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黄葉の頃に~母の命日に

母は被爆者でした。そして東京大空襲も経験してます。

なのに愚痴を言わなかった。

ひたすら人生を楽しくと生きたと思います。毎年夏に、どれほど被爆者が辛かったかを語りますね。結婚できず、その辛さと共に生きたと。

母は8月6日の式典はテレビをつけて、音を聞きながら化粧をしてました。近づけない雰囲気があったのを覚えています。

被爆した事は、私が高校生の時に聞きました。

「急に死ぬことがあるかも。その時はお医者様に貴方から話してね。父と兄にはキノコ雲を見たと言ってるから。」

と言っていました。原爆手帳を受けたのは年金を受けるようになってから。父に話した時に被爆者手帳を受け取る手続きをしたそうです。

母は顔の皮がむけたほど酷かったのにケロイドは残ってませんでした。腕に微かにケロイドは有りました。

8月6日夜に、広島の横川駅から列車で知らない農家の民家に泊めてもらい、その頃、祖母が着物と交換し、毎日イチジクをタライ一杯貰って来たそうです。毎日イチジクを沢山食べてたそうです。それと大雨で、近くのレンコン畑からレンコンがその家に流れてきて、レンコンもお腹いっぱい食べたとも聞きました。その家に1,2カ月お世話になったとか言っていました。

母がイチジクを食べる度に、原爆の時~と毎回聞いてました。

当時の人は優しいですね。ボランティアとも思わず、蚊帳の中へ、きれいなシーツの布団に火傷でボロボロだった母を寝かせてくれて。だから母は助かったと思います。

母はボランティアを好みませんでした。良い人に見せることを嫌がりました。だから私はボランティアをしても、ボランティアと言いません。

だってあの日に、母を助けて頂いた恩返しであり、たまたま広島の家に戻った隣に、皮膚科医が越してきて、日に3回診て頂いたお礼であり、ボランティアは好みません。

よっぽど『偽善者』と言われることを背負いと思います。助け合いは当然でありたいですもの。それが母でした。

そう優しくはそっと気付かれずにがカッコイイですよね。


母を凄いと思います。前に前にと生きたと思います。後ろを振り向くより、人生を思いっきり楽しみ生きたと思います。

それで良いのでは?

人それぞれですが、私は過去に捕らわれず、楽しんで生きた母を誇らしく思います。

そう……どんなに悩んでも苦しんでも、過去は変えられません。変えられるなら~でも変えられないのです。

オシャレな母は、死ぬ時まで黄葉が演出を私に見せました。


今日のつくばの街路樹


つくば市は街路樹がキレイです。葉が落ちて舞ってる中、母の人生を黄葉が演出したように思います。

母はとにかく凄かったです。

着こなしがオシャレでしょ?


ボケた母は自分で「悪女」と言ってました。でも思うに戦争が残したPCSDに思います。

悪女と言っている人ほど、芯は優しいのかもね。優しそうに見せてる人ほど~なのかもし知れません。

私は良い人に見せたくありません。それだけは嫌です。ただ法律を守っていたいです。人にどう思われるかなんて気にしたくないです。

だって詐欺師って、皆が言います。「物凄くいい人よ」と。警察の方が一言言ってました。「本当に良い人に見えるのよ。だから騙せるんだ。」と。

なるほどですね。

それを思うと、良い人に見せるのは良くないことですね。法律だけ守っていれば良いのです。人の言うことなど気にせず、私は自らも人を気にせずかな?

多分これは母の影響でしょうね。ただ母は
「言葉で人を傷つけない。嫌な時は黙って居なくなる。」
は徹底してたようです。私も教わりました。

母に1番学んだのはやはりオシャレかな?今はしてませんが、
子の服は私が決めてます。服を選ぶ気が無い子なので。出してある服を着ます。全く興味を持ちません。ファッション雑誌を1度も購入したことが無いと思います。美容院でも読みません。アニメ一筋~(笑)

多分、子の買い物嫌いは、子が幼い頃、母の買い物に付き合いデパートに良く行っていたからでしょう(笑)

今、母には、『私を産んで大変だったね』と伝えたいです。

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