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人生最高血圧

上の親知らずの根は副鼻腔のすぐ横にありますからね。
抜いたとき、副鼻腔に穴が開いちゃう場合があるんですよね、稀に。
で、抜いたはずみに運悪く歯根が小さく欠けることもあってですね。
そのかけらを取り除こうとしてつまみ上げた拍子に、ぽろっと落としちゃう、な~んてことがあるんです。
で、副鼻腔に落ちちゃうとね、これはもう処置するために全身麻酔が必要なんですよね、ハハハハハ。
医師はさわやかに笑った。

「いや先生、ハハハハハじゃなくて。
 そこはひとつ、慎重にお願いします」
真顔で頼んだつもりだったが、表情に真剣さが足りなかったのだろうか。
医師は、軽い調子でさらに続けた。

そう言われてもね~。まあ、めったにないんですよ、そんなこと。
ぼくもね、隣で治療していた先生が落としたのを一度見たことがあるだけで。
でもまあ、身近で一度あったわけですし、絶対にないとは言えませんねえ、ハハハハハ。

ちょっと待て。
同じことを、ライターが言ったらどうだろう?
……締め切り前にいろいろ不運が重なると、遅れちゃうことがあるんですよね、稀に。
私も他のライターが遅れたのを見たことがあるので、絶対に間に合うとは言えませんねえ、ハハハハハ。
仮に私の笑顔が最高にキュートであっても、その場で「お帰りください」と言われるはずだ。

それなのに、だ。
私は薄ら笑いを浮かべて、不吉な発言を受け入れることしかできない。
相手が歯科医師だからだ。
ただの歯科医師じゃない。
来月、私の親知らずを抜く予定のお方だからだ。

先週、生まれて初めての抜歯のために伏魔殿、いや大学病院を受診した。
総合受付で保険証を出す段階で、私はすでに緊張していた。
当たり前だ。歯医者さんが怖いんだから。

近所のクリニックだって怖いのに、こんなザ・歯医者・オブ・歯医者ズみたいなところに来なければならないとは。
私は前世で相当な悪事を働いたに違いない。
強盗だろうか。詐欺だろうか。食い逃げだろうか。

前世に思いを馳せつつ受付をすませて診療科にたどりつくと、初診票を渡された。
体調や病歴などに加え、血圧を記入する欄がある。
もろもろの記入を終え、待合室の片隅にある血圧計で血圧を測定した。
血圧計からペロ~ッと出てきた記録紙を見て、軽くのけぞった。
見たこともないほど数値が高かったのだ。

診察の順番を待ちながら、軽く迷った。
もう一度、測ってみようか。
でもなあ。順番を待っている人がいるし、それ以上に、この緊張が治まらない限り、何度測っても結果はかわらないような気もする。
やり直すべきかどうかの判断がつかず、近くに来た看護師さんに聞いてみた。
「あの~、血圧を測ったら人生最高値が出たのですが、もう一度測るべきでしょうか?」
看護師さんは、プロだった。
呆れた顔も見せずに、やさしく答えてくれたのだ。
「そういう方、たくさんいらっしゃるんですよ。診察のとき、先生に普段より高いことを伝えていただければ、測りなおさなくて大丈夫です」

という経緯で、私は顔をこわばらせ、右手と右足を同時に出しながら診察室に入った。
自分の緊張状態を伝えつつ問診や診察をすませ、抜歯方法に関する説明を受けはじめた。
そこで「副鼻腔に歯のかけらを落っことしちゃうかもハハハハハ」という無責任発言が飛び出したのだ。

本来なら年長の社会人として「プロとして仕事と向き合う心得」を説くべき場面だけれど、今、このお方の心を乱すような発言をするわけにはいかない。
だってそんなことをしたら、いざというときに集中を欠いて副鼻腔に穴をあけ、手がすべって歯根を割り、それをうっかり副鼻腔に落としてしまうかもしれないではないか。
虚ろな目で医師の笑い声にハモりを入れていると、ススッと看護師さんが寄ってきてやさしく言った。
「念のため、血圧を測りなおしてみましょうね」
測定結果は、普段よりやや高いぐらいの数値に落ち着いていた。

血圧を測る理由は、私のように歯医者さんを怖がる人の場合、治療中に危険なほど血圧が高くなるケースがあるためらしい。
が、二度目の測定で、私は特に心配なしと判断されたようだ。
そういえば、診察室に入ってきたときにはのどの下あたりにあった心臓が、本来の位置に戻っているような気がする。
緊張がほぐれたのは、医師と話したためだ。
顔を見て言葉を交わしたことが大きいと思うが、「歯のかけらを落っことしちゃうかもねハハハハハ」なんて話を聞いて無理やり笑ったりしたのもよかったのかもしれない。

それにしても、歯科医師ってたいへんな職業だ。
治療の技術だけではなく、歯医者さんを恐れて血圧を上げたり下げたりする面倒な患者を扱う技も求められるのだから。
もしかしたら目の前にいる医師は、私が思ったような無責任野郎ではなく、すぐれた話術で患者の心を解きほぐしてくれる名医なのかもしれない。

でもなあ。
できれば私の抜歯をするときは、抜群のトークスキルより、抜群の手元の安定感を発揮してくれることを祈りたい。


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