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【短編小説】夜間潜水

 海上に向けて砂浜にフラッシュライトを置く。規則正しく点滅する光は、夜の暗闇で陸の方向を見失った時の目印だ。ただ今夜は月夜なので、よほどタイミング悪く雲が月を隠さない限り、陸地を見失うことはないだろう。
 波打ち際から水に浸かっていく。身に着けている潜水機材は全部で二十キロ近くになる。波にフィンを取られてバランスを崩しかける。背負った空気タンクの重みでさらに体が斜めになったが、どうにか倒れずに姿勢を維持する。ブーツ、ウェットスーツのふくらはぎから太股、胴へと水が浸み入ってくるが、まだ冷たいと感じる温度ではない。昼間の残暑の余熱が残る空気に較べると、心地良い水温だった。
 レギュレータのマウスピースをしっかりとくわえ直す。タンクと口をつなぐ一本のホースが、肺呼吸動物である人間にとって水中での命綱となる。胸、首、頭と全身が完全に水没する。全身が水中に入って浮力を得れば、潜水機材の重量からは解放される。
 しゃり、しゃりと、波に洗われる砂の音が耳に心地良い。砂音のほかには、自分の吐き出す空気が泡になって弾けていく音が聞こえる。雪菜ゆきなにとっては学生で初心者ダイバーだった頃から、ガイドを職業としている現在まで十年以上もこの音は聞き続けているので、とっくに快不快を感じるようなレベルの音ではなくなっている。海中では常に耳にしている、あって当然の音。だからよほど意識的に聞こうとしない限り、聞こえていないも同然のはずだ。その音が普段より大きく聞こえているということは、やはり今夜の潜水は少し緊張しているのかもしれなかった。
 深度五メートルまで降りている。海底の岩影には、自分で吐き出す粘膜でベッドを作って身を守りながら眠るブダイや、昼間は白と黄色、黒の鮮やかなコントラストなのに、目立たないように全身をグレーに変えて眠っているツノダシがいる。一部の種を除いて魚は瞼を持たない。知らない人は目を開けたままじっとしている魚を見ても眠っているとは信じられないだろう。眠る魚をよそに、夜行性の甲殻類の仲間は活発だ。サンゴの上にゾウリエビがちょこんと乗っかって、その履き物のような姿を無防備にさらしている。砂地には数匹の伊勢エビが列を作って行進している。
 先を進む「店長」がフィンで蹴った水の流れに、いくつかぽっと弱い緑色の光の粒が見えた。夜光虫の光だ。彼の経営するダイビングショップに勤めて四年。この四国西南部海域でガイドをしているうちに名前の「雪」の字が皮肉に思えるほど、雪菜は黒く海焼けしていた。
 満月が近い。秋夜の月光は水中にも明るく届いて、夜の海中世界を鮮やかに照らし出している。ただし、この潜水の目的は幻想的な夜の海中世界の散歩ではない。
 死体を探しに行く。
 しゅうおじいとせいおばあは六十年近く、いつも連れ添って海を仕事場にしてきた。季節ごとの近海一本釣り漁や養殖。海が荒れて出漁できない期間ののやきもきした不安や燃料代の高騰。年を追うごとに海が痩せていくのを目の当たりにする漁獲高の減少。「こんな苦労はさせられん」と、一人息子には漁業を継がせず大学へ進学させ、息子は東京で会社員になった。孫の男の子も中学生になっている。
 余生のめども立った二人は最近はもっぱら、沖磯へ釣り人を案内する渡船業をしていた。磯へ釣り人を送り迎えし、求めに応じては釣り場まで弁当を届けたりもしていた。
 事故は昨夕、二人が沖磯へ釣り客を迎えに行く時に起きた。
 近くでたまたま目撃した漁師によると、船べりで政おばあが急に胸を押さえるような仕草をし、そのまま水に落ちた。宗おじいがすぐに船を止め、政おばあを追って飛び込んだ。目撃した漁師は無線で周辺の仲間に急を知らせた。政おばあは駆けつけた漁師仲間の船に引き揚げられたが、すでに息をしていなかった。溺れたのではなく船から落ちる直前にすでに事切れていたらしいと、直後に運ばれた病院での診断だった。
 問題は助けに飛び込んだ宗おじいが、そのまま行方不明になったことだった。うっかり忘れていたのか、慌てていたのか、泳ぐのに邪魔と判断したのか救命胴衣を着けていなかったのが災いした。
 政おばあは昨晩のうちに漁港そばの自宅へ無言の帰宅をしていた。港には仲間の手によって二人の船も帰ってきていた。
 狭い海辺の集落である。葬儀の用意など手伝うことはないかと昼間、店長と一緒に雪菜は宗おじいと政おばあが長年暮らしてきた家を訪ねた。事故を聞いて駆けつけた息子とその妻、制服姿の孫にも会った。息子からはもう海の生活者の臭いはまったくしなくなっていた。突然の出来事が受け入れられないような彼はどこか虚ろな感じで、「せめて二人一緒に送り出してやりたい」と、言葉を絞り出していた。
 仲間の漁師や海上保安庁の船、近辺のダイバーが今朝から宗おじいが行方不明になった周辺海域を捜索していたが、日没と同時に今日の捜索はいったん打ち切られた。
 夕方に関係者の間で、翌日からの捜索のミーティングが開かれた。昼間の捜索状況の報告を聞くうちに雪菜はあることに気付いた。ただし勘の域を出ない。あとで店長にそっと相談したほうがよさそうだと黙っておいた。

