No.173 止まった日記のカウントダウン

 つい今しがた祖母が息を引き取った. 上皇陛下や黒柳徹子と同い年(90)なので, 十分大往生の部類でそれだけで十分幸せではあるのだが, なんというかとても印象深い, 非常に幸福な最期であったと思う. このことを含め, 祖母について書くことは山ほどあるが, それはまた後日書ければ書くことにして, 今回は今のこの心境を, 書こうとしている日記と絡めてサッと短くまとめておこうと思う. 

 まずそもそもとして, 4年前に

「余命3日騒動」

があった. つまりコロナ騒動の勃発直後の令和2年4月にヤブ医者に「余命3日」を宣言され, 「最期は家で看取る」と宣言し, あの「姨捨山病院」を脱出したのが, 令和2年4月16日(木). それから毎日つけている日記に祖母が退院してから退院からの日数を毎日数え続けていたのである. それが昨日で1448日になった. あれから4年, 当然そんなはずは絶対にないのに, 毎日これを数えていくうちにこれが永遠に続くような錯覚を覚えたのも無理のない話だっただろう.  

 ともかく, 明らかにクソヤブ医者共のキチガイ誤診(ぶっちゃけアレは今でもガチで完全なる医療ミスとその隠蔽だったと考えている. 実際, その後もある年齢以上であの病院に入った患者で生きて帰ってこられた知り合いを知らない. 友達の医者も最近は推薦書を書くのをやめたと言っていた)であったとはいえ, それでも「余命3日」からその482倍も生きられたのだ. これだけで十二分に幸せであろう. 最初の200日(正確には193日)程は家族がコロナで仕事が無くなったり, リモートになったりしたので, ホームヘルパーサービスを併用しながら, 家族総出で祖母を自宅で介護した. この頃も大変だったが, 今思えばこれもまた幸せな日々だったと思う.

 ただ祖母が退院してから193日で地元の別の病院に再入院. この時, 恐らくは実家にもう戻ることは叶わないであろうことを感じつつ, 祖母を病院に連れて行ったのだが, コロナ騒動で面会謝絶になってしまい別れる前に祖母は「いつまでも待ってます」と言っていたのが忘れられない. その後も祖母は我々が迎えに来るのを待ち続け, 施設では一度も「家に帰りたい」とは決して言わなかったという.

 それから更に175日後には施設に入居. その後は, コロナとそれに伴う諸々の災難からは逃れること能わず, 全くバカバカしいことに一度も面会ができなかった. 正確には画面越し, 壁越しの時間制限付きの面会しか許されず, 祖母の認知症はどんどん酷くなっていって, 面会でも会話できなくなっていってしまった. 

 で, 一昨日(4月1日)に施設で容体が急変し, 人工呼吸器をつけ, 病院に搬送され, それから37, 8時間程で無くなった. 施設入居から3年半. あの全くバカバカしいコロナ騒動の面会謝絶が何だったのかわからなくなるくらいアッサリ今わの際を家族で看取ることが許可され, 最期は集まった家族に看取られながら, 安らかに眠った. 

 結局,  「姨捨山病院」脱出から1448日, 再入院から1255日, 施設入居から1080日で祖母は亡くなったことになる. 続けていた日記のカウントダウンも今日で止まる. 何とも言えない不思議な感覚だ. 先にも述べたようにまるでこれが永遠に続くように思われたし, 逆に「これを数えているうちは祖母は亡くならない」と信じていたような気さえする. 

 また3年近くも施設に入居していて, 殆ど面会できなかったことから, ある意味で既に「いない」という感覚はあったが, それでもやはり

「生きているけど(ここには)いない」

という感覚と

「死んでいてもういない」

という感覚は全く異なるということを今実感している. 念願だった実家に今ようやく(1255日ぶりに!)戻ってきて, こんなに近くに祖母が眠っているというのに, である. 結局, あの時「これが死出の旅路となる」と感じたのは間違いではなかった. そういえば, あの時, 最後に家の中を散々歩かせたっけ. 今思えばあれも幸福な時間だった.

 日記のカウントダウンが止まり, 祖母は亡くなってしまったけれども, 最期の最後に祖母はあの言葉の通りに待っていてくれて, かつ我々に最期の孝行をする機会を与えてくれた. おかげで今は, 無論かなしいけれども, 同時に何か非常に満たされて, 「最期の最後に孝行ができた」ということの幸福とその有難さ(これは人生でそうは体験することはできないだろう)を今正に感じている. これは一体何なのだろうか. 

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