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【短編小説】春と去る

 真南に沖に向かって突き出した全長二〇〇メートルほどの突堤は、幼い頃からよく来る場所だった。先端からほんの十数メートルほど沖寄りに出ただけで、水は一気に深度が増していて、近年は大型客船が突堤をかすめるように行き来することも増えた。ただし大型船の航行が増えるにつれて、突堤周辺でよく海面を滑走していたウインドサーファーは次第にその数を減らしていった。
 亮三がこの突堤へ来る目的は昔も今も変わらない。最初は父や兄たちに連れられて来ていた。そのうちクラスメイトや部活仲間と一緒に来るようになり、勤め出してからは同僚とも誘い合ったが、やがては一人で来ることとが多くなった。
 目的は釣りである。子どもの頃は重りと針だけの簡単な仕掛けでオキアミを餌にカサゴ狙いだったが、そのうちサビキでアジやサバを数釣りするようになり、一時はルアーでシーバスも狙った。最近はじっくりと腰を据えてのクロダイ狙いが多い。
 そんなふうにして、亮三はこの突堤に五十年近く通って来ている。
 今日も朝からのんびりと釣り糸を垂れていた。日曜日なのでほかの釣り客も多めだ。ぽつりぽつりと、お互いに節度ある間隔を空けて思い思いに釣り糸を垂らしたり、ルアーのキャスティングを繰り返したりしている。
 突堤の根元の海岸線には東西に砂浜が広がり、穏やかな波が浜辺を洗っている。春の日差しのもと、浜にはゆらゆらと空へと上がっていく空気のゆらめきが見えていた。
 突堤から陸を振り返った右手、海岸東側の高台になった場所には、今年に入ってすぐに営業を停止したホテルの建物が立っている。
 突堤を挟んで反対の西側には、砂浜のすぐ北側に松原が広がっている。こちらの浜は真夏には海水浴場になり、松原はキャンプ場としてテントも張れた。ただし、ここ数年はすっかり訪れる海水浴客は減り、キャンパーも稀になった。以前はシーズンになると浜辺で数軒の海の家が営業していたが、客の減少や経営者の高齢化もあってどこも閉じてしまった。今は町が簡易シャワーとトイレを浜に整備し、アイスクリームや飲み物を扱う質素な売店が海開き期間中だけ営業している。
 突堤の根元から男が歩いてくるのが目に入った。亮三に向けて軽く手を上げる。亮三も軽く手を上げ返したが、そのタイミングで浮きが沈んだ。急いでアワセをくれると、ちょっとした抵抗とともに釣り糸が左右へと走り出した。なにか掛かったようだ。
 竿を立て、バレないようにいなしながら少しずつリールを巻く。掛かった獲物ははじめは少し抵抗を示したがすぐにおとなしくなり、亮三の足下まで近づいてきた。水面下に姿が見える。クロダイだ。さらにリールを巻き、クロダイの顔を海面に出して空気を吸わせる。空気を吸った魚は一気に力が弱まる。
 そばに来ていた男が、慣れた手つきでタモ網を差し出す。水に差し入れた網にそっと亮三がクロダイを引き寄せて入れると、男は素早く突堤の上に掬い上げた。
 「まぁまぁのサイズだな」
 「そうだな。焼いて食うには丁度くらいだ」
 亮三が獲物をクーラーに入れる。変わりにクーラーの中から小さめの缶ビールを二本取り出した。
 「片づいたか?」
 一つ男に渡しながら、聞く。
 「ああ。もう残務はすべて終わり」
 「結局、どうなるって?」
 「売却先によると、いったん更地にするらしい。建物も近いうちに壊されるだろう」
 「勿体ないな。全室オーシャンビューだったのに」
 「出来て四半世紀だし常に潮風に当たってたからな。ホテルとして使い続けるにはちょっと難があったのは確かだ」
 男は一気にビールを飲み干すと、くしゃりと平たく缶を潰した。
 「そのビニールに入れておいてくれ。まとめて持って帰るよ」
 亮三がクーラー横の袋を指差す。
 「悪いな。ここにいるかな、と思ったらやっぱりいたから、会えて良かったよ」
 亮三の携帯が鳴った。妻からだった。クロダイが釣れたことと、男と一緒にいることを伝えると切った。
 「咲季さきが来るよ。高野たかのがいるって言ったら、顔を見たいって。それに今夜はクロダイの香草焼きを作るから、食べに来ないかとも言ってるけど?」
 「そうか。ここに来るのか。俺も最後に咲季ちゃんに挨拶したかったから丁度良かった」
 「最後?」
 「うん。今夜の最終便で東京に帰る」
 「そうか。結構急だな」
 「ああ。明日からはいきなり本社勤務だよ。ここののんびりした空気ともお別れだ」
 高野がぐるりと視線を巡らせる。突堤の西側の海水浴場の浜を見つめながら懐かしむように言った。
 「もうあれから二十年以上経ったんだな」