 海中を防水ライトで慎重に照らしながら、店長と雪菜は沖合へと泳いでいく。
 秋の大潮のこの時期、潮は満潮時に一度陸に寄せた後、引き始めると地元で「サンノジバエ」と呼ばれる岩礁付近から椿浜の沖合に流れる。宗おじいが行方不明になったのはサンノジバエ近くだ。今夜の満潮は日没の少し後になっている。椿浜は比較的遠浅な上に、海上からは気付きにくい「」と呼ばれる海底の岩も多い。喫水の関係もあって、今日の昼間は漁船や海保の船でも大型船では椿浜近くの捜索は充分に行えていない。
 ひょっとしたら夜潜ると、宗おじいを見つけてあげられるかもしれない。潮流が宗おじいを椿浜まで連れてきそうだ。ただし今夜を逃すと、潮の流れが変わって状況は難しくなるだろう。
 雪菜は店長に自分の勘を伝えた。偶然にも、店長も同じ潮の流れを読んでいた。二人が同じ読みなら、可能性は高い。そう考えて雪菜と店長は月明かりの下、海中で一緒に宗おじいを探している。
 店長は前方数メートルを潜行している。雪菜が海中ライトで後ろから照らすと、いつも通り黒一色の装備を身に付けた彼の後ろ姿が見える。店長の吐く泡がライトを反射してきらきらと光りながら水面へと浮かび上がっていく。フィンやウェットスーツといったダイビング機材には色鮮やかな柄が入った商品が多く、彼のようにすべて黒一色で統一しているダイバーは珍しい。あまりにも黒一色で目立たないようにしているので、彼はほかの海域に潜りに行った時など、たまに密漁目的の不審者に間違えられる。地元漁協の事務所に連れて行かれて質問責めにされたのも、一度や二度ではない。
 ベテランの店長は当然、雪菜も夜間潜水は何度もこなしている。夜の生き物の生態を見たいという客からのリクエストやサンゴの放卵観察など、夜潜る機会は意外と多い。
 夜間潜っている時に時折、雪菜は自分たち以外の何者かが海中に存在しているような錯覚を感じる。視界の悪い水中では、かつての海女たちも同じ様な感覚を味わったのだろう、三重や徳島の海女の間では「ともかずき」という怪異の話があった。「かずき」とは古い日本語で「潜る」という意味らしい。濁った海で鮑漁をしていると、一緒に潜ってくる異形の者がいるという民話だ。濁っていたり、暗い海中では光の関係で思わぬ方向に自分の影が映っていて、びくりとすることがある。「ともかずき」とはこんな感覚から生み出された海の怪異なのかもしれない。
 月明かりの今夜はなおさら予期しない方向に自分達の影が映る。そのためか普段より一層、何者かが同じ海中にひそんでいるよう感じられた。ライトの届かない闇から自分たちをけているのではないか。
 水中では心を落ち着かせていないと、呼吸が荒くなり空気の消費が早くなる。不安は極力忘れるようにしないといけない。特に今夜は潜る目的が目的だ。雪菜はゆっくりと息を整え、落ち着けと自分に言い聞かせた。
 深度は十五メートルになっている。コンパスで方角を確認すると、ちょうど自分たちの前方からサンノジバエからの潮が来ている。空気残量もまだ十分ある。店長は自分よりもっと長く潜っていられるはずだ。二人揃って着底して、潮の流れの中をライトで照らす。
 勘は的中した。
 水中をゆらりと近づいてきた影があった。ライトで照らすと人の形をしている。整えていた呼吸が乱れ、ゴボッと大きな泡を吐いた。店長が雪菜に「大丈夫か?」とハンドシグナルで聞いてくる。彼は落ち着いていた。
 この県西南部の海域でも毎年、一人二人は不幸にして事故で命を落とすダイバーがいる。ダイビングは命掛けの趣味でもあるのだ。ガイド歴も長い店長だけに、雪菜の知らない非常事態も経験してきているのだろう。彼の新たな一面を見る思いだった。
 影の主は宗おじいだった。ライトに照らされた宗おじいは、丸一日海中を漂っていた割には魚に囓られたりしていない、きれいなままの死体だった。店長と二人で生きた人間をエスコートするように宗おじいの両脇を支えると、陸へと泳ぎ始める。
 「宗さん、もうすぐおかだよ」
 声にならない雪菜の呼びかけは泡に変わって、三人より先に海面へと上がっていった。

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