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大石神社の調査


塩山駅前 丸石道祖神ら

文献調査

 上の写真のように、塩山駅前では、大石神社に祀られているのと同様な丸石道祖神が見られる。やはり、この地域に広く分布する古典信仰の対象なのだろう。
 さて、神社の歴史を探るため、最近の文献から紐解いていきたい。

甲斐国社記寺記 第1巻 1967年

 1967年に編纂された「甲斐国社記寺記」には、前の記事にあった大正時代と同様の内容が記載されている。
 「明治三十四年九月従来ノ祭日九月十五日ヲ十月十五日二変更ス」とあるが、明治五年十二月(旧暦)に日本はグレゴリオ暦(太陽暦)に改暦しているため、祭日を月後れに変えた可能性も考えられる。
 月遅れの祭りの代表例は、8月7日あたりに執り行われる仙台の七夕祭りである。旧暦の七月七日(伝統的七夕)は、グレゴリオ暦の8月頃になることが多い。一方で、完全に旧暦に合わせると毎年日付が変わってしまい煩雑である。このため、旧暦の七月七日に近い日付と言うことで、8月7日(月遅れの七夕)と決めているらしい。
 大石神社でも、明治期に似たような変化があったのかもしれない。
(ちなみに漢数字とアラビア数字が混在しているが、旧暦は漢数字、太陽暦はアラビア数字と使い分けている)
 大正の社寺台帳でも境内社は「七社」となっており、その記録は「甲斐国社記寺記」でもそのままである。しかし、どうしても記録の中ですら「六社」しか記載がない。この矛盾が解決される日は来るのだろうか。
 別件であるが、江戸時代の地域の様子を記録した、宝暦二年の「赤尾村諸色明細帳」には「四石五斗余 大石大明神領 神主上おそ村土屋石見」と記述されている。
 宝暦は江戸時代であり、社寺台帳(大正6年)の「寛永十九年八月徳川家光社領高四石五斗余寄附」という記録と矛盾がない。
 このため、江戸幕府から無下にできない程度には大切に扱われていたことは確かであろう。
 また、おそらく「上おそ村」は現在の上於曽(甲州市塩山の地区)のことと思われ、当時の宮司の名前も「土屋石見」と記されている。
 祠が神社となる基準は難しいが、当時は宮司がいる立派な神社であったことがうかがえる。

フィールドワーク

 甲州市教育委員会文化財課の文化財指導監である小野正文氏にフィールドワークにご協力いただいた。
 神社内には、多くの石造物が残されている。以下が一覧である。
・水鉢    享保六年  (1721)
・灯籠    寛保二年  (1742)
・灯籠    嘉永五年  (1852)
・三峰社   大正13年  (1924)
・注連柱   大正13年  (1924)
・社標    皇紀2600年 (1941)
・改修記念碑 皇紀2600年 (1941)
・植樹記念碑 平成元年   (1989)
・即位記念碑 平成2年     (1990)
・記念植樹碑 大正4年     (1995)
 小野正文氏にお話を伺ったところ、以下のようなコメントを頂いた。
 「江戸の中期から年号のある石造物があるということは、一般的に稀なことです。貴重です」
 このような遺跡を一目見に行ってはいかがだろうか。

水鉢
享保六年

余談(暦の歴史)

 「赤尾村諸色明細帳」が書かれた宝暦と言えばだが、日本の暦に「宝暦暦」と言うものがある。
 小説「天地明察」の主人公である渋川春海により、中国の文献を基とした、日本初の国産暦である「貞享暦(大和暦)」が編纂された。この功績により渋川は幕府天文方となる。
 これ以前は編暦の実権は陰陽寮にあったのだが、以降、天象観測などの業務と共に、暦を作る業務は幕府天文方が管轄することとなった。
 権限を陰陽寮に戻そうと、安倍泰邦により選ばれた次の暦が「宝暦暦」である。しかし、内容は「貞享暦」から大きく変わっていなかったらしい。
 しばらくして、高橋至時と間重富により、中国から伝わった西洋天文学を導入した「寛政暦」が編纂される。これは天体の楕円運動を考慮した日本初の暦である。
 高橋至時は幕府天文方であり、再び編暦の実権は幕府のものとなったのだった。
 のちに天文学書「ラランデ暦書」がフランスから直輸入され、最新の西洋天文学を取り入れた日本独自の暦「天保暦」が渋川景佑(幕府天文方)により編纂される。
 西洋天文学を直輸入したこともあり「天保暦」で初めて、日本の編暦能力は、中国を超えたと言われることもある。
 私たちが旧暦と呼んでいるのが、この「天保暦」であることは、あまり知られていない。
 いずれにせよ「赤尾村諸色明細帳」が書かれた宝暦には、大石神社とは全く関係のないところで、暦の取り合いが起きていたようである。

余談(徳川吉宗)

 ところで、大石神社に見られる最も古い石造物は享保六年の水鉢である。享保を通して江戸幕府の将軍であったのは、暴れん坊将軍こと徳川吉宗である。
 吉宗は、同時代劇のために良い意味で暴れん坊であったイメージを持つ人も多いと思うが、実際に先駆的な考えの持ち主であったようだ。
 享保の改革によって幕府を再建する一方で、民に正しい時を授けるべく、天文暦学にも大きな関心を抱いていたと言われる。
 自ら簡天儀・測午表儀などの実用的な観測装置を考案し、城内吹上御庭などで天体を観測していた。また、後に天文方となる猪飼豊次郎らを召しては、和漢の暦法のみならず西洋暦法についても問いただしていた。
 吉宗は西洋天文学を導入して改暦することを、この頃すでに目指していたようだ。
 しかし、当時諸般の事情で力を失っていた幕府天文方や、陰陽寮にその力はなく、志半ばで吉宗は死去することとなった。
 その後は、土御門家が「宝暦暦」に改暦することで編暦の実権を握ることとなる。
 ただし、前述の通り「貞享暦」から大きな理論的な変更があったわけではない。むしろ宝暦三年暦には、改暦を待たずして、間違った補正値がこっそり「貞享暦」に加えられたことが分かっている。
 結果、宝暦十三年九月の日食を暦に記載しないという失態をおかすこととなった。
 吉宗の抱いた西洋天文学導入による改暦という理想の実現は、後世の高橋至時(幕府天文方)と間重富による「寛政暦」の誕生を待つこととなる。

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