 高野と亮三はかつて町をあげて開催されたイベントの、準備委員会で知り合った。
 当時、高野は海岸で開業したばかりのホテルの企画営業部の、亮三は町役場の観光振興課の若手だった。
 時代はバブル経済の最末期だった。高野の勤めるホテルは国内外に系列施設を展開していた。この海辺の町に進出するきっかけは当時の町長の誘致だったが、誘致派と反対派の間で地域にちょっとした対立が起きた。ホテル進出後は地元雇用を増やしたり、地域興しのイベントに積極的に協力したりと、住民に受け入れられるよう割と努力が必要だった。
 ある夏に役場や商工会、ローカルテレビ局で地域を盛り上げるイベントを開催することになった。当時流行っていた「ねるとん」パーティーを砂浜で行おうという話になったのだ。今なら婚活イベントとでも言うのだろうか。ただ、男女を集めて告白大会をするだけでは芸がないというテレビ局の意見で、砂浜でビーチフラッグ大会を男性陣にやってもらい、上位順に目当ての女性に告白できるという趣向になった。亮三も高野も運営側の一員ではあったが、「にぎやかし」としてビーチフラッグに参加することになった。
 女性陣の一員として咲季も参加していた。彼女は町の中学校の英語教諭だった。大学を県外で過ごした以外は、生まれも育ちもこの町だった。幼なじみも多く残っていて、友人の付き添いといった感じで参加したらしい。
 咲季は亮三とは学年は違うが顔見知りだった。高野は一度だけ、社会見学でホテルに来た生徒の引率役だった彼女を見たことがあった。本当はかなり整った顔立ちをしているのにお堅い職場で浮かないように配慮してか、地味な眼鏡にありふれたスーツでその美しさを隠すように装っていたのがかえって印象に残っていた。
 残念ながらイベントは企画側が想定したほどには盛り上がらなかった。しかもビーチフラッグの決勝戦は、賑やかしだったはずの亮三と高野が勝ち残ってしまった。
 決勝のステージに立った時、高野は何気なく女性陣に混じる咲季を見た。さすがに今日は夏の海辺に相応しい華やかな服装だった。彼女は少し緊張したような面もちで亮三を見つめていた。
 「そういうことか」。高野は一瞬で覚ったが、かといってわざと手を抜くのもアンフェアだ。勝負には全力を尽くそうと気合いを入れたが、かえって気合いが入りすぎて体が堅くなったのか、スタートのピストル音に一瞬反応が遅れた。全力でフラッグ目がけて砂の上を駆けたが、結果としてその視界にはフラッグに跳びつく亮三の背中を鮮やかに焼き付けることになった。
 その後の告白タイムでは、まっしぐらにフラッグを目指したように亮三は咲季の前へ駆け寄った。咲季は笑顔で少し涙を浮かべていた。
 翌年以降、同様のイベントは開催されることはなかった。二年ほどして、亮三と咲季の結婚報告のハガキを高野は次の赴任地で受け取った。さらに次の赴任地では、子どもが生まれた知らせを受けた。その後もあちこち転勤を繰り返し、二年前にこの町へ二度目の赴任をすることになったが、その役目はホテル閉鎖の事務処理が主な仕事だった。

 「本当に、冗談みたいなイベントだったな」
 砂浜を見ている高野がなにを思っているのかが分かるかのように、亮三が言った。
 「ホテルの内部資料にもほぼなかったことにされてたよ」
 二人で笑った。
 「二人で何笑ってるの?なんか気味悪い」
 いつの間にか咲季が来ていた。年齢は重ねたものの、顔立ちはあの頃とそれほど変わっていない。笑い皺が少し目立つかもしれないが、それは亮三とともに良い年月を重ねてきたせいとも言えるだろう。
 我ながら見事な当て馬だ。あの日を思うと高野は内心おかしかった。当て馬でも名馬の範疇に入るんじゃないだろうか。
 「そうか、高野さん、帰っちゃうんだ」
 今夜立つと聞くと咲季が少し寂しそうに呟いた。
 「しばらく本社で待機して、その後はセブかバリの系列ホテルで支配人だよ」
 「あら、出世ね」
 「最後のご奉公かもな。独り身だし、会社も行かせやすいんだろう」
 春の柔らかな太陽が南中した。時間は午後に移ろおうとしていた。

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