No.171 スピリチュアルの「思想」と「方法」

0. はじめに

 ここ1年くらい, 俗に言うスピリチュアル的(?)なことにハマっている. 厳密には, 全くひょんなこと(水を汲んでくる)がきっかけで色々な神社に行くようになった. 歳を取って, 色々不安だとか, 信心深くなったとか, そういういった事情も全く零ではないとは思うが, 多分そういうことはあまり本質ではなく, 人との出会いと似た感じで

「(そのテのものとの)ご縁を得た」

というのが一番しっくりくる. それこそスピリチュアルの用語を用いれば, 

「その神様(私の場合は龍神系)に呼ばれた」

ということになるのだろう. 

 そういう事情があって, (御祭)神や神社の由来や系統を調べたりしているうちに, その手のスピリチュアルな知識もセットで知ることになったのである. アレには霊格だの, 波動だの, 守護霊だの, わかったようなわからんような話が色々あるが, おおよそどんなモノかもつかめた感じがするので, それを簡単にまとめてみる. 

1. そもそもの前提

 まずスピリチュアルが何かを語る前に, それ以前のこと, 特に私が無条件で是としている「思想」を述べておく. それは 

(1) 「運の良し悪し」というものは厳然として存在する
(2) 人, あるいはモノとの「縁」(巡り合わせ)というものも厳然として存在する

の2つである. 

 この2つはスピリチュアルがどうこう言う以前に(つまりそれが正しいか間違っているか, あるいは価値があるか無価値かとは関係なく)世の真理であると思われ, これらを否定できる人間はいないだろう. 人間が「個」の枠を越えて, 世界と関わろうとするとき, これらの真理から逃れえることは能わぬのだ(もしこれらを否定する人間がいるとすれば, それは多分人生をロクに生きていないのだと思う). 

 そしてこれら2つの前提は, 俗に言う諸々のご利益と深いかかわりがある. 実際,

「運が良くなる, 運気が上がる」

とか, 

「縁結びがどうこう」

というのは寺社仏閣やら, パワースポットやらでの常套句である. 当然, スピリチュアルで語られるテーマもこれらであると言って間違いない. つまり自身の運気を上げたり, 良縁を得るための「思想」と「方法」の総体がスピリチュアルという位置づけになる. 

2. スピリチュアルの「思想」と「方法」とその効能

 では, スピリチュアルというのは何らかの効能があるのか? 結論から言えば,

「ある意味 Yes」

ということになる. 以下, その「思想」と「方法」を述べてみる. 

 第一に, 効能の有無は別にしても, 「運」とか, 「縁」とか合理的, 理性的思考や手法では扱えない対象に対しての, 作法というものを教えてくれる. 人間というのは不思議なもので, 自分がどうにもできないような状況や対象を前にしても, 「何もしないでいる」ということができない(「何かがしたくなってしまう」)生き物である. スピリチュアルはその「穴」, スキマを埋めるための知恵である.

 つまり, 合理性ではどうやっても埋められない「穴」を認識してしまうと, それがどうにもできないとわかりつつも, 何かをしたくなってしまう. その時に理性的に埋めようとしても埋まらないのに, やめられないドツボにハマってしまうことがあるが, そこを適当なスピリチュアルで埋めて納得させてしまう. 要は「予め思考を回してもムダ」とわかっている事象や対象に関しては, 最初から

「そこに思考を割かない」

と割り切ってしまい, 思考のリソースは別に回すのである. これは中々``合理的な''解決策だが, スピリチュアルはその「割り切り」のための方便として有用である.

 たとえば, どうしても反りが合わない人間に対しては, 理性で割り切るのは難しいので

「あの人の波動が云々」

とか

「霊格が云々」

とかいうことにしてしまって, もうスパッと割り切って,

「どうして?」

とか

「なんで?」

とかはそれ以上問わない. もちろん, こんなのは「ただのコジツケ」で何の意味もない. しかし逆に考えれば, 「ただのコジツケ」でもって, いくら頭を使っても解決できない事態の解消ができるのだから, それで十二分ではないか.

 第二に, 「運の良し悪し」というものは厳然として存在する一方で, ある種主観的な面も大きい. つまり

『自身が「運が良い」と思い込めるか』

ということも少なくない要素を占める. スピリチュアルは「運が良い」と思い込むための方法を提示してくれる. 

 たとえば

「茶柱が立った」

とか, 

「虹を見た」

とか, 

「竜雲を見た」

といったようなことである. これらは, 幾ばくかの希少性はあるものの, 単純に考えれば自身の運勢とは独立の事象に過ぎない. が, 希少性という一点のみにおいて, 自身と結びつけることで, 「自身の運が良い」と思い込むきっかけを与えてくれる. 

 「自身の運が良い」と思い込むことは, 状況次第では(希望的観測を誘発して) negative な結果につながることもあるが, 日常生活においては恐らく心理的なプラセボ効果の効能の方が大きいだろう. スピリチュアルはいわば「幸運の spot」のようなものを日常生活の中に具体的に提示することにより, そういったメンタルを改善する機会を増やしてくれる. 

 ここまでみてわかったと思うが, 要は

『スピリチュアルとは「ただのコジツケ」なのだが, 「ただのコジツケ」というのにも存外使い出がある』

ということなのだ. あるいは

『スピリチュアルとは「ただのコジツケ」を有用に使いこなすための「思想」であり, 実際の「手法」である』

と言ってもよいかもしれない.

 「ただのコジツケ」であるから, そこには合理性, 特に整合性は余りない. だから

「神社に行って晴れると運がいい」

and 

「神社に行って雨が降ると運がいい」

というような矛盾する(この場合は両立の否定はしていないので厳密には矛盾はしていないのだが)言説がいくつもある. これは

「だからスピリチュアルはダメ, インチキ, デタラメ」

というのではなく, むしろそれこそがスピリチュアルの真骨頂で, 状況に応じて自分が信じたいモノを信じるのが正しい使い方である. 上述の神社の言説を例に倣えば

「晴れようが, 雨が降ろうが, 神社に行くと運が良くなる」

という風に捉えるべきなのだ.

 これは由緒正しい兵法の一種であって, たとえば宮本武蔵と宮本伊織の逸話でも, 伊織の仇討ちの話で, 武蔵が伊織に

「決闘の当日足元に蟻の行列があれば云々. 無くてもワシが祈祷しているから大丈夫」

みたいなことを言う話もあった. つまり生き死に関わる重い場面でも(寧ろそのような深刻な場面だからこそ), そうやってメンタルを良い方向に持っていこうとする知恵は古来から色々あって, 現代でもその需要が尽きることはないのである.

3. 最後に

 色々論じてきたが, 無論, これがスピリチュアルの全てではないのだろう. 寧ろ, (本当の意味での)スーフィズムというのか, もう少し神秘主義的な側面にフォーカスするのが本場のスピリチュアルかもしれない. 私は運命論者なので, そういう話もある程度は許容できるが, まだうまく言語化できる段階ではないので, 今回はここまでにする.

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