働力である若い男である, ポゴ(とゴリ)も一緒に追放してしまっている. これこそは非常に政治的な判断である. つまりA族が種族として, B族に

「生贄は知らん(匿っていない)」

と主張してしまった以上, それを匿った責任を誰かが取らねばならない.

「いっそ「べるを匿った」という事実そのものを隠蔽して, べるだけを追放する」

という選択肢も当然あったはずだが, 物語的, メタ的制約もあってのことだろうがそれを選ばず, 匿ったポゴを追放した. 結果としてはそれでべるも救われ, 物語は good エンドになるわけだが, 普通であれば3人とも野垂れてしまった可能性の方が高かったはずである.

 にもかかわらず, A族(正確にはA属の族長, 長老)はその選択をしたのは, 彼が「ポリティクス」的感覚を有していたからである. 最悪の場合は, 本来のエンディングとは真逆に, これがきっかけでA族とB族の抗争(もっといえば戦争)になった可能性もあり, それを考えればポゴ(とゴリ)でオトシマエを付けたという判断は至極真っ当である. こんな高度に政治的判断を, 言葉を持たない原始人が出来たとは信じがたい. 他方, 原始編をやると

「逆に高度な政治的判断は覚悟の決め方の問題であり, 本来言語とはあまり関係ない(少なくとも覚悟を決めるのに言葉は余り寄与しない)のかもしれない」

という気もしてくる. 現にこれほどまで高度に言語が発達した現代において, こういう真っ当な政治的判断ができる人間がはたしてどれほどいることか. 

 私が主張したいことは概ね以上で尽きているが, 原始編と「ポリティクス」を明確に関連付ける証拠として 3) を挙げておく. ここは非常にわかりやすい示唆で, 一見単純なボーイミーツガール的ストーリーとそのハッピーエンドにみえる原始編とそのラストが, 長老とざきの並んだ(そしてその宴)のカットを入れることで,

「二人の婚姻が彼らにとってのものだけではない」

ということを明確に描写している.

 ちなみにこのテの種族(集団)同士の婚姻というと, 当然レヴィ・ストロースの婚姻論(インセスト・タブー)を想起させる.  彼によればそれこそが人類社会の確立に寄与した(?)ということなので, 人類社会が確立する以前の原始編のラストで種族の融和と婚姻が描写されているのは, 実は背景にその思想があるからではないか.

 若干マナー違反だが, こういうことも時田貴司に聞いてみたいことではある.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?