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複数の物部神社

 近現代の文献によると、大石神社が物部神社と呼ばれた時代があったように思われる。
 実際、大正6年の社寺台帳では「一ニ物部神社ト称ス」とある。社寺台帳は「永久保存」と但し書きされた七里村役場(現甲州市)の公式文書であり、全くの出鱈目を書いてあるとは思いづらい。
 ただ、宝暦二年の赤尾村諸色明細張には「四石五斗余 大石大明神領 神主神おそ村土屋石見」とだけ書いてあり、四石五斗は前記事で触れた通りに徳川家光によるものだとしても、それ以外の情報が見当たらない。
 何らかの基礎となる断片的な情報があり、それを元に、歯切れの悪い形で書き記したと考えれば合点がいく。
 そこで、山梨の物部神社について論じた現代の文献をいくつか紹介しよう。

甲斐国社記寺記 (1967)


 甲斐国社記寺記(1967)においては、社寺台帳と全く同じ社記が繰り返されているため、大正時代に確定させた情報はそのまま後世に受け継がれているようである。
 すでに大正時代に書かれた永久保存版の役所記録にそのように記載があれば、踏襲するのは自然な流れであろう。むしろ現代を生きる我々は、これを正式な歴史として捉えてもいいのかもしれない。
 そう考えると、「一ニ物部神社ト称ス」は、事実であると考える方が自然かもしれない。しかしながら「物部神社ト称ス」の前の「一ニ」がきになる。
 一説には、という意味で付け加えられたと考えられるが、物部神社であった可能性があるが、現段階では断言できない、といったところだろうか。
 「古代甲斐国の交通と社会(著:大隅清陽)」(2018)では、笛吹市石和町の物部神社が延喜式にある甲斐国山梨郡の物部神社であることを仮定して、山梨郡西部の群集墳と関連づけており、6世紀頃にこの地において物部氏の部民が繁栄したと結論づけている。
 この見方は確かに正しいと言えるかもしれない。しかし、大石神社の社記に登場する雄略天皇は5世紀の人物であり、時代的には百年前になる。
 また、不思議なことに山梨県東部には物部神社の論社が複数あり、東にあるものほど由緒が曖昧で、規模も小さくなってゆく。

大石神社 境内社


 ここで、一つの仮説がたてられる。
 勧請したと言われる海部直赤尾物部菟代宿禰が、雄略天皇の時代(5世紀)に、大きな川沿いに現在の「重川(甲州市内の川)」まで移動してきた可能性である。
 この地域には縄文時代から人々が住んでいたため、彼らと共に集落を作ったかもしれない。そこで、自身の先祖である可美真手命を祀る物部神社を「とりあえず」建立したとしても不思議はない。
 部民は土地での収穫量の変化や、集落の規模拡大に応じて移動し、その度に前よりも大きな物部神社を建立していく。
 その過程で作られたのが神社の一つが大石神社であり、彼らが栄華を極めた6世紀頃に建てたのが、現在の石和の物部神社だと考えれないだろうか。
 それ以降は物部氏が衰退を始めるため、石和の物部神社がもっとも新しく、由緒もはっきりしている大きな神社として残った可能性が考えられる。
 延喜式は平安時代に編纂されているため、記載される物部神社は、石和のものであったと考えるのが妥当であろう。
 一方で、平安より前の時代の部民の移動と、複数の物部神社の建立が事実であったとすれば、現在山梨県東部に見られる物部神社の複数の論社は、時代は違えど、すべて物部神社であったのではないだろうか。
 そうであれば、大石神社にも物部神社と言われた時代があり、その断片的な記録や口伝が残っていれば「一ニ物部神社ト称ス」と言う表現になったとしても不思議はない。
 付近で平安時代の和歌刻書土器が発見される(於、ケカチ遺跡)土地柄であったとしても、5世紀の文字記録を探し出すことは、残念ながらほぼ不可能であろう。
 また、小野正文氏曰く「この地域の神社で、由緒がはっきりしているものは殆どありません。ほとんどトラブルもなく生活してきた證だと思われます」とのことであるため、おそらく私の仮説が証明される日は来ないだろう。
 しかし、山梨県の東部において、物部神社が時代ごとに移動し、複数残された可能性もあるという考えは、ここに記録として記したいと思う。
 いずれ真実に出会いたいという気持ちを込めて、ケカチ遺跡出土の和歌刻書土器に刻まれた歌を最後に載せたい。
 「我により 思い繰らむ 絓糸の 逢はずやみなば 更くるばかりぞ」
 (奈良女子大学:https://opac2.lib.nara-wu.ac.jp/webopac/bb27905426pp1-19_nw._?key=AGWRPK

大石神社 拝殿


